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センター試験では、第1問は論説文で、第2問は小説だ。これが例年の定番だ。小説の問題では、登場人物の心理を扱うのが常だ。ここのところずっとそうだ。
→ 過去3年間分の試験問題|大学入試センター
→ 国語 第2問 - 2019年 大学入試センター試験:朝日新聞
しかしながら、国語の試験では、小説を題材とするべきではない。なぜなら、「登場人物の心理を扱う」というのは、国語の問題ではなく、芸術の問題だからだ。
このような問題は、国語力を問う問題ではなく、人間の心理的な推察力(洞察力)を問う問題だ。それは、人生経験の多寡によって決まるのであって、若くて未熟な少年少女に問うの苛酷だ。また、国語の能力とも関係しない。
実際、センター試験のような問題は、特に小説(言語)を使う必要はなく、映画でもアニメでも構わない。同じ題材を映画やアニメで表現して、
「このときのヒロインの心理は、次のどれであったか?」
というふうに問うても、まったく同様の結果となる。その意味で、センター試験の国語は、「国語力を測る」には不適切なのである。
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この件は、前にも詳しく述べたことがある。
国語の問題に「小説の登場人物の心理」を問うのは、あまりにも理不尽なことなのだ。それは国語とは関係のない問題だからだ。
ちなみに、同じ例を国語ではなくて漫画で描くこともできる。その場合、「登場人物Aはどういう心理であったか?」を問うとして、それが漫画力のテストとして役立つか? 絵の上手下手と何らかの関係があるか? もちろん、関係はない。
どうしてもストーリーやキャラの質問をしたいのであれば、いっそのこと、小説を扱うのはやめて、アニメか長編漫画でも使えばいい。たとえば、「けいおん」を見せて、「あずにゃんはどうして放課後のティータイムにコーヒーを飲みたくなったのでしょう?」というような質問をすればいい。
馬鹿げている? 確かに、馬鹿げている。しかし今の国語の問題というのは、こういうレベルなのだ。
( → 2012年のセンター試験・国語は愚問: Open ブログ )
国語の試験では、「登場人物の心理を問う問題」があってはならないのだ。それは国語の能力を測る問題ではないからだ。(ここまでは前項で述べたとおり。)
にもかかわらず、この両者を混同する人が多いのはなぜか? その解答が、本項にある。こうだ。
「それは、国語と文学を混同している人が多いからだ」
特に、国語教師がそうだ。国語教師は、大学で文学を学んだ人が多い。そういう人は、大学で「登場人物の心理を問う」というような卒論や研究論文を書く。だから、それが国語力だと勘違いする。
違う。文学と国語とは別のものだ。重なるところも多いが、重ならないところも多い。
そして、重なると言えるのは、(文学の)言語能力の部分だけなのだ。一方、(文学の)芸術性の部分は、まったく重ならない。芸術性の部分が重なるのは、国語ではなくて、映画や漫画なのである。そして、その芸術性の部分を、国語に持ち込んで、テストに出すというのは、とんでもなく間違ったことなのだ。
( → 国語と文学を区別せよ: Open ブログ )
こういうことは当然だと思うが、これを聞いてもまだ納得できない人は、冒頭でリンクしたセンター試験の第2問(各年度)を実際に調べてみるといい。
「登場人物の心理を問う」
という問題が、いかに国語力とは関係ないか(むしろ人間の心理的な推察力に依存しているか)が、よくわかるはずだ。
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なお、「登場人物の心理を問う」というのが、いかに不適切であるか、実例を示そう。
「神田川」という有名な歌謡曲がある。歌詞の一部は下記。
貴方は もう忘れたかしら
赤い手拭 マフラーにして
二人で行った 横町の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに
いつも私が 待たされた
洗い髪が芯まで 冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私の 身体を抱いて
冷たいねって 言ったのよ
若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった
( → 神田川 歌詞 )
ここで、最後に「貴方のやさしさが 怖かった」という文句がある。この「怖かった」というのは、どういう意味か? それを問う。
解答例は、下記にある。
1.今の優しさが永遠に続いてくれるか、急に不安になってしまった
2.優しさに慣れていないため それが幸せを通り越して漠然とした恐怖になった
3.自分が相手にも優しく出来ないので、振られてしまう恐怖が湧いてきた
4.その優しさは、彼が浮気をして後ろめたいから優しくされている気がした
5.彼がなんらかの事情でいなくなってしまったとき、優しさがどこに向かうかの恐怖
6.相手の優しさは、自分には答えられないくらい強すぎた
( → なぜ「貴方の優しさが怖かった」のか?『神田川』の歌詞、衝撃の真実 )
しかし、いずれも不適切だと思う。私の示す模範解答はこうだ。
「私のからだを抱いて、冷たいねって言ってくれた。そのとき、相手の優しさを身にしみて感じた。このひとときの幸福を感じるとともに、この幸福がもろくてこわれやすくて、すぐにも失われるのではないかと恐れた。今のひとときの幸福を感じれば感じるほど、その幸福が失われることに恐れを感じた。それが、怖かったことの正体だ」
これで正解となるだろう。
しかし、この正解を出すには、国語力だけでは足りない。
「今のひとときの幸福を感じれば感じるほど、その幸福が失われることに恐れを感じる」
ということを、理解することが必要だ。そしてそれは、決して勉強によって学ぶことではない。恋愛経験を通じて理解することだ。そして、恋愛経験を通じて理解するということは、人間にとっては大切ではあっても、学校の試験で点数を付けるようなことではないのだ。
( ※ イケメンや美女ほど恋愛経験があって有利であり、ブサメンやブスは恋愛経験がなくて不利となる。そんなことで点数付けするべきではない。)
さらにまた、こういう事柄は、コミュニケーション力にも依存する。コミュニケーション力の高い人には有利だが、コミュニケーション力の低い人には不利である。なるほど、コミュニケーション力は、それはそれで大切だが、だからといって、ペーパー試験で点数を付けるようなものではないのだ。
( ※ こんな試験を重視すると、アインシュタインや渡辺・元竜王みたいな内向的な人は、圧倒的に不利になるからだ。 → 面接入試はなぜ駄目か?: Open ブログ )
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さらに、決定的に重要なことがある。
上で述べた「模範解答」は、実は、真相ではないのだ。歌詞の作者が、意外な真相を教えている。
そもそも、普通に読めば、この歌詞は、次のシーンとなる。
「夜の風呂屋の前で、女性が待ち続けている。そこへ男性がやって来て、女性の体を抱いて、冷たいねと優しく言った」
しかしこの解釈には、矛盾が生じる。この解釈だと、いつも女性ばかりが待たされることになる。男性はいつもいつも待たせっぱなしだ。そんなひどい男性は、ちっとも優しくない。
そういうふうに疑問に思っていた読者に、作者は意外な真相を教える。
外で待っていたのは、女性ではなく、男性だったのだ。作者は男性であり、しかも長髪だった。その男性が風呂屋の外でいつも待たされていた。そこへ女性がやって来て、男性の体を抱いて、冷たいねと優しく言った。
これが真相であるらしい。
→ なぜ「貴方の優しさが怖かった」のか?『神田川』の歌詞、衝撃の真実 | 泣ける映画と本のblog
→ 【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!
