2019年05月14日

◆ 井ノ頭か、井の頭か?

 「井ノ頭通り」と「井の頭通り」という二通りの表記があるが、どちらが正しいのか? (うんちく)

 ──

 何ともまあ、マイナーな話題(ローカルネタ)だが、東大の駒場のそばを井の頭線が走っているので、取り上げよう。
( ※ 「いのがしら」でなく「いのかしら」だということの方が重要だろ、という声も出そうだが。)

 元となるのは、13日の朝日夕刊のミニ記事だ。この件を話題にしている。
 「井ノ頭通り」と「井の頭通り」。道路案内にも両方の表記が混在するが、東京都の取り決めに従えば、「井ノ頭」が正しい。
 この通りに、都が通称を与えたのには1964年の東京五輪が関係している。 大会を控え、国内外から多くの観光客が訪れると予想された。都は親しみやすい名前を付けようと計画した。60年のことだ。審議会から答申を受けた都は、その後、計69路線の通称を決めた。「井ノ頭通り」はその一つだ。
 ただ、なぜ、カタカナの「ノ」なのか。残念ながら、都に尋ねても資料を調べても分からなかった。
( → (マダニャイ とことこ散歩旅:29)井ノ頭通り:1 武蔵野 「井ノ頭」?「井の頭」?:朝日新聞

 朝日の記者がこんなことを話題にするのは、たぶん東大の沿線だからだろうが、東大に通っていてもこんなことを知らなかったのかと思うと、愕然とする。そこで、常識を教えるつもりで、記しておこう。

 話は簡単だ。こうだ。
 井の頭線も、井ノ頭通りも、元の由来は、井の頭公園だ。(正式名称は 井の頭恩賜公園 ) つまり、ここにある「井の頭」をパクっただけだ。そしてまた、井の頭公園という名前の由来は、そこにある井の頭池だ。


 「井の頭池」から「井の頭公園」という名前ができたが、これは別に、パクったわけではない。井の頭池は、井の頭公園の一部となっているからだ。
 しかし、「井の頭線」と、「井ノ頭通り」は、「井の頭池」や「井の頭公園」をパクっている。オリジナルではない。亜流である。
 そして、亜流だとすれば、その名前に「どちらが正しいか」と問うのはナンセンスである。その問いは、「どちらが正しいパクリか」と問うことであるから、もともと意味をなさない。 なぜなら、パクリ自身がオリジナルでないので、パクリということ自体において、正しくはあり得ないからだ。これはいわば、「どちらが真っ白な灰色か?」と問うようなもので、問い自体の内に矛盾を含む。正解などはないのだ。

 では、オリジナルはどうか? オリジナルの「井の頭池」は、「井之頭池」というふうに漢字で書くのが正しい。その命名者は徳川家光であるようだ。
 井之頭池は古くは狛江といわれ、かつては湧水口が七ヶ所あったことから「七井の池」とも呼ばれていた。井之頭と命名したのは2代将軍徳川秀忠もしくは3代将軍徳川家光ともいわれているが、家光が命名したという説が有力である。
( → 神田上水 - Wikipedia

 こうしてオリジナルが「井之頭池」だとわかった。そのあと、パクリの方が「井ノ頭**」と「井の頭**」の二通りがあるわけだが、これはまあ、時代背景によるのだろう。戦後の昭和の前半では、このような例ではカタカナを使うのが普通だったが、戦後の昭和の後半では、このような例ではひらがなを使うことが多くなった。「井ノ頭通り」と命名された 1960年ごろであれば、カタカナを使うのが普通だったから、当時の命名ではカタカナを使ったのだろう。
 ただ、これは、どっちでもいいことだ。しょせんはパクリの側が決めたことだから、(オリジナルとは無関係に)勝手に気分で決めていいわけだ。もちろん、深い理由を探ることにも意味はない。

 ──

 というわけで、真相はわかったのだが、これで話が片付いたと思うのでは、つまらない。本サイトの読者ならば、「それがどうした。くだらないことをいちいち書くな」と文句を言いそうだ。

 そこで、大事な情報を以下で書く。以下は、新たに発見された真実というよりは、(既知の)うんちくだ。

 井の頭池というのは、実は、ものすごく重要な意義を持つ。こうだ。
 「家康が江戸を開こうとしたとき、当初の江戸は一面の草原や森であった。そこを切り開いて、(大阪・京都をしのぐ日本最大の)都市を構築しよう、と家康は決意した。そうして徐々に土地を開墾していったものの、井戸から取れるのは塩分の多い地下水(海水まじり)が多くて、とても飲めたものではない。それでも我慢して飲んでいたようだが、これじゃ困る。そこで家康は部下に、上水(水道)を引くようにと命じた」
 徳川家康は、低湿で水浸しの大地(今の東京)に、人が住めるようにするには、どうすれば良いか?と考えた。海水が流れ込んでくる関東の低地では井戸から水を得難く、人が生きるための清水の確保が急務であった。いわゆる上水の整備を命じられたのは、家臣・大久保藤五郎。若き日、戦場で傷を負い、馬にもまたがれぬ身となり、家康のための菓子作りを長年してきた大久保は、現在の井の頭池から江戸の町に上水を通すという一世一代の大仕事に取り組む。
( → あらすじ| 家康、江戸を建てる

 これは、「家康、江戸を建てる」という歴史ドラマ(ノンフィクションふうドラマ)の紹介記事だ。私はこのドラマを見て、内容を覚えているので、上記のことを記した。
 ともあれ、江戸に上水を引くことにして、神田上水というものが見事に完成したのだが、その上水道の源流となるのが、井之頭池だったのだ。担当者は、それまであちこちの水源を探しても、なかなかうまい水源を見出せなかったのだが、そうするうちに、家康が独自にこの井之頭池を探し当てて、「これがあるぞ」と教えたらしい。
 伝説によると、江戸時代、鷹狩りに来た徳川家康が、この湧き水でよくお茶を入れていたのだそうです。それが名前の由来となり、お茶用の水で「お茶の水」と呼ばれるようになったのだとか。
 ちなみに、3代将軍の家光がこの湧き水のおいしさを絶賛し、「井戸の中で一番」という意味で、この地を「井之頭」と名づけたという伝説もあるそうです。
( → 三鷹市 |2014年2月1日 かの徳川家も愛した泉「お茶の水」

 「お茶の水」および「井の頭」には、こういう伝承もあるわけだ。(真偽ははっきりとしないが。)

 ともあれ、こうして上水道ができたことで、江戸には真水がもたらされるようになった。かくて、その後の人口増加と都市の発達がもたらされた。

 現在の日本最大の都市である東京の、その源泉となるものは、井の頭池なのだ。ここには非常に大きな意義がある。いわば東京のルーツみたいなものだ。
 こういう真実をきちんと理解しておこう。



 【 関連サイト 】

 井の頭池。













posted by 管理人 at 21:00 | Comment(0) | 一般(雑学)5 | 更新情報をチェックする
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