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原発事故を起こした東電の旧経営陣に、無罪判決が出た。
→ 東電会長ら旧経営陣3人に無罪判決 原発事故で強制起訴:朝日新聞
民事よりも刑事の方が有罪の条件は厳しいので、有罪に持ち込むのは難しい。実際、これまで検察は二度、「不起訴」を決めている。その意味では、法的には「妥当だ」「やむなし」という評価する人も多い。
その一方で、「あれだけの事故を起こして無罪というのは市民常識とかけ離れている」という批判もある。
→ 原発事故、なぜ責任問えぬ 東電元トップ無罪判決に怒り:朝日新聞
なるほど。その二つの意見は、どちらも「ごもっとも」という感じだ。しかし、その両者は同時に成立することはない。こちらが立てばあちらが立たず、だ。二律背反。では、どちらを取るべきか?
これはとても難しい問題だ。困った。
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そこで、困ったときの Openブログ。うまい案を出すわけではないのだが、この問題を解きほぐそう。
まず、私の立場としては、上記の意見をどちらも「妥当だ」と感じる。その上で、結論を下すとすれば、折衷的な(中間的な)結論となる。それは、こうだ。
「責任の大きさからして、有罪とするが、情状をかんがみて、執行猶予とする」
判決では、こうある。
10メートルを超す巨大津波を予見できたかを検討した。「決定的に重要」な判断材料としたのは、国が02年に公表した地震予測「長期評価」だ。東北沖でマグニチュード8.2前後の津波を伴う地震が来る可能性を示したもので、東電子会社はこれに基づく計算で08年3月、原発に「最大15.7メートル」の津波が来るという予測を報告した。
判決は3人が接した長期評価について「具体的な根拠がなく、専門家から疑問が示され、自治体の防災計画にも反映されないものだった」と指摘。予見可能性を生じさせる情報だったとはいえず、大きな影響を生じさせてまで運転を止める判断をするには相当の困難があったとした。
( → 東電会長ら旧経営陣3人に無罪判決 原発事故で強制起訴:朝日新聞 )
これは相当にメチャクチャな判決だ。
(1) 「具体的な根拠がなく、専門家から疑問が示され、自治体の防災計画にも反映されないものだった」というが、それは弁護側からの一方的な意見だ。危険性があることは事前に指摘されていたし、社内でも報告されていた。なのに経営者はそれをしきりに隠蔽・矮小化しようとする努力をしていた。一種の「証拠湮滅」だ。経営に影響が及ぶようなコストを掛けることを避けており、明らかに経営ミスだ。ここには刑事的な意味での悪意や犯意はないが、経営的な意味での利己主義がある。そこには刑事的な意味での可罰性は少ないが、社会的な責任は大きくのしかかる。その意味では、法的義務(安全義務)を果たしていない、と言える。
下記記事もある。
強制起訴によって実現した法廷には、東電社員らのメールや会議の議事録が証拠として提出され、関係者も次々と証言した。政府や国会の事故調査委員会でもはっきり分からなかった、東電社内の動きを検証する場となった。
そこで見えたのは、原発の停止を避け、いかに軟着陸させるかを探る組織の姿だ。高い津波予測を表に出さないよう、つじつま合わせの理屈を練り、他の電力会社や専門家の根回しに走った。経営陣も予測のあいまいさを理由に様子見に終始した。
( → 東電旧経営陣3人、無罪 「津波予見は困難」/<視点>無罪でも消えない責任 編集委員・佐々木英輔:朝日新聞 )
(2) 「大きな影響を生じさせてまで運転を止める判断」というのは、問題のすり替えだ。原告が訴えたのは、「安全対策をすること」であり、具体的には、防潮堤や電源対策をきちんとやることだ。「運転ストップ」までは要求していない。裁判官は明らかに問題のすり替えをすることで、有罪性を勝手に回避している。その意味では「不当判決」と言える。
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以上が私の評価だ。
このことからして、仮に控訴すれば、上級審では判決が覆る可能性はある。特に、(2) については覆る可能性は十分にある。
とはいえ、日本の裁判所は、上級審になればなるほど、「政府の意向に従う」という傾向があるので、実際に覆るかどうかは予測しがたい。
そもそも日本の裁判所は全体的に「政府のやることはすべて正しい」というふうに判決しがちだ。その理由は「政府は民主主義で選ばれたものだから、それを尊重するのが当然だ」という発想だ。ここにはもはや「三権分立」というような発想はなく、「政府の犬」になりさがった裁判所の状態がある。それが今の日本の司法制度なのである。こうなると、政府を批判するような判決は出にくいし、(自民党の国策に反してまで)東電を責めるような判決が出るとは思えない。たとえ屁理屈をこねまわしてでも、東電を全面無罪にするだろう。その実例が (2) である。
