──
東大の入学式で上野千鶴子の祝辞が話題を呼んだ。
→ 平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学
→ はてなブックマーク [ 3217 users ]
これを「インセンティブ・デバイド」(むしろ「インセンティブ・ディバイド」 incentive divide )という用語で捉える記事が出た。
→ 「平成最後の東京大学入学式祝辞」に素晴らしいとコメントした人は「メタ知識」と「インセンティブデバイド」という言葉について考えてもらいたい - この夜が明けるまであと百万の祈り
しかしこれはピンボケである。その理由を示す。
──
「インセンティブ・ディバイド」という用語は、苅谷 剛彦 が著作で唱えたもの。この著は大きな評判を呼び、各種受賞もした。
→ 階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ 苅谷 剛彦 (著)
ここで示された概念は、次の通り。
学力の差については、その理由として、親の貧富の差や、親の階層差が指摘されてきた。一方で、子自身に「意欲の差」というものが生じる。恵まれない環境の子供たちは、「やる気はあるのに、環境のせいで進学できない」のではなく、そもそも最初から「やる気が起こらない」のである。こういう根源的な問題がある。
上は私のまとめだが、似た解説もある。
「努力する能力」は万人に均等に分配されているわけではない。努力する能力は子どもたちの出身階層に深く影響される。階層上位の家庭の子どもたちは、「努力する」ことの意味と効用を信じ、努力することによって現に社会的成功を収めた人々に取り囲まれている。階層下位の子どもたちは個人的努力と社会的達成の間には正確な相関がないから「努力するだけ無駄だ」と信じている人々を周囲に多く数える。この社会的条件の違いは、子どもたちの「努力することへの動機づけ」そのものに決定的な差をもたらすだろう。だが、その事実はこれまでほとんど主題化することがなかった。
「どれだけがんばるかを、個人の自由意志の問題とみなすかぎり、その背後に社会階層の影響があることに目は向きにくい。」
私たちの社会のエスタブリッシュメントはいまだに「努力することへの動機づけ」を安定的に備給されている人々がいる。そのような階層の子どもたちは「努力すればいいことがある」というタイプの利益誘導型のロジックにではなく、むしろ「あなたは人に倍して努力することを義務づけられている」という選良意識に従って努力をしている。そのような「努力することができる」集団と、「努力する能力を早い時期に損なわれた」集団が日本社会には解離的に存在しており、その隔たりは、日々拡がっている。階層上位の人々は、「強者連合」的な相互扶助・相互支援のネットワークを享受しているが、階層下位の人々は分断され、孤立化し、社会的流動性を失っている。
( → 「学力と階層」解説 - 内田樹の研究室 )
こういう話はたしかに重要だ。そこで、上野千鶴子の話を聞いて、「インセンティブ・ディバイド」という概念に結びつけたがるわけだ。
だが、上野千鶴子の話は、そういうことだったのか? つまり、教育問題における施策の話だったのか? 「文科省や政府は教育問題を是正するべきだ」「正しい教育政策を取るべきだ」というようなことを、東大生の全体に語りたかったのか? まさか。そんなことは、祝辞としてはあまりにも場違いである。
──
上野千鶴子の話を引用しよう。(番号は引用者)
(1) あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境があなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います。
(2) あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。
(3) 世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
(4) あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
( → 平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学 )
読めば明らかなことだが、「インセンティブ・ディバイド」に相当する話は、(3) だけである。他は「インセンティブ・ディバイド」とはあまり関係ないのだ。
では、(3) が主題なのか? (3) が最も言いたいことだったのか? 違う。(3) は、話のついでに語られただけだ。「話のダシにされた」とか「引き合いにされた」とかのことだけだ。
つまり、「あなたたちは恵まれていますよ」ということを言いたいがために、対照的に、「恵まれていない人もいますよ」と言っているだけだ。
要するに、この (3) の箇所は、話のついでに語られただけであるから、全体を削除してもまったく構わない。むしろ、削除した方が、文章が引き締まるぐらいだ。削除した方がいい、とすら言える。(余計な誤解を避けるためにも。)
