ふるさと納税の善悪を考えよう。特に、これを「善だ」と見なす屁理屈について。
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ふるさと納税の利用者は、「ふるさと納税を利用したって、別に悪ではない」と思う人がいる。「自分がやったって、地元自治体が破綻するわけじゃないし、被害額はスズメの涙だ。一方、自分はとても大きな利益を得る。損害はスズメの涙で、利益は巨大だ。差し引きすれば、利益の方が大きい」
というような理屈。(屁理屈かな)
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これが屁理屈であることは、次のことからわかる。
「同じことは脱税についても成立するので、その理屈だと、脱税が許容される。納税する人は一人もいなくなって、国や自治体は破綻する」
特にふるさと納税についても考えても、同様だ。
「控除の対象となるふるさと納税額は、総所得金額等の40%が上限だと定められている。つまり、全員がそれをやったら、都会の自治体は税収が 40%も減ってしまうので、破綻する」
いずれにせよ、国や自治体の税収は大幅に減ってしまうので、もはやまともな行政をなすことができなくなる。地方自治体で言えば、学校や警察を維持できなくなる。こうなるともはや国家としてはメチャクチャだ。無政府状態となって、粗暴な荒くれ者たちが「ヒャッハー」と騒いで、暴虐の限りを尽くす状態となる。軍隊もないので、最後は隣国が攻め込んできて、制圧されて、奴隷となるしかない。
というわけで、「全員が納税を回避したら」「全員がふるさと納税を実施したら」というような条件下では、無政府状態も同然となる。だから、そのような「納税回避」「ふるさと納税」というシステムは、(結果的に見れば)悪なのである。
※ 「金を盗むことは悪だ」という倫理(規範主義)とは別に、プラグマティスティックな損得勘定で考えるだけでも、それはけしからんことだ、とわかる。
※ 倫理(規範主義)による発想は、前項で示したリンク先にある。
[ 付記 ]
なお、個人レベルで言うと、この制度の是非と、この制度を利用するかどうかとは、別のことである。
つまり、次のようなことは可能である。
「ふるさと納税はけしからん、と思うながらも、ついつい欲望に駆られて、ふるさと納税を利用してしまう」
こういうことは可能である。
また、こういうことをしている人を、非難するべきではない。なぜなら、それは合法的なことであるからだ。合法的なことをやっている人を非難するべきではない。
すると、矛盾を感じる人もいるだろう。
「ふるさと納税は悪だ、と言っておきながら、そのような悪を実行する人を非難するべきでないとは、これいかに?」
と。
そこで疑問に答えよう。
ふるさと納税は悪だ。だから、それを利用する人は、「自分は悪をなしている」と自覚すべきだ。特に、「地元自治体の金を盗むことで、地元住民に迷惑をかけている(利益を盗んでいる)」と自覚するべきだ。
とはいえ、それはあくまでも良心の問題だ。自分が良心の痛みを感じれば、それで足りる。他人から非難される必要はない。
一方、非難したがる人は、たとえ自分が損をしているとしても、ふるさと納税の利用者を非難するべきではない。なぜなら、彼らは合法的なことをやっているだけだからだ。非難するべき相手は、ふるさと納税の利用者ではなく、ふるさと納税を制度化した人々(自民党)なのである。そしてまた、それに乗じて、ふるさと納税の金を掻き集める地方自治体なのである。(首里城再建の金を掻き集める那覇市を含む。)
ふるさと納税は、悪ではあるが、その悪は、「合法的な悪」である。そして、それがどれほど悪であろうと、それが合法的であるからには、それを合法化した人々(政治家)こそが責めを負うべきだ。
その悪を利用している利用者については、あくまで「自分自身で良心の痛みを感じる」だけで足りる。
あとは、その人の問題だ。
トランプ大統領みたいな人(バック・トゥ・ザ・フューチャーのビフみたいな人)であれば、「良心の痛み? そんなもの、知ったことか」と言って、わがままの限りを尽くすだろう。
一方、善良な人であれば、「たとえ合法的であっても、他人に損害をもたらすことはいけないことだ」と感じて、おのれのなした悪を恥じるだろう。
結局、そういう問題なのである。「罰されなければ悪事のやり放題だ」と思う人と、「罰されなくとも悪事はできない」と思う人。そういう人間性の問題なのだ。
「良心を売り渡してでも、自分が利益を得たい」と思う人のために、ふるさと納税という制度はある。
2019年11月05日
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