2019年07月07日

◆ 邪馬台国の謎

 邪馬台国については、九州説と畿内説(近畿説)があるが、どちらが正しいのか?

 ──

 これは昔から話題になっているが、いまだに決着が付いていない……というのが定説である。定説がないというのが定説であるわけだ。(矛盾した言い方。)
 近年になって、いろいろと新しい事実が判明しているが、それでも決着は付かない。
 ところが、である。ネットをいろいろと調べた結果、私なりに一定の結論を出すことができた。おおまかに言えば、こうだ。
 「このころの歴史的な事実については、おおよそ判明してきた。それに従えば、九州説と畿内説のどちらを取るかは、邪馬台国という言葉の定義しだいである。どちらであるかという問題そのものが無意味化する」

 結論は上の通りだ。以下では詳しく説明しよう。

 ──

 (1) 銅鐸

 ちょっと古いが、NHK で次の番組があった。
  → 銅鐸から読み解くニッポンのあけぼの | 歴史秘話ヒストリア

 2019年02月06日 の放送だが、録画してあったので、このたび見たら、面白いことが示されていた。このころには銅鐸が盛んに作られていたが、それには権力との関係も窺えるそうだ。
  ※ 番組の要旨は、上記リンク。

 この番組では、銅鐸に着目して、歴史的な物証である銅鐸の変遷から、いろいろと歴史的事実を推測している。特に、「銅鐸がいっせいに消失した(破壊された)が、それは卑弥呼の命令だったのだろう」というふうに推測されていた。
 しかし、本当にそうか? どうも、疑わしいようだ。
 はっきりしているのは、このころに銅鐸がいっぱい作られて、それは権力と強い関係があったことだ。
 ただしその権力は、卑弥呼のいた邪馬台国か、それとも、ヤマト王権(旧称:大和朝廷)であったかは、定かでない。銅鐸を邪馬台国と結びつけるのは、ちょっと早計であるようだ。
( ※ NHK の勇み足。)

 (2) 邪馬台国とヤマト王権

 邪馬台国とヤマト王権の関係も、はっきりとしていない。次の二通りが考えられている。
  ・ 邪馬台国からヤマト王権に移行した
  ・ 邪馬台国とは無関係にヤマト王権が出現した

 どちらであるとも判明していないらしい。直接的な証拠は何もないからだ。

 とはいえ、次のような事実は判明しているらしい。
  ・ 当初は、北九州に集落や文化が発生した。邪馬台国。
  ・ 邪馬台国には女王がいて、魏志倭人伝に記載された。
  ・ 邪馬台国が発達するにつれて、畿内にも到達した。
  ・ ヤマト王権も、九州で誕生したあと、畿内に到達した。
  ・ 畿内では、邪馬台国のあとでヤマト王権が確立した。
  ・ 邪馬台国は、畿内で征服されたか、または東に逃れたか。


 上のまとめの情報源は下記だ。
  → 邪馬台国 - Wikipedia
  → 邪馬台国九州説 - Wikipedia
  → 邪馬台国畿内説 - Wikipedia
  → ヤマト王権 - Wikipedia
  → ちょっと休憩〜歴史秘話ヒストリア「銅鐸」 | そこまでお散歩
  → 邪馬台国と大和朝廷
  → 邪馬台国は出雲系か

 ──

 上のようにまとめたあとで、私なりに考えを整理すると、次のように結論した(推理した)。

 初期には北九州に集落や文化が生じた。ただし男の権力者が乱立してまとまらなかったので、女の権力者を女王として立てた。これが卑弥呼である。(魏志倭人伝)
 この卑弥呼を絶対的な権力者と見なす人が多いようだが、私としては、これは形式的なものであって、たいして権力を持たなかったと推定する。実際には男の権力者が乱立していた。そのうちの一部は東の方に権力を拡大ないし移行していって、ついには畿内の全般を支配するようになった。そのなかで最終的に残ったのがヤマト王権である。

 ここでは、次のことが推定される。
  ・ 畿内に到達したのは、邪馬台国に属した一部。(複数)
  ・ その権力者は、形式的には邪馬台国に属したとも言えるが、卑弥呼の支配下にはなかった。
  ・ これらの権力者は競合したあとで、しだいに統合されていった。最初は 10ぐらいあったのが、最後には1つに統合された。
  ・ その統合の過程は、銅鐸の種類の統合によって示される。
  ・ 統合のあとで、最後に残ったのがヤマト王権だった。
  ・ ヤマト王権以外の権力者は、征服されたのではなく統合されただけだ。(家臣の形で)
  ・ ただし一部は、統合されずに、東方に逃れた。
  ・ 畿内では統合の完成にともなって、鏡が重視された。
  ・ ヤマト王権では、鏡は非常に重要なものであり、三種の神器の一つともなった。( 八咫鏡
  ・ 鏡が重視されることの反面で、銅鐸は次々と破棄された。

