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大崎事件の再審が、最高裁で否定された。一、二審では認められたのに、最高裁で否定された。
最高裁判所は弁護側が新たに証拠として提出した鑑定結果の評価が誤っていたとして、2019年6月25日付で再審開始決定を取り消した。一、二審で認められた再審の開始を最高裁が覆した初のケースとされる。
( → 大崎事件 - Wikipedia )
そもそもこの事件の裁判では、被告はずっと無罪を訴え続けてきた。服役した後でも、ずっと無罪を訴え続けてきた。それだけでも、これが冤罪である可能性は高いとわかる。
さらに、事件を見ると、その事件の真理は究めてずさんであったことが判明している。朝日の社説に概要がある。
最大の争点は男性の死因だった。確定判決は「窒息死」としていたが、再審請求審で弁護側は、転倒事故による「出血性ショック死」の可能性が高いとする法医学者の新鑑定を提出。高裁は、これを踏まえると確定判決には様々な矛盾や不合理が生じるとして、裁判のやり直しを決めた。
この事件では、窒息死させる際に使ったというタオルが見つかっておらず、また、女性の共犯とされた関係者3人の供述は不自然に変遷していた。3人には知的障害があり、捜査員による誘導が生じやすいケースだ。そもそも窒息死という所見も、すでに腐敗していた遺体を解剖した医師が「消去法」で推定したものだと、当の医師が認め、後に見解を変えている。
そんな脆弱(ぜいじゃく)な証拠構造の上にある判決であっても、いったん確定した以上は、よほど明白な事情がなければ覆すべきではない――。それが棄却決定を通して見える最高裁の考えだ。
( → (社説)大崎事件 再審の門を狭めるな:朝日新聞 )
まあ、まともな頭のある人が判断すれば、「再審開始」となるだろう。再審開始は、無罪を意味しない。単に「現在の水準で調べ直す」というだけのことだ。それさえも否定するのだとしたら、「真実を明かすのがイヤだ」「真実を隠蔽したい」という動機が働いているとしか思えない。要するに、「自分たちの過去の誤りを認めたくない」というわけだ。(裁判所や検察や警察にはありがちなことだ。)
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さて。以上は(朝日の社説を始め)あちこちで言われていることだ。私の独自見解ではない。私の独自見解は、次のことだ。
「ここには、根本的な問題がある。それは、裁く人と裁かれる人が同じだ、ということだ。被告人と裁判官が同じだ、ということだ」
今回の再審請求では、裁判所が栽培所を裁いている。最高裁が最高裁を裁いている。となれば、最高裁が自分自身に「有罪」を判決するわけがない。
要するに、最高裁が有罪だとすれば、自分の有罪を認めたくないから、何が何でも「無罪」を言い渡すしかないのだ。
つまり、ここでは、最高裁が自分自身に「無罪」を言い渡す(冤罪を認めない)のは、制度的に明らかだったのだ。
これは制度的な欠陥である。ここでは、制度そのものに問題があったのだ。
朝日は最高裁に「しっかりしろ」というふうに激励しているようだ。それは、犯人に向かって「しっかりしろ」と激励するようなものだ。しかし、それは筋違いというものだ。犯人の悪を咎める人は、犯人自身ではあってはならず、犯人以外の第三者であるべきだ。
とすれば、最新の決定権は、最高裁ではなく、第三者にあるべきだったのだ。
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以上をかんがみて、新たに提案しよう。こうだ。
「再審の開始の最終決定権は、最高裁よりも上の部門(別の機関)に置く」
具体的には、こうだ。
「現状のように、再審請求のあとで、一審、二審、最高裁を経たあとで、最高裁で再審を認める決定が出たならば、その決定に従う。
一方で、最高裁で再審を認める決定が出なければ、新たに新設する再審機関において、最終決定をなす。この決定は、最高裁の決定を上回り、最終的なものとする」
別案は、こうだ。
「現状のように、再審請求のあとで、一審、二審を経たあとで、最高裁のかわりに、新たに新設する再審機関において、最終決定をなす。この決定は、最終的なものとする」
さらに、次のようにしてもいい。
「再審が決まったあとで、実際に再審をする裁判所は、そのために特別に設置された、特別な裁判所とする。そこでは、次のいずれかにする。
(1) 裁判官の数を5人ぐらいにして、多くの裁判官で判決する。
(2) 陪審制として、多くの市民で判決する」
このようにすれば、過去の判決の歴史にこだわらずに、まっさらな状態で、公平な判決が期待される。
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ともあれ、以上のように、制度的に抜本的に買える必要がある。さもないと、「裁判所自身による失敗(冤罪)」を、是正するすべがない。犯人が犯人を裁くような現行制度は、制度的に欠陥があるのである。……ここが本質だ。この本質を見抜くべきだ。