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1985年の墜落事故から 34年たった。同じ時期がやってきたということで、新聞で話題になっている。そこで私もちょっと調べてみた。
事故の原因そのものは、隔壁修理の失敗だ。それについてはさんざん報道されているから、再論しない。
かなり後になってわかったことだが、事故の発生時には、生存者がかなり多くいたらしい。しかしその多くは、夜間を経た翌日の朝までに死亡してしまったようだ。事故の生存者(少女)が証言している。
〈堕ちた時は真っ暗で、お父ちゃんや咲子(妹)はまだ生きていた。3人で声をかけて励まし合ったが、やがてお父ちゃんの体が冷たくなった。咲子も何か吐き出すような音を出した後、冷たくなった〉
救出があと少し早ければ、みな、助かったかも知れないというのです。
( → 30.妹・川上慶子と私の三十年 - 日光の手前の今市の街 )
事故が起こったのは、午後6時56分。自衛隊のヘリコプターが到着したのが、翌日早朝。それまでの間に、生存者はどんどん死んでしまったことになる。
ではなぜ、その間に救助活動はなされなかったのか?
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まず、救助するためには、位置を確定しなくてはならない。その位置は判明したか? すぐに判明した。下記の通りだ。
飛行機が異常事態を起こしたのは、午後6時半ごろ。緊急救難信号が発された。それから 30分間は、地上管制でもてんやわんやだった。その後、午後6時56分に墜落。
その 20分後には、墜落状態が目視されて、報告された。2件。いずれも正確な情報で、墜落地点は判明した。
墜落から約20分後の19時15分ごろ、米空軍のC-130輸送機が群馬・長野県境付近の山中に大きな火災を発見し、上空位置での横田TACAN(タカン)方位(305度)・距離(34マイル)を航空自衛隊中央救難調整所に通報。
19時21分ごろ、航空自衛隊の百里基地を緊急発進したF-4戦闘機の2機も墜落現場の火災を発見し、上空位置での横田タカン方位(300度)・距離(32マイル)を通報した。
この墜落現場の位置報告は正しい情報であった。
( → 日本航空123便墜落事故 - Wikipedia )
航空機による機械計測で、正しい位置情報が2件判明した。両方が一致しているのだから、間違いないと見なしていいだろう。このあとは、ただちに救難ヘリコプターが向かえば、生存者は助かるはずだった。しかし、現実にはそうならなかった。
では、なぜ?
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地点が判明したのに、救助活動がすぐになされなかったのは、なぜか? 調べてみたところ、理由は二つある。
(1) 情報の交錯と決断不足
正しい情報が判明したあとで、間違った情報がたくさん押し寄せて、どれが正しいか判断できなくなってしまった。
氏名不詳の110番通報によりもたらされた「長野県北相木村のぶどう峠付近に墜落した」との情報や、日本航空による22時の広報では「御座山北斜面」、運輸省は事故現場の緯度経度(北緯36度02分、東経138度41分)の他に「長野県南佐久郡御座山北斜面」、朝日新聞では防衛庁からとして「現場は長野県の御座山北斜面」などの誤報が繰り返され、これらの情報で地上からの捜索は混乱した。
( → 日本航空123便墜落事故 - Wikipedia )
また、正しい情報が判明したあとでも、それではまだ情報不足だとして、より多くの情報を求めた。その間、救助活動にはストップの命令が下っていた。
事故機の遭難から約1時間40分後と、遅れて出された航空自衛隊への災害派遣要請の背景には、運輸省航空局東京空港事務所の「位置が確認できないことには、正式な出動要請はできん」という幹部判断や、運輸省から「レーダーから消えた地点を特定せよ」と何度も東京ACC(東京航空交通管制部)に電話が入るなど、所管行政当局である運輸省・航空局隷下組織の地上での位置・地点特定に固執した混乱や錯綜が窺われる。
( → 日本航空123便墜落事故 - Wikipedia )
(2) 夜間活動能力の不足
迅速な救助の決定はなされなかったが、それでも現場のヘリコプターは「見切り発車」の形で勝手に出発したらしい。これは、「とりあえずは現場に近づいておいて、あとで命令が来たら現場に向けばいい」という発想だったのかもしれない。(頭いいね。柔軟な発想。)
この見切り出発が、事故の1時間後。19時54分。
その後、20時33分に、救難調整本部(東京空港事務所長)から航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)が行われた。
さらに、20時42分には現場上空に到着した。要請からたったの9分後である。見切り発車した効果が出たわけだ。
かくて、墜落から2時間弱で、救難ヘリコプターが現場上空に到着した。
→ 日本航空123便墜落事故 - Wikipedia
ここで救助活動を始めれば、多くの生存者が助かったはずだった。しかし、現実にはそうならなかった。なぜか? このヘリコプターには、夜間活動能力が不足していたからである。
救難ヘリは、両側面のバブルウィンドウ横に救難用ライト4灯を装備して夜間の救難作業は可能だったが、赤外線暗視装置などの本格的な夜間救難装備がないことなどを理由に、事故当夜の救難員が降下しての救助活動は行われなかった。
( → 日本航空123便墜落事故 - Wikipedia )
何のことはない。救難ヘリコプターを派遣したし、救難員も搭乗していたのだが、それらはもともと「夜間活動能力」をもたなかったのである。つまり、「張り子の虎」だったのである。
これは、名前だけは救難ヘリコプターであったのだが、実質的には救難能力をもたなかったわけだ。(夜間には。)
これが、救難に失敗した根本原因であったようだ。
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では、どうすればよかったか?
