──
「ガソリンの火災のときには、スプリンクラーはあっても無効だ」という見解がある。「油に水をかけても、油は浮いてしまうので、水は意味がない。むしろ化学消火剤を使うべきだ」という趣旨。
しかし、これは勘違いだ。たしかに、灯油の火災についてなら、それは当てはまる。灯油は油だからだ。
一方、ガソリンは違う。すぐに気化してしまう。この状態でスプリンクラーをかけるというのは、良くも悪くもないが、そもそも火の手が上がっていない状況で、スプリンクラーが作動するはずがない。
では、火の手が上がったら? 気化したガソリンは一瞬にして燃え尽きてしまう。
ここで、スプリンクラーの水をかけると、どうなるか? どうにもならない。ガソリンはすべて燃え尽きてしまっている。残っている油などはない。だから、スプリンクラーは、ガソリンに対しては何の意味もないのだ。有効でもないし、無効でもない。ガソリンそのものがないからだ。( ※ 問題そのものが無意味だ、と言える。)
肝心の話は、そのあとだ。ガソリンの爆燃現象が起こったあとでは、ガソリンによる火の手が、他の可燃物に移る。具体的には、紙類やプラスチック袋だ。これらのものがいっせいに燃え上がる。
その状況は、前々項で示した通り。リンクを再掲しよう。
→ 朝日新聞の動画
→ 朝日新聞の写真
ここではものすごい黒煙が上がっている。消防隊が来て鎮火させるまで、4時間半も燃えていたそうだ。
では、この状況では、スプリンクラーは役に立つか? もちろん、役に立つ。ここでは、ガソリンはとっくになくなっており、他の可燃物ばかりがあるのだから、通常の火災と同じである。当然ながら、スプリンクラーは役に立つ。
──
というわけで、京アニのガソリン火災事件では、スプリンクラーはとても役に立ったはずなのだ。ただし、ガソリンの火の手を抑えるためではなく、通常の火災を抑えるためである。
現実には、スプリンクラーはなかった。( → 出典 ) 京アニの建物は、各種の防災設備を欠いている、安上がりの建物だった。耐火建築ではなく、準耐火建築(ロ準耐)だ。耐火設備は大幅に省略されていた。
2008年に建築した鉄筋コンクリート建築で、ビジネス用の広い大部屋ふうの間取りを持つ。小部屋の多い住宅でもない。火災については最も危険な構造であると言える。それでいて、スプリンクラーさえ設置しない。
こういう危険な建築物を合法化している、現在の建築基準法そのものが欠陥法である、と言えそうだ。
これだったら、木造の個人住宅の方がよほど安全であろう。(小部屋に分かれているので、延焼するには時間がかかるからだ。)
火災には非常に弱い建築を放置していた京アニもひどいが、こういう欠陥建築を野放しにする法律こそが、何よりも問題の根源である、と言えそうだ。
[ 付記1 ]
京アニの現場が広い大部屋であることは、次のページの写真からわかる。
→ 全焼した京アニスタジオの間取りがエグい!非常階段も防火扉も無し!
奥にらせん階段の見える画像がある。この画像で、広い大部屋であることがわかる。こんな大部屋でビジネスルームならば、スプリンクラーの設置が当然なのに、義務づけられていないのだから、呆れるしかない。
従業員は、タコ部屋に入れられた奴隷も同然だったと言えそうだ。火災が起こればもともと死ぬことが予定されていたのだ。
※
私が思うに、これは、自民党政権のせいだね。企業の出費をなるべく下げることが最大目的であって、労働者の安全性を高めることは二の次となっている。だからこんな大部屋にスプリンクラーを設置しない。
どうしてもスプリンクラーを設置しないのであれば、小部屋にして、間仕切りの壁を設置するべきだった。個人住宅みたいに。そうすれば、大規模な被害は避けられたはずだ。しかし、自民党政権の法律では、労働者の生命は二の次となるのだ。
[ 付記2 ]
前項で示したように、京アニの建物は、鉄筋コンクリート造りなのに、防火機能は「ロ準耐」である。これは、鉄筋コンクリートではかなり異例であるらしい。下記は一級建築士の声。
ていうかRC造でロ準耐ってあり得るのかな?そんな物件触ったことないから分かんねーや。
— ryoichi matsuda (@ryoichisamasoni) 2019年7月18日
鉄筋コンクリート(RC造)では、耐火建築が常道なのだ。なのに京アニは、2008年という新しい建築物なのに、耐火建築にしていない。常識に外れる形で、あえて防火機能を大幅に落としているわけだ。……建築費を安上がりにするために。
今回の火災の被害が大きかったのは、決して偶然ではなくて、京アニが故意にそういう建物を選んだからなのである。金をケチるために。
で、京アニが金をケチったせいで、従業員の多くは死んでしまったわけだ。
[ 余談 ]
前項には、反発する声が多く来た。ではなぜ人々は反発したのか?
それは、「京アニはまったく責任がない」というふうに思い込みたかったからだ。「悪いのは犯人だけであって、京アニには微塵も責任はない」と。
しかしながら、前項はその発想を否定した。「犯行そのものと、被害の拡大は、話が違う。犯行そのものは、犯人に全責任がある。しかし被害の拡大には、京アニにも一定の責任がある」というふうに。その責任とは、「防火体制の充実」という責任である。
はっきり言って、「まったく責任がない」と言えるのは、被害者であるアニメーターだ。彼らには微塵も責任がない。しかしながら、彼らの命が奪われたことには、京アニにも一定の責任があるのだ。それは経営責任の一種だ。
換言すれば、経営者には、それだけの深い責任が求められるのである。特に重大なのは、「従業員の生命を守る」ということだ。その一つには、「大部屋にはスプリンクラーを付ける」ということもある。また、「非常口・非常階段を付ける」ということもある。
京アニには、犯罪についての犯罪責任はない。しかしながら経営体としては、従業員の生命を守る経営責任があるのだ。この経営責任について指摘しているのが、前項と本項だ。
ただし、ここを勘違いすると、前項を誤読して、「京アニには犯罪責任があると言っているのかよ」というふうに思う。そういうふうに思うと、腹を立ててしまうのである。
本サイトに来る批判のほとんどは誤読に基づく(※)、ということの一例となる。
( ※ 前にも同趣旨の話をしたことがある。コメント欄で。→ 船舶が衝突回避に失敗:コメント at 2019年06月08日 13:20 )
──
亡くなられた従業員の方には、冥福の意を深く捧げます。
一方で、世の中の経営者の人々は、自分たちの経営責任を深く自覚してもらいたい。リーダーというものには、深い責任がともなうのである。その責任とは、会社の利益を上げるということではない。(ここを勘違いしている経営者が多すぎる。)
前項には、反発する声が多く来た。ではなぜ人々は反発したのか?……という話。
タイムスタンプは 下記 ↓
3階で屋上行き階段に行った人にドアを開ける「瞬間の間」があったかも
しれませんね。
そうすれば密室状態で瞬間に充満した煙も屋外に抜けて、ひざ下に一酸化炭素の
存在しない安全な空間が出来ていたかもしれない。
ブログ主様の論説の中から「法律の基準を満たす」事の周辺にある数々の問題点
が明確になって(事件としては極めて悲嘆しかない状況ですけど)、救われた
気持ちがいたします。