これには、疑問もあるだろう。
「でも言葉が女言葉じゃないか。忘れたかしら、とか」
「相手の言葉が男言葉じゃないか。悲しいかい、とか」
この疑問については、作者は次のように語っているそうだ。
「歌詞の語り手は、男でも女でもいい。どっちで理解してもいい」
「ただし、自分自身は、男性視点で歌詞を書いた。そのとき、日常生活における女性の優しさに溺れそうになることに、怖さを感じた。なぜなら自分は学生運動に注力するのが本分だと思っていたからだ」
ということであるらしい。引用すると、こうだ。
喜多條自身は後の新聞対談で、驚くべき真相を明かしています。
学生運動の最中、機動隊と衝突する激しいデモ活動に明け暮れていた自分。
疲れ果てて帰ると、学生運動と無縁の彼女は穏やかにカレーライスを作っている。
そんな彼女を見ていると、平穏な暮らしについ心を奪われそうになる。
しかし、それは活動家としての自分の信念を揺るがせることに他ならない。
自分のために料理を作る彼女の「やさしさ」こそが、自分にとって最も怖いことなのだ。
( → 【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!の2ページ目 )
なんじゃらほい、という気にさせる(脱力させる)感じの告白ですね。意外なる真相。
そして、これが真相だとすれば、先に挙げた模範解答はまったくの間違いだったことになる。
これに対しては、次の反論も来るだろう。
「国語の試験というものは、作者の意図とは関係なく、問題自体として定まる。だから、そこにおける模範解答が、作者の意図とはまったく異なるものであっても、構わない」
なるほど。それはそうかもしれない。
しかし、作者の意図(真実)とは全然関係ないところで、別の「正解」が定まるようでは、それはもはや「学問」とは何の関係もないものとなる。それは、芸術としては成立するだろうが、学問としては成立しないのだ。
そして、入学試験というものは、芸術の能力を調べる試験ではなく、学問の能力を調べる試験であるのだから、「登場人物の心理はどうであるか」というような設問は、まったく不適切なのだ。
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「登場人物の心理はどうであるか」というような設問は、芸術分野でなら、非常に大切だろう。たとえば、
・ 小説
・ アニメ
・ 映画やドラマ
などの作品を創作する場合には、決定的な重要性を帯びる。だから、
・ 小説家の養成講座
・ アニメや映画やドラマの脚本家の養成講座
などでは、上記のような試験で、対象者を選抜することは非常に重要となるだろう。
しかしながら、(芸術家ではない)普通の職業の人にとっては、そんな能力は不必要だ。
・ プログラマー
・ エンジニア
・ 法律家
・ トラックの運転手
・ 工芸品の職人
・ 料理のコック
こういう普通の職業の人にとっては、「芸術作品の登場人物の心理を理解する能力」なんてものは、まったく必要とされないのである。
せいぜい、それが役立つ場合があるとしたら、ただ一つ。こうだ。
「職場恋愛で、同じ職場の異性と恋愛または不倫をするとき」
で、たいていの人は職場恋愛なんかしないから(既婚のことも多いから)、役立つ場面があるとしたら、不倫ぐらいだろう。
要するに、今の国語試験は、「職場の不倫を推進すること」に役立つぐらいであって、他はまともな用途がほとんどないのだ。
( ※ まさか、法律家やエンジニアが、アニメ監督や映画監督に転職するわけじゃあるまいし。)
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というわけで。
入試の国語の問題で「小説の登場人物の心理」を問うのは、不適切だ。それは国語とは関係のない問題である。そのような問題は一切廃止するべきだ。かわりに、論説文だけを扱えばいい。
これが結論となる。
( ※ 結論自体は、前に述べたままだが、それをいっそう補強する論拠を示した。「神田川」という曲を使って。)
( ※ 「神田川」の話の方がメインになっているかも。)
おまけで、赤ちょうちん。
[ 付記 ]
待たされたのが男か女かというと、「どっちでもいい」というのが作者の見解らしい。だが、まともに考えれば、待たされたのは男であろう。
風呂で時間がかかるのは女だ、と相場が決まっている。髪を