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では、どうする? 諦めるしかないのか? いや、一つ、うまいアイデアが生じる。こうだ。
「判決は、危険性を予見できないことをもって、無罪にした。ならば、今後の原発の運転についても、危険性を予見できないことになる。政府や東電がいくら『安全だから運転再開する』と言い張っても、そこでいう『安全だ』という言葉には何の意味もないことになる。どうせ予見できないからだ。したがって、今後は、たとえ原発に安全性が保証されたとしても、原発を稼働するべきではない」
今回の判決では、政府や東電の「安全だ」という言葉には何の重みもないことが判明した。過去の時点で「安全だ」と言い張ったのだが、そのすべては「予見可能性がない」という形で、何の意味もないことになるからだ。
( ※ 比喩。「明日はオオカミが来ます」という言葉は、信頼できる人の言葉ならば意味があるが、無知の人の言葉ならば意味がない。そして、今回の判決は、政府や東電が無知であることを認定した。「無知ゆえに無罪」という論理を取ったからだ。)
とすれば、その方針を、過去から未来に敷衍することができる。
私はこれまで、「危険な原発は止めるが、安全な原発は再開する」という立場を取ってきた。
しかしながら、今回の判決に従えば、政府の認定した「安全な原発」というものには、何の意味もないことが判明した。どっちみち予見できないのだから、安全だと認定しようがしまいが、何の意味もないのである。
なお、論理的には、これを回避する道が一つある。
「 2011年以前にはどうしようもない無知であったが、その後は急激に利口になって、原発の安全性をきちんと理解できるようになったのだ。つまり、一夜にして馬鹿が天才になったのである」
これはまあ、理屈としては成立する。だが、こんなことを主張すること自体が、馬鹿丸出しである。これは単に、「馬鹿が自分は急に利口になったと勘違いしている」だけであろう。
基本的には、日本政府は馬鹿である。それでも、「無知であったと認識する」という意味での「無知の知」があるならば、まだしもマシだった。
しかし裁判所や政府はそういう理屈を取らなかった。かわりに、こう主張した。
「過去においては、無知だったから無罪。将来においては、全知全能であるから原発は安全確実」
こんな理屈はとうてい認められない。われわれとしては、これを聞けば、こう判断するしかない。
「政府には、無知の知がない。過去の無知を反省することができず、過去の無知を責任逃れのためだけに利用している。こんな馬鹿のいうことはまったく信用できない」
それゆえ、結論はこうなる。
「今後の日本の原発運用は、全面停止するしかない。政府や東電は、原発をいじるだけの知性がないからだ」
これが、今回の判決の意味だ。
[ 付記1 ]
では、どうすればよかったのか? こうだ。
「今回の判決では、政府や東電の責任を認める。対策が不十分であったことを認定して、政府や東電には被害への補償の義務があることを認定する。東電経営者への刑事責任も認める。ただし執行猶予とする」
これならば妥当だろう。この上で、「原発被害には個人的責任が大きかった」と判定した上で、事故再発の組織的な防止策をとることで、運転再開を部分的に認めていい。
しかしながら、今回の判決は、その道をふさいでしまった。責任を個人に帰することを避けたせいで、「誰にとっても予見は不能」というふうに認定した。そのことで、「今後も予見不能」という判断に導いた。かくて必然的に、「今後の原発再開は不可」という結論になる。
ま、「小さな罰を避けようとしたら、より大きな罰を受けざるを得なくなった」というようなものだ。小賢しい連中の取る道。
[ 付記2 ]
具体的に言おう。たとえば、浜岡原発がある。中電はこれを再稼働しようとしている。そのとき、「南海トラフ地震については十分に考察して対策してある。防潮堤も設置してある」と主張する。
しかし今回の判決に従うなら、「中電は南海トラフ地震について大規模であることを予見できていないから、たとえ再稼働で大事故を起こしても無罪」ということになる。
ま、実際、中電は予見できていない。非常に危険な状態になると人々が指摘している(私も指摘している)のに、中電はまったく理解できていない。人々は予見可能であっても、中電だけは予見が不可能だ。……これはちょうど、福島原発と同様だ。
いくら人々が理解できても、電力会社だけは馬鹿だから予見できない。そして、「予見できないから無罪だ」という裁判所の判決に従って、中電の愚行は免罪となる。かくて、浜岡原発では地震で大被害が発生する。東京圏は滅亡。日本オワタ。
そして、それを回避するには、「日本ではすべての原発を停止するしかない」という結論になる。過去の失敗から何も学んでいないからだ。それが今回の判決の意味だ。