私だったら、次の方針で命令しただろう。
・ 自衛隊および海上保安庁など、現場に近いあらゆるヘリコプターを総動員する。
・ 多数のヘリコプターの照明で現場を明るく照らす。
・ 救難員がロープで地上に降りる。生存者を連れて、ヘリに乗せる。
こういう形で、多数のヘリコプターを動員することで、夜間救助活動をしただろう。そのことで、生存者を救うことができたはずだ。
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現実には、どうなったか? 夜間には何もできないまま、夜が明けるのを待った。翌日早朝から活動開始して、昼ごろには生存者4名を救助した。ロープで引き上げて、ヘリコプターで搬送したことで、いずれも助かった。
8月13日午前4時30分すぎの航空自衛隊救難隊による墜落機体の発見、続く5時10分の陸上自衛隊ヘリによる機体確認、5時37分の長野県警ヘリによる墜落現場の確認と、各自衛隊や警察のヘリによって、次々と墜落現場の状況が確認された。
墜落からおよそ14時間後の8月13日午前8時半、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下し、その後陸上自衛隊第1空挺団員が現場に降下して、救難活動を開始。陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着し、ようやく本格的な救難活動が開始された。
8月13日午前11時ごろ、4名の生存者が長野県警機動隊、上野村消防団などによって相次いで発見された。4人とも重傷を負っており、陸上自衛隊のヘリコプターで上野村臨時ヘリポートまで搬送され、4人のうち2人は東京消防庁のヘリに移し換えられて藤岡市内の病院に運ばれた。
( → 日本航空123便墜落事故 - Wikipedia )
画像もある。
→ 救助される川上慶子さん - Google 画像検索
この救助写真を見て、「よかった、よかった」と思う読者が多いだろう。だが、これは同時に、「助かったのが4人しかいない。他の人々は、生きていたのに、救助が遅れたせいで死んでしまった」ということを意味する。
当時の自衛隊は、高価な戦闘機をたくさん買うことには熱中していたが、夜間の救難体制はまったく不備だったのである。
また、当時も今も、お役所というのは無駄な確認の手続きばかりに熱中していて、「迅速な救助」というのはできない体制になっているのである。
[ 付記1 ]
現在ではどうか? 事故を教訓としたらしく、自衛隊では夜間救難体制が充実しているようだ。
→ 航空救難団 - Wikipedia
→ 捜索救難 - Wikipedia
そこでは、救難の訓練もハードであるらしく、訓練中に(隊員に)死者が出たということもあるそうだ。
→ 夜間捜索訓練中に消息絶った救難ヘリ「最後の砦」 メディック
[ 付記2 ]
こういう苛酷な訓練は、自衛隊に限ったことではない。米国の特殊部隊という精鋭チームでは、苛酷な訓練中に死者が出ることもあるそうだ。
→ シールズ・チーム6 Seals team 6
→ Navy SEALsで採用されている訓練
→ パラシュート降下訓練で死亡した米海軍特殊部隊 (ST6) 隊員
※ このあたりの情報は、軍事オタクならばよく知っているはず。 (^^);
[ 付記3 ]
救助が不十分だった最大の理由は、「生存者がいるはずがない」という思い込みだったのだろう。だから、「死体回収」のことばかりを考えていて、「生存者の救助」という体制がなおざりだった。
本来ならば、生存者の有無を確認するために、落下傘部隊で1名が降下するべきだった。また、ヘリコプターも、続々と支援体制を整えるべきだった。
現実には、そのいずれもなされなかった。「生存者がいるはずがないさ」と思い込んでいたからである。
なるほど、通常ならば、生存者がいるはずがない。しかし現場は、山林であり、しかも、下り斜面だった。だから奇跡的に生存者がいた。それはパイロットの卓越した判断があったからである。(うまく下り斜面に着陸した)。その判断を生かせば、多くの生存者を回収できたはずなのだ。
奇跡的にも生存者がいた。しかるに、常識外の可能性を想定できるだけの柔軟な思考がなかった。そのことが、この事件の悲劇の本質かもしれない。
訓練された隊員が日中に行うヘリ救助ですら、しばしば困難です。
初めて集合したヘリ同士が連携を取ることの困難さ、
ヘリが集まることによる衝突のリスク、プロペラの突風による困難さ、
初めての場所で夜間に地形を把握する困難さ、
上手く照明を当てる困難さ、
木が生い茂った場所にロープで人を下ろし、生存者を回収することの困難さ、
山なので送電線にヘリがぶつかり墜落するリスク、
などが挙げられます。
おっしゃる通り事前の準備、訓練が必須だと思います。
でなければ死者の合計が増えてしまいそうです。
ただし、1機だけでは何もできないので、最初から可能性はゼロだった。
指揮官がやるべきは、最大の準備と支援体制を整えること。実行の有無は、現場判断となる。
タイムスタンプは 下記 ↓
令和になってもそうなのに、
昭和時代において、緊急時に
柔軟な対応ができる役人なんて
1人もいなかったでしょうね。