2019年08月16日

◆ 慰安婦像・その後

 津田・芸術監督が今回の件について釈明をした。それで判明した事情があった。

 ──

 該当のページは下記。
  → あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介

 趣旨は下記。
 「今回の企画展は、自分が企画・立案したものではなく、展示会の実行委が企画・立案したものであり、自分はそれを採用しただけだ。個別の作品を追加・削減する権限はない。慰安婦像については不展示を提案したが、断固拒否された。エロの作品については追加展示を提案したが、これも拒否された。自分には権限がなかったので、どうしようもなかった」


 個別の文言を抜き出すと、次の通り。
 僕から不自由展実行委に《平和の少女像》については様々な懸念が予想されるため、実現が難しくなるだろうと伝えていました。しかし《平和の少女像》は2015年の「表現の不自由展」でも展示された作品であり、展示の根幹に関わるという理由で「少女像を展示できないのならば、その状況こそが検閲であり、この企画はやる意味がない」と断固拒否されました。

  ̄ ̄
 展示内容に幅を持たせるため、近年の話題になった公立美術館での「検閲」事例――会田誠さんの《檄》や、鷹野隆大さんの《おれとwith KJ#2》、ろくでなし子さんの《デコまん》シリーズなども展示作品の候補に挙がりました。しかし、会田さんの作品は不自由展実行委によって拒絶されました。……ろくでなし子さんの作品は、不自由展実行委が展示したい作品をスペースを優先的に取っていったときに、展示スペースの都合で、候補リストから落ちました。

  ̄ ̄
 「表現の不自由展・その後」にどの作品を展示し、どの作品を展示しないかは、最終的に「表現の不自由展・その後」の出展者である不自由展実行委が決定権を持っていました。

 要するに、「自分には権限がないので、自分には責任がない」という釈明である。

 ──

 なるほど。そうだとすると、私の先の解釈は妥当ではなかったと言えそうだ。
  → 慰安婦像は芸術なのか?: Open ブログ

 ここでは、「津田が詐欺師だということが本質だ」という趣旨で述べている。しかし、上記のように、実行委が主導したのだとすれば、「津田が詐欺師だということが本質だ」ということは成立しなくなる。
 では、先の解釈は間違っていたのか? 私は「間違っていました」と謝罪するべきだろうか? 

 ──

 まあ、そう言えなくもないが、私の言っていたことが間違っていたというわけでもない。津田の釈明からはっきりしたことは、
  「津田は詐欺の主犯はなかった」
 ということであり、
  「津田は詐欺の従犯であった」
 ということだ。これは、
  「津田は詐欺師ではなかった」
 ということを意味しないのだ。それゆえ、私の先の解釈は間違っていたとは言えない。

 ──

 実は、津田の釈明は、津田の罪を軽減するどころか、かえって増している。彼の言っていることは、「私は嘘つきじゃありません」と釈明しながら、「私は泥棒です」と白状しているようなものだ。罪を減じているどころか、罪を増している。

 津田が言っているのは、「自分には権限がなかった」ということだが、それで責任を免れようとしているのだとしたら、とんだお門違いだ。彼には芸術監督というという肩書きと権限がある。なのに、その仕事を実行委に丸投げしていたのだとすれば、仕事の放棄に等しい。とんでもないことだ。
 また、展示を丸投げしていたのだとすれば、それは「コピペをしていた」というのも同然であり、あまりにも不誠実だ。
 とにかく、芸術監督という立場にあるからには、きちんと自分たちで展示作品を決めるべきだった。(自分一人でなく、仲間となる関係者の意見を聞いて。) それでこそ、自らの職務を果たしたと言える。
 にもかかわらず、彼はその仕事を実行委に丸投げした。それでいて、「自分には権限がありませんでした」と言って責任逃れをする。呆れる。

 ──

 ではなぜ、津田はこれほどにも無責任だったのか? その理由は下記から窺える。
 不自由展実行委が推薦する作品を僕が拒絶してしまうと、まさに「公的なイベントで事前“検閲”が発生」したことになってしまいます。