 ──

 以上をイメージ的に言えば、次のように言える。
 「邪馬台国からヤマト王権への変遷は、なだらかなものであって、はっきりとした境界線が引けるようなものではない」

 具体的には、次の通り。
 「邪馬台国とヤマト王権という別々のものが独自に成立して、両者が交替したのではない。邪馬台国の内部に、部分集団が形成されたあと、それが拡大しながら東に移った」
 「その部分集団のなかでは、特定の一派が巨大化しながら、他の諸派を呑み込んで統合していった。こうしてできたのがヤマト王権だ」
 「北九州では、残された邪馬台国の一部が、ヤマト王権の支配を受けないまま、権力を維持していた。しかし 磐井の乱 でヤマト王権と衝突したあとは、衰退して、最終的にはヤマト王権の支配下に入った」

 以上が私の推定だ。
 ここでは、事実を歴史的な流れとして示している。ここではもはや、「九州説」「畿内説」という二分法的な区別は無意味だ、とわかるだろう。最初は九州にあって、最後は機内に移った。その過程で、どこからどこまでを「邪馬台国」と見なすかによって、「九州説」「畿内説」のどちらを取ることもできるのだ。「邪馬台国」という言葉の定義しだいだ、と言えるだろう。

 しいて答えるなら、次のような答え方ができる。
 「魏志倭人伝で記載された女王・卑弥呼がいる権力体制としての邪馬台国は、北九州にあった」
 「ヤマト王権の成立前にあった権力集団としての邪馬台国は、北九州から畿内にかけての広い範囲に分布していた」(統合されないまま)
 「ヤマト王権に直接的に取って代わられたものとしての邪馬台国(一部の権力集団・諸派)は、畿内にあった」

 こういうふうに整理できるだろう。
     《 加筆 》
     一方、次の解釈もある。
     「邪馬台国は、九州の権力集団だけである。それから派生する形で、出雲から畿内に拡大した分は、出雲文化圏であって、邪馬台国とは違う」
     これは、邪馬台国の本体部分と派生した分とを区別する考え方だ。これもまた一種の定義しだいの考え方と言えるだろう。

 ──

 ともあれ、以上に示したことによって、ヤマト王権のルーツ判明したと言えるだろう。それはまた、天皇のルーツが判明したということでもある。……かなり大きなことだ。(前項を参照。)



 【 補説 】
 初期の集落や文化が北九州に誕生したことは、不思議ではない。日本人の源流が、南方のアジア圏からやって来たからだ。
 この件は、日本人の由来(ルーツ)ということで、先に論じた。
  → 縄文人と弥生人 2
  → 弥生人は朝鮮半島を経由したか?

 これが決定的に重要。これまでの説は、朝鮮半島経由だと仮定して、ここから渡来文明が来たと見なした。しかし、そうではなく、南方からの黒潮ルート(琉球諸島経由)で来たのだ。

 いったん九州に来たあとは、どうか? 南九州は、シラス台地という火山灰地なので、稲作には適さない。文化も生じにくい。そこで、北九州に移住して、そこで稲作をしたと考えられる。
 いったん北九州に来ると、関門海峡で行き止まりとなる。だから、北九州でストップして、ここで集落と文化が出現したのだろう。
 その後、そこから関門海峡を越えるのは手間がかかるので、時間を経たすえに、一部だけが瀬戸内海に出た。瀬戸内海は波の弱い静かな内海なので、瀬戸内海を渡って畿内まで届くのは容易だっただろう。(広島などの陸上経由よりも簡単だっただろう。当時は道もないからだ。)
 そして、畿内に届いたあとはどうなったかということは、先に本文中で述べたとおりだ。

 ──

 以上の説を補強する根拠がある。それは、言語だ。
 仮に北九州を経由しないで、初期文明がいきなり畿内に誕生したとしたら、畿内には古代の日本語の名残が残されているはずだ。
 ところが実際には、九州地方に古代言語の名残がある。つまり、九州・沖縄と東北とには、古い日本語としての共通性がある。それは縄文語とも言われる。
 これを説明するために、次の説がある。
 「言語は畿内で産まれて、古いものが次々と周辺に押しやられた」(柳田国男の方言周圏論
 しかし、これはちょっと不自然だ。

