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( ※ 本項の実際の掲載日は 2019-07-12 です。)
前回分では、邪馬台国とヤマト王権の関係について述べた。さらにもうちょっと、補足的な話を書き足す。
邪馬台国とヤマト王権の関係
前回分は、下記項目。
→ 邪馬台国の謎: Open ブログ
ここでは、私の考えとして、次のような見解を示した。
「北九州で権力者が乱立したあと、邪馬台国の形でまとまった。しかし、まとまらなかった一部が、九州の外に出て、中国地方から畿内に達した。畿内ではいくつかの権力者が乱立したあとで、統合された。そうしてできたのがヤマト王権だ」
さて。このような見解を名前で呼ぶとしたら、なんと呼ぶべきか? 既存の説では、「邪馬台国九州説」「邪馬台国畿内説」「邪馬台国東遷説」などの名前があるが、私の説は何と呼ぶべきか?
内容をそのまま書けば、「分離・移動・統合」となるので、「分離移動統合説」なんていう名前が妥当だろうが、これではあまりにも長すぎる。一語で示すようなうまい名称はないか?
そう思って考えているうちに、思い至った。
「これは生物の進化と同じである」
ということだ。
進化には、二つの説がある。(細かいものは除く。)
一つは、ダーウィン説だ。これは、次のように言える。
「種は、旧種から新種になだらかに変わっていく。その交替の過程は、優勝劣敗である。環境に適したものが少しずつ増えて、環境に適さないものが少しずつ減っていく。こうして長い時間をかけて、少しずつ種は変化していく」
もう一つは、クラス進化論の説(私の説)だ。これは、次のように言える。
「種は、旧種から新種になだらかに変わっていくのではない。まずは旧種のなかで、新種の萌芽が出現する。新種の萌芽はどんどん進化したあげく、はっきりと新種が確立する。その後は、旧種と新種が併存する。その後、しばらくして、旧種がほぼ突発的に絶滅する」
実例は、人類だ。ネアンデルタール人からホモ・サピエンスへとなだらかに変わったのではない。ネアンデルタール人のなかで、ホモ・サピエンスの萌芽が出現した。それがどんどん進化したあげく、はっきりとホモ・サピエンスという種が確立した。その後は、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが併存した。その後、しばらくして、ネアンデルタール人がほぼ突発的に絶滅した。
これが「進化」の原理だ。そして、よく似たことは、邪馬台国についても当てはまる。九州にいた権力者を旧種と見なして、ヤマト王権を新種と見なせばいい。九州にいた権力者の一部が、九州から出たあと、どんどん発達した。その後、九州の邪馬台国と畿内の権力者たちは併存した。さらにその後、畿内の権力者はヤマト王権に統合されたので、邪馬台国とヤマト王権は併存した。さらにその後、邪馬台国はほぼ突発的に絶滅した。
以上の過程は「進化」の過程とよく似ている。
この意味で、私の見解は「進化説」と呼んでもいいだろう。もうちょっと詳しく言えば、「ヤマト王権進化説」となる。
なお、「邪馬台国進化説」という用語は適さない。邪馬台国が進化して邪馬台国になったわけではないからだ。この点は、下記を参照。
神武東征
「邪馬台国進化説」という用語は適さない、とすぐ上で述べた。これはどうしてかというと、九州を出てヤマト王権になった権力者は、邪馬台国の中にいた権力者ではなくて、邪馬台国の外にいた権力者であるからだ。その名を神武天皇という。
神武天皇が九州を出て畿内に達して大きな権力を確立する過程は、「神武東征」という言葉で説明されてきた。
大分県に近い宮崎県の高千穂のあたりを出発点として、豊予海峡を抜けて、関門海峡を渡ってから、瀬戸内海沿いに大阪まで達する。そこで上陸するかわりに、紀伊半島を南に回って、熊野灘で上陸したあと、奈良のあたりまで達する。
→ 神武東征 の画像(地図)
これが「神武東征」だ。日本書紀に記されているが、経路についてはおおむね史実であったとされる。
(ただし神話の内容はほぼ虚構であろう。史実をデフォルメしたものらしい。天照大神や八咫烏(やたがらす)に助けてもらう。)
神武東征は、おおむね史実に沿っているということで、肯定的に認知する人が多いようだ。ただしこれは、のちのヤマト王権が自分たちを正当化するために作った「始祖の物語」である、という点に着目するべきだ。
とすれば、次のことに留意する必要がある。
・ 神武天皇以外でも、他の権力者が九州から畿内に至った。
神武天皇はそれらのなかの一人であるにすぎない。
・ 神武天皇は、自分ではヤマト王権の統合をしなかった。
ヤマト王権への統合は、ずっと先の出来事である。
(神武天皇は紀元前。ヤマト王権の統合は4世紀ごろ。)
神武東征があったというと、神武天皇がたちまち天下を統一してヤマト王権を確立した……と思う人もいそうだが、そんなことはなかったのだ。
神武天皇はまさしく初代の天皇だったかもしれないが、その当時の「天皇」という語は、「国を統一する最高権威」という意味ではなくて、「畿内における一領域を支配する権力者」という意味でしかなかった。
その意味では、のちの室町時代後半(戦国時代)の戦国大名みたいなものだったと言えるだろう。
畿内において権力の統合をなしてヤマト王権を確立したのは、4世紀ごろのことだから、神武天皇の時代ではない。
仁徳天皇の時代には、ヤマト王権ないしヤマト王朝は確立していたようだが、どういう形で統合がなされたのかは、不明である。景行天皇の子である ヤマトタケル が活躍した、という神話はあるが、だとすれば、それほどの英雄である皇子が天皇にならなかったというのも不思議だ。(早世したのかもしれないが。あるいは、架空の存在だったのかも。)
ともあれ、このあたりのことは神話が多くて不明であるが、神武東征みたいなことがあったらしいということだけは、頭に入れておいていいだろう。
【 関連動画 】
【 関連サイト 】
「神武東征」や「神武天皇」については、ネット上でいろいろと情報がある。
リンクを示そうと思ったのだが、リンクがエラーになるようなので、やめておいた。各人が適当に検索して(ググって)、情報を見つけるといいだろう。