 しかし、そんなことはない。展示する作品の取捨選択なんて、検閲には当たらない。なぜならその作品を、作家は他のどこにでも好き勝手に展示できるからだ。(たとえば自作展)
 特定の展覧会に出品できなくすることを「検閲だ」と騒ぐのは、あまりにも馬鹿げている。そんな無茶なことを言うのは、京アニ放火犯も同然だ。「京アニがおれの作品を当選させなかったのはけしからん」と騒ぐのと同様だ。これじゃ、狂気の沙汰だ。つまり、「津田 ≒ 京アニ放火犯」となる。メチャクチャな発想。
 ある作品が特定の展示会に出品できなくなることは、決して検閲ではないのだ。ただの取捨選択(キュレーション)であるにすぎない。混同 or 勘違いしてはならない。

 さらに、次の文言もある。
 「表現の不自由展・その後」は、2015年の冬に行われた「表現の不自由展」を企画した表現の不自由展実行委員会(以下「不自由展実行委」)の作品です。

 展示会(企画展)そのものを「作品」と呼んでいる。個別の作品でなく、展示会を「作品」と呼んでいる。
 呆れた。こういう発想だから、「作品を勝手にいじることは芸術への侵害だ」という発想になって、手を出せなくなったのだろう。

 しかし、展示会を「作品だ」と見なすのは、完全な間違いだ。
 一般に、著作権法では、「アイデアは著作物ではない」とされて、保護対象とはならない。また、たとえそうではなくても、展示会の作品の取捨選抜なんて、著作物であるはずがない。法ではこう規定されているからだ。
 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。

 展示会への取捨選抜は、ここでいう著作物には該当しない。したがって、展示会にどう選抜するかは、美術展主催者が手を出せないということはない。
 どうしても手を出せないのは、「表現の不自由展」という名称だけだ。だから、この名称を変更するだけでいい。あとは、美術展主催者の側が、勝手に展示作品を取捨選抜していいのだ。具体的には、こうだ。
  ・ 該当の2作品は、不展示 (または別会場で展示)
  ・ エロ作品については、展示

 こういうふうにするべきだった。それが芸術監督としてなすべきことだった。
 なのに、津田はそうしなかった。職務放棄にも等しい。無責任ぶりが目に余る。あまりにもひどいと言える。(ただの無能というよりは、意図的な無為に近い。)
 そして、その理由は、「展示会はそれ自体が作品である」という馬鹿げた勘違いにあるらしい。

 ──

 とすれば、結論はこうなる。
 「前に述べたのは、津田は悪賢い詐欺師だ、ということだった。彼は詐欺師として、芸術ではないものを芸術と呼び、表現の自由ではないものを表現の自由と呼んだ、と思えた。
 しかし実はそうではなかった。芸術ではないものを芸術と呼び、表現の自由ではないものを表現の自由と呼んだのは、企画展の実行委だった。実行委が詐欺の首謀者だった。津田は、首謀者ではなく、従犯であるにすぎなかった。
 その意味では、津田には悪質さはなかったことになる。詐欺の罪はおおかた免れる。とはいえ、もっとひどい罪を犯した。それは、芸術監督としての職務を実行しなかったことである。その職務を実行委に丸投げして、自己の職責を果たさなかった。完全なる責任放棄。その罪はあまりにも大きい。
 そして、彼がそれほどにも大きな罪を犯した理由は、彼が法的に無知だったからである。著作物ではないもの(ただの展示会)を著作物であると思い込んで、不可侵のものだと思い込んだ。芸術監督として最低限の知識をもたない、最悪の阿呆だった。
 今回の騒動をひとことで言うなら、《 猿に包丁を持たせた 》というのに等しい。包丁の使い方も知らない猿に包丁を持たせたら、猿が包丁を勝手に振り回して、大きな被害をも垂らした……というようなものだ。
 津田という阿呆は、とんでもない猿ではあったが、しかし、悪質さという点では、猿には悪質さはなかった。猿は単に愚かであるだけだった。真の責任は、猿に包丁を持たせた側にある。つまり、津田に芸術監督を任せた側にある。
 その最高責任者は誰か? もちろん、あいちトリエンナーレの実行委員会の委員長だ。つまり、大村県知事である。
 こいつが、津田という猿に包丁を持たせて、大惨事を巻き起こさせた。さらには、事件のあとでは、企画展を中止するという形で、惨事の主犯となった。
 津田という猿もひどいが、猿を操る側こそ、事件の真の主犯だと言える」