 それよりは、先に本文で述べた説の方が妥当だ。
 つまり、北九州で誕生した文化(邪馬台国)が畿内まで届いた。その後、その一部がヤマト王権を構築した。ヤマト王権は大部分を統合した。(前述)
 ただし、一部は統合されずに、東方に逃れたと考えていいだろう。そのままさらに東北にまで移って、旧来の文化や言語を保持した。
 一方、畿内では新たな文化が次々と発生して、文化的な発展を遂げたので、文化も言語も変化していった。こうして新しい日本語が形成されていった。それは古くからある言語(九州や東北に残るもの)とは差が広がっていった。……そう考えてよさそうだ。
 この考えに従えば、ヤマト王権から外れた傍流の人々が、関東から東北に逃れて暮らしていた、ということになる。その人々は、九州の人々とは、文化的・言語的には共通点が多いことになる。

 ※ 以上は、私の推理である。学会の説とどこまで一致しているのかは、知りません。



 [ 補足 ]
 魏志倭人伝にある邪馬台国の正しい位置は、どこか? 九州か、畿内か? …… これについては、次のように答えられる。
 「正しい位置を教えると、中国に攻めてこられて、侵略されてしまうかもしれない。だからあえて、嘘の場所を教えた。つまり、正しい場所なんか、もともと記されてないのだ」
 つまり、魏志倭人伝に書いてある位置は、嘘の位置。そんなものには何の価値もない、ということになる。
 
posted by 管理人 at 23:58| Comment(5) | 一般(雑学)6 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
面白い推理ですね。
邪馬台国東遷説と一部共通点がありますが、全く同じ説は聞いたことがありません。

記紀に神武東征は詳しく述べられていますが、
卑弥呼や邪馬台国にはほとんど言及がありません。

ヤマト王権の元となった集団は、
もともとは高千穂あたりに住んでいた弱い集団だったのかもしれません。
熊襲の圧力や食糧難など何らかの理由で高千穂を放棄せざるをえず、
半ば難民となった彼らは、
邪馬台国本国の指示で嫌々ながら東方に送られた開拓団、屯田兵だったのかもしれません。

そう仮定すると、記紀に邪馬台国が記載されていない理由がわかります。

ヤマト王権はもともとは弱い集団でしたが、
稲の生産については、九州北部よりも畿内が勝っていたので、
後年、ヤマト王権の国力が邪馬台国本国を圧倒するようになったのかもしれません。
Posted by サク at 2019年07月08日 12:59
先日発売された長浜宏明氏の「日本の誕生 皇室と日本人のルーツ 皇室と日本人のルーツ」という本を読みました。
大阪湾の地形の変化から、神武天皇の東征がAD70年頃に実際にあったという証明がされていて、説得力がありました。
邪馬台国とは別に高千穂に興った天皇家が、近畿地方を制覇して、最後は九州にも勢力を伸ばして邪馬台国を滅ぼしたという説にも納得できました。
Posted by カープファン at 2019年07月09日 09:00
わたしは大分県説を信じてるわ
Posted by かーくん at 2019年07月10日 07:37
まだ読んでいないのですが、『つくられた卑弥呼 ─〈女〉の創出と国家』(ちくま学芸文庫、義江 明子 著)というのが、出版社の紹介文を見たところ、あまり見られない考え方に触れることができそうという点で、おもしろそうです。
Posted by kmsn at 2019年07月12日 13:58
 鉄器の話。引用2件。

 (1)
 中国東北系の鋳造鉄器が紀元前3世紀に北部九州に持ち込まれたことで日本に於ける鉄器使用が始まる。前3世紀以降には朝鮮系の鎌などの小鉄器鍛造品も出現する。前2世紀以降には北部九州で鉄斧や鉄製鍬先や鋤先など農工具の鉄器化が進んだことによって耕地開発が進んだ。弥生時代の3世紀までに鉄器が普及したいたのは北部九州地域に限られており、日本のその他の地域から出土する鉄器は僅かである。
   → https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%99%A8

 (2)
 鉄器は生産性を飛躍的に高める貴重な道具だったが、素材は大陸からの輸入に頼っていた。そのため、鉄を求めて熾烈な争いが繰り広げられた。気候の悪化もあり、乱れる倭国を鎮めるために女王卑弥呼が登場する。
  → http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/1481
Posted by 管理人 at 2019年10月28日 22:41
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