以上をまとめれば、こうだ。
上野千鶴子の話において、「インセンティブ・ディバイド」の話も出てくるが、それはついでに語られただけの話であって、、本論の趣旨とはほとんど関係ない。そんな話はすっかり削除してもまったく構わない。むしろ、削除した方がいい。
かくて、上野千鶴子の話は「インセンティブ・ディバイド」の話ではない、と判明した。
──
では、上野千鶴子の話は、「インセンティブ・ディバイド」ではないとしたら、何であるのか? つまり、話の核心は何なのか? それを解説しよう。
上野千鶴子の話は、社会問題を認識するべきだとか、教育政策や経済政策をどうするべきかとか、そういった個別論ではない。そんな個別論は、大人になってから、専門の担当者がやればいいことだ。そんなことは、大学の新入生がやるべきことではない。また、新入生に向かって告げるようなことではない。
上野千鶴子が語りたかったのは、もっと広くて大きなことだ。それを示すのに近い言葉は、「ノブレス・オブリージュ」だ。
この言葉は、はてなブックマーク でも いくらか話題になったが、実際、かなり核心を突いている。
ただ、「ノブレス・オブリージュ」というだけなら、手垢の付いた言葉だし、いちいち語るまでもない。上野千鶴子の話は、もうちょっと豊かな内容を含んでいる。
「ノブレス・オブリージュ」に相当するのは、上の (4) の箇所だ。再掲しよう。
(4) あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
ただし、これは話の主題ではない。(3) のように「引き合いに出されただけ」というのとは違うし、結論ふうでもあるが、これが主題ではない。どちらかと言えば、結論というよりは、「オマケ」「余話」という感じである。
では、主題は何か? それは (3)(4) ではなく、(1)(2) である。再掲しよう。
(1) あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境があなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います。
(2) あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。
ここで最も重要なことは、「周囲の環境のおかげだ」ということではない。「あなたがたの努力の成果ではない」ということだ。
これはつまり、
「東大の合格したのは、自分の努力の成果だ」
という思い込みを否定しているのだ。
「今日は合格できた。これは自分が頑張ったからだ。まわりの人もいっぱい祝福してくれている。うれしいな」
と喜んでいる新入生の頭に、冷たい水をぶっかけて、
「あなたがたの努力の成果ではない」
というふうに思い込みを否定しているのだ。
新入生の人々は、入学式という華やかな門出において、たくさんの祝福を浴びている。春の陽光は輝かしく、気温は暖かくなり始め、桜の花びらはひらひらと散り、大学は入学式で祝福してくれている。世界のすべては自分の前途を祝ってくれているように見える。とても幸福だ。長年の受験勉強の成果が出たと思って、喜びに耽っている。
その幸福の絶頂において、上野千鶴子は冷や水をぶっかける。
「それはあなたがたの努力の成果ではない」
と。まわりの環境のおかげなのだ、と。その本意は、
「自惚れるな」
ということだ。
なるほど、入学式の場では周囲から祝福を浴びる。しかし本当に大切なのは、成功したときの祝福ではない。むしろ、あなた方が苦しんでいたときに支えてくれた、周囲の人々の励ましなのだ。
あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。
幸福なときに祝福してくれる言葉が大切なのではない。つらくて苦しんでいるときに支えてくれた人の優しさが大切なのだ。そのことを決して見失ってはならない。
東大に合格したことで、「おれは頭がいいんだ、偉いんだ」というふうに思いがちである。あるいは「おれはいっぱい努力したから立派なんだ」と思いがちである。
そのとき、人は傲慢になる。苦しいときに自分を支えてくれた人たちの思いやりを忘れがちになる。だが、
・ 常に励ましてくれた恩師
・ いっしょに支え合った仲間たち
・ 常に深い愛情で育んでくれた両親
(粉骨砕身働いて稼いでくれた)
こういう環境がなかったなら、今日の自分はあり得なかったのだ。そのことを決して忘れてはならない、と上野千鶴子は教える。
このとき、引き合いに出す形で、「それらを得られなかった子供たち」の話もする。たとえば、孤児院の子供たちがそうだろう。大学進学のためには新聞配達などをしなくてはならなかったかもしれない。そういう子供たちと比較して、自分たちの幸福を噛みしめるべきだ。……そういう話もある。とはいえ、それは、本旨ではない。まして、「そういう子供たちがいるという問題をなんとかせよ」という教育問題や社会問題を論じているのではない。「インセンティブ・ディバイド」の話をしているのではない。
上野千鶴子の話は、入学式の場に出た新入生に向けた話だ。それは、特定問題の話ではなく、もっと広くて深い話だ。それはいわば心構えの話だ。