( ※ 無能な津田に芸術監督をやらせた側が悪い……というのは、伊東乾という人も言っている。
   → 慰安婦像は芸術なのか? 2: Open ブログ
   → 伊東乾 自身による記事 | JBpress



 [ 付記1 ]
 現時点では、どう修正すればいいか? こうだ。
  ・ 2作品を不展示(または別会場で展示)とする。
  ・ その上で、企画展を再開する。
  ・ 実行委が上記の条件を拒否したならば、不展示を認める。
  ・ その場合、不展示の主体は実行委であり、県ではない。


 こうすればいい。
 とにかく、県としては、「2作品以外について展示再開」を決めればいい。ここで、「2作品の除外」を実行委が拒否したならば、あとは実行委の好き勝手にさせればいい。「展示全体の開催拒否」をしたのなら、それはそれでいい。責任は実行委の側にある。その場合には、県は批判されない。
 しかしながら、現状では、県そのものが再開を拒否している。この場合には、県が批判されることになる。特に、独断で中止を決めた県知事に責任があることになる。

 [ 付記2 ]
 「会田さんの作品は不自由展実行委によって拒絶されました」
 とのことだが、それなら、実行委そのものが検閲をしている、ということになりそうだ。(津田のいう「検閲」という用語では。)
 実行委の自己矛盾ではないの? 
 
 [ 付記3 ]
 「2作品の不展示」(または別会場で展示)
 を選択した場合、会場内のその箇所には、「撤去されました」という表示が残る。
 これを「圧力により撤去されました」というふうに表示すれば、その空いたスペース自体が、一つの作品のようになる。「表現の不自由」を示すものとして。
 こういうふうに「逆用する」という形の方が、よほど効果的だったろう。災い転じて福となす、みたいで。
 頭は使いよう、というものだ。
posted by 管理人 at 09:25| Comment(9) | 一般(雑学)6 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 最後に [ 付記2 ][ 付記3 ] を加筆しました。
 タイムスタンプは 下記 ↓
Posted by 管理人 at 2019年08月16日 11:06

 大村知事は名古屋春節祭や韓国フェスティバル
とかに力を入れてるのは有名で地元じゃ
あっち系の人で良く知られている。

 名古屋では、あーまたか程度の話。


Posted by てるみん at 2019年08月16日 11:11
>あっち系の人で良く知られている

それがわかっているにも関わらず、
愛知県の有権者はどうして大村を知事に
選んでいるのでしょうか?
Posted by 反財務省 at 2019年08月16日 14:00
 調べたら、県知事選では各党相乗りで、与野党が推薦。対抗馬は共産党の候補だが、大差で敗北。大村が圧勝。
 つまり、選択肢がなかった。
Posted by 管理人 at 2019年08月16日 14:08
私も愛知在住ですが、中日新聞(=東京新聞)の影響力も大きいのではないでしょうか。
選挙ではよくあっち系が当選します。
今回の件でも騒ぎになった後でもトリエンナーレの特集記事を載せ、津田氏を全面的に擁護しています。
Posted by K'z at 2019年08月17日 20:58
 津田は朝日の論壇委員をやっている。
 で、朝日の「論壇」という特集ページにときどき長い論説を記す。(自分で書いているんだか、記者が聞いてまとめているんだか、よくわからないが。)

 津田がちょっとリベラルっぽいということで、お馬鹿な津田を特別に優遇しているわけだ。これで箔が付いたので、大村県知事は津田を信頼したのかも。
 また、今回の美術展でも、朝日は協賛する立場だから、企画展でも朝日は後押ししたのかも。(違うかも。)

 ともあれ、津田が世の中で幅を利かせていることには、朝日の後押しの影響が大きい。朝にの責任はきわめて大きいと言える。

 ※ 朝日の論説部は、他の部(社会部・経済部)とは違って、やたらと左翼っぽい思想の人が多いので、そのせいかも。
Posted by 管理人 at 2019年08月17日 23:44
大村知事主催の今月末のイベントもあるよ。
ttps://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000011.000045082.html

Posted by てるみん at 2019年08月18日 07:07
猿回しの場合は親方が全責任を負うわな
Posted by 老人 at 2019年08月18日 07:36
鶴田先生のおっしゃる通りでございます。
  筋の通らぬ ことばかり
  右を向いても 左を見ても
  馬鹿と阿呆の 絡み合い

Posted by つだごん at 2019年08月22日 10:39
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