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前項では、「九州から畿内へ」という流れと、「邪馬台国からヤマト王権へ」という流れを示した。この際、畿内に向かったときには瀬戸内海経由だっただろう、とも推測した。
一方、それとは別に、山陰地方の出雲には、古代出雲の文化圏があったことが知られている。これはとても大きな文化圏だった。
古代出雲(こだいいずも)は、弥生時代、古墳時代の出雲の国(現在の島根県東部および鳥取県西部)にある出雲平野、安来平野を中心にあった文化をさす。
姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定できる。また、四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を生み出した。
出雲西部の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るが、豊富な神話、各地からの大量の出土品、古墳の種類の豊富さから、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。その謎を解明するかに見られた「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」からのこの大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。
( → 古代出雲 - Wikipedia )
律令以前の出雲国の影響力は日本神話の各所に見られ、日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流である。
しかし、やがてはヤマト王権に下ることとなり、それが有名な国譲り神話として『日本書紀』などに記されたと考えられる。国譲りの交換条件として建立された出雲大社は、いまだに全国から参拝が絶えない。
( → 出雲国 - Wikipedia )
要点は次の通り。
・ 古墳や遺跡から、出雲には強大な文化圏があったことは確実。
・ 古事記や日本書紀などの神話から、出雲の影響は絶大だったはず。
・ 古代出雲とヤマト王権とには、何らかの関係がある。
最後の「何らかの関係」というのは、よくわかっていない。「交替」という形になったという見解もある。交替の理由は「武力」だった(武力交替)という見解もある。一方、「国譲り」というような形でスムーズに移行したという見解もある。……どうも、はっきりしないようだ。
はっきりしているのは、出雲に強大な文化圏があったということと、それが古事記や日本書紀に記されているほど重大であった、ということだ。
ただし、出雲王朝の系譜は、ヤマト王朝にはつながらなかった。出雲王朝の系譜は断絶して、それとは別に、ヤマト王朝の系譜が今日の天皇の系譜につながっている。
つまり、古代出雲の影響は、文化的な影響に留まっており、天皇の血筋には流れてこなかったわけだ。
その意味で、「無視しえない存在ではあるが、本流からは切り離された傍流であり、今日にはつながることなく断絶した」と言えるだろう。ある意味、忘れてしまってもいい存在かもしれない。(歴史ファンには怒られそうだが。)
[ 付記1 ]
古代の出雲に文化が栄えたのはなぜか? 私は次のように推定する。
・ 九州から関門海峡を渡ったあと、人々は、東に行くかに死にゆくか、どちらかしかない。
・ 東に行けば、瀬戸内海経由で、畿内にたどり着く。(前項で述べた。)
・ に死にゆけば、山陰経由で、出雲にたどり着く。
・ 出雲から先は、進行が難しい。冬の積雪量が多いからだ。
・ 冬の積雪量は、下記。出雲よりも東では、積雪量が多い。
→ 年間降雪量 [ 2011年]
・ となると、出雲で(やや)行き止まりとなって、ここで文化が栄えた。
・ 実は、その先でも、福井に文化圏があった。(越の国)
しかしそこは積雪量が多いので、あまり繁栄しなかった。
・ 越の国はヤマト王朝に滅ぼされた、という一説もある。
[ 付記2 ]
時期的にはどうか? 古代の出雲の文化圏ができたのは、卑弥呼の出現する時期よりも少し前らしい。
このころ、九州・山陰・瀬戸内海・畿内などの各地に、豪族が出現して、それなりの文化圏を作っていたと思える。
その後、九州では、諸派の対立のあとで、邪馬台国への統一が起こった。
そのころから、畿内の諸派のなかで、ヤマト王権がだんだん拡充していった。
やがてヤマト王権が完全に確立して、大和朝廷のもとで天皇による支配が行き届いた。これが、仁徳天皇の少し前のころだろう。
このころは、まだ文字による文書がなくて、記録は何も残されていない。天皇の系譜も、口承で伝えられていただけらしい。
その後、8世紀になって、「古事記」という形で文書ができた。さらにしばらくして、「日本書紀」という文書もできた。ここでは、口承で伝えられた話(神話など)が、文書の形で記録された。
[ 付記3 ]
とはいえ、「古事記」や「日本書紀」が書かれた時点では、ヤマト王権ができた時点から、すでに 400年以上も過ぎている。どこまで正しいかは、かなりあやふやである。
となると、事実を正確に探るには、文書よりも、古墳や遺跡などの遺物に頼るしかないのだろう。その数は少ないが、少なくとも、いくつかの遺物はある。
その一例が、前々項の古墳群だ。これは大阪府にあるもの。
→ 百舌鳥・古市古墳群 - Wikipedia
一方で、出雲にも、別の古墳群がある。
→ 卑弥呼の時代に造られた出雲独自の古墳、島根県「西谷古墳群」
これらの古墳も、大阪府の古墳に劣らず、重要な価値を持つと言えるだろう。
[ 付記4 ]
出雲文化の地理的範囲を示しておこう。
冒頭の Wikipedia にあるように、出雲平野、安来平野、意宇平野は、古墳があるので、出雲文化の地域であると判明している。
→ 古代出雲『安来・意宇(おう)・乃白(のしら)』の謎
※ Yahooブログなので、そのうち消えてしまいそう。
ただし、そのすぐ東側にある米子平野は、かなり広い平野であるにもかかわらず、出雲文化には属していない。これはなぜか?
疑問に思ったので調べたところ、意外な事実が判明した。ここは、別の何かがあったのではなく、何もなかったのだ。というのは、ここは当時、平野ではなくて、ただの湿地帯だったからだ。
→ ファンタジー「米子と山陰の古代史」
湿地帯じゃ、しょうがないですね。人は住めそうにないし、文化が生じるはずもない。