そして、そこでは、何か新しい知識を授けようとしているのではない。人々が忘れがちなことに対して、「決して忘れるな」と諭しているのである。何かを与えようとしてるのではなく、何かを失わない方法を教えているのである。
だからこそそれは、広くて深い話となっている。いわば、海のように。あるいは、空のように。
比喩的に言うならば、上野千鶴子の話は、(特定概念を教えようとしているのではなくて、)「海のような空のような心構えをもて」という話だ。
そして、その本旨は、「自惚れるな」と語ることで、東大生を馬鹿にしようとしているのではない。非難しようとしているのでもない。むしろ、その逆だ。
彼女は、「自惚れることなく、謙虚になれ」と語ることで、「それこそ真実に至る唯一の道だ」と教えているのだ。これこそ先達の知恵というものだろう。
そしてそれを、厳しい言葉とともに与えるというのが、教育者の優しさなのである。……ここまで理解したとき、ようやく、話の真意を理解できたと言えるだろう。
【 関連項目 】
「自惚れるな」
という点については、下記項目を参照。
→ 頭が良くなる方法 : nando ブログ
ノブレス・オブリージュの語はこれまで様々の所で見聞してきました。ところが、その事例となると見聞する割に過少な印象を持っています。
”ノブレス・オブリージュ”は、実は権力者が権威付けや治世のために利用する都合のいい思想に過ぎないのでは、そういった懐疑的な見方を払拭できないでいます。
女であることを 絡め手から利用 したのか 闘ったのは 幻想 の もうひとりの 彼女じしん
女として あるべきだった <個>へのレクィエム 地獄で 会おうぜ
結局こういう人たちが何かあったときに環境に恵まれていただけで根本的は環境に恵まれない人と同じだものとか言って責任を自分でとろうとしないのでしょう。
その結果受け身になってしまい発展を阻んできたのでしょう。
今のことばかりで時間の感覚がない。
自惚れでも孤独になっても恐れず日本を引っ張って行けというのが正しいのでないでしょうか。
人のことを優先するのはエネルギーがいります。
> 大半がやかましいわって思ったんじゃないでしょうか。
教師の言葉を聞いて、そう思うような人は、大学に来るべきじゃないですね。独学で勉強しましょう。
唯我独尊かつコミュ障気味なので、大学生活で矯正されるといいですね。
> 自惚れでも孤独になっても恐れず日本を引っ張って行け
これもそう。高校生ならそういう判断でもいいが、大学生になったら、他人の価値を真に理解できるようになるでしょう。
人間が個人でできることには限界があります。他人の力を借りることで、これまでにないほど大きな領域に進出することができます。そういう人生経験を積みましょう。
自惚れは成長を止め、反省は大きな成長をもたらします。
同じ話を聞いたあと、それを自らの成長の糧とすることのできる人もいれば、いつまでも停滞している人もいます。その差はどこから来るか? 考えましょう。
これでも聞いて。
https://youtu.be/R7CsIOzkuEs
→ https://youtu.be/8g4cvRHzNu8
────────────────────
上野千鶴子の話を聞いて、反発する声が多い。「上から目線だ」「威張るな」「失礼だろ」などと。
これらの反発は、「自分がそういうふうに言われた」と思って、反発しているようだ。しかし、それは勘違いである。
上野千鶴子の話は、あくまで東大生向けの話だ。超エリートに向けての話だ。超エリートに対して、「おごるな、謙虚になれ」という話だ。
これについて「自分が同じことを言われた」と思うのは、勘違いも甚だしいし、自惚れが過ぎる。
きみたちは自惚れているようだが、上野千鶴子は、きみたちに向かって「おごるな、謙虚になれ」と言っているのではない。また、きみたちに向かって「社会に貢献せよ」と言っているのではない。
きみたちはエリートとして施しをする側ではなく、エリートから施しを受ける側だ。金持ちの側ではなく、乞食の側だ。
上野千鶴子は金持ちに向かって「施しをせよ」と言っているのであって、乞食に向かって「施しをせよ」と言っているのではない。
そこを勘違いして、貧乏人たちが「施しをせよとは何事だ」といきりたっている。呆れて物が言えない。
上野千鶴子に文句を言いたい人は、まずは東大に合格することだ。そのとき初めて、上野千鶴子に文句を言う資格ができる。
東大に合格してもいないのに文句を言っている人は、とんだ妄想者(勝手に東大生になったつもりの人)であるにすぎない。まずは妄想から目を覚まそう。上野千鶴子はきみたちに向かって言っているのではないのだ。
管理人さん 純粋さが 手枷 足枷になる世界なんて 潰してしまえば良いと 考えたのは おかしいかい 彼女はなぜ 施しが必要のない共同性を求める代わりに 自分を彼女がいき
彼女が自分を遺棄すべき共同性に捧げたのか ひとりはみんなのためにみんなはひとりのために 管理人さん アホらしいぜ
人間の意味 死の意味 彼女の諦感なのかな
アレが黒髪のかあいい女の子だったんだから