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「これは政教分離を定めた憲法に違反する」という見解がある。
たとえばキリスト教の信者たちがそうだ。「私はキリスト教を信じているのに、国費がキリスト教以外の宗教に費やされるのは、私の宗教心に反する」というような見解だ。
一方で、「大嘗祭が宗教? ほんとかね?」と疑う気持ちになる人も多いだろう。
そこでこの問題をほじくってみた。
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私の第一感は、こうだ。
「皇室神道というのは、特定の神様(ゴッドやアラー)もいないし、経典もないし、布教活動もない。そもそも皇室神道という宗教の信徒である一般国民なんて、聞いたこともない。そんなものを、宗教と見なすのはおかしい」
そこで調べてみる。まずは、Wikipedia に記述が見つかった。
多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事を共に行っていた。皇室の神道色が強まったのは、朝廷の復権を志向して光格天皇が行った宮中祭祀の復活によってであり、それまではむしろ仏教色が強かった。
( → 神道 - Wikipedia )
さらに、次の本が見つかった。本項のテーマをズバリ扱う感じだ。
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読者評から抜粋しよう。
宗教としてもっとも大切な経典、教義、救済などのコア部分が欠落した神道。
 ̄ ̄
他の宗教にはあって普通のものが神道にはことごとくない。
 ̄ ̄
私たち日本人の、古来からの土着宗教である神道は、一神教と比べると際立ってユニークな特徴があります。
一言で言えば、シンプルです。
開祖も宗祖も教義も教団もなく、救済もありません。
神社の中心には、何もなく、敬拝の対象となる像、本尊もありません。
やはり、私の第一感の通りであるようだ。
つまり、皇室神道は、普通の意味での「宗教」とはまったく違うのだ。「宗教性を帯びている祭祀」という表現がピッタリと来る。
宗教には、信仰の部分(核心)と、行事や形式などの部分(周辺)とがあるが、前者がなくて後者だけがあるのが、皇室神道だ。
したがって、キリスト教の信者が皇室神道に参列したとしても、それはキリスト教を裏切った(改宗した)ことにはならない。ゴッドやキリストとは別のものを信じるようになった、というわけではないからだ。単に行事に参列しただけのことなのだ。
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結局、皇室神道というのは、宗教的ではあるが、宗教ではない。端的に言えば、「宗教ふうのコスプレをしているだけだ」とも言える。その程度のことにすぎないのだ。
当然ながら、「国家が特定宗教を推進することの弊害」みたいなものは発生しない。たとえば、次の例だ。
・ 国家が国家神道(靖国神社)の信仰を強制する。
・ 国家がイスラム教の信仰を強制する。
・ 国家がカトリック教や新教の信仰を強制する。
※ 新教にはイギリス国教会を含む。
こういう宗教的な強制には、何らかの弊害が生じる。しかしながら、皇室神道には、それは当てはまらない。なぜなら、国民は誰も皇室神道の信者ではないからだ。信者になることすらできないだろう。(皇室の一員ではないので。)
というわけで、皇室神道は宗教ではない。したがって、大嘗祭のために公金を支出したとしても、それは政教分離には反しない。……それが私の見解だ。
※ 異論は認めます。私見の強制はしません。
宗教的な装いだが、宗教ではない行為の一例でしょうか。
読みやすいので私はこっちの方が好きです。
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聖書の記述を歴史的な事実と考えるキリスト教の一派のように、「日本人は天皇が神の子孫であると信じているからファナティックな攻撃を仕掛けてくるのだ。天皇も猿から進化したことを知れば彼らも目が覚めるに違いない」とアメリカ人は思ってしまったわけですね。
もちろん全然そんなことはなかったわけで。
これがピッタリな言い方と思います。
日本人独特の宗教観とマッチすると思います。
万物に神が宿ると考え、『畏れる』のが日本人の感覚ではないでしょうか?
その八百万の神に対して、日本人の総代として祈りを捧げるのが、天皇をはじめとする皇室の使命ではないかと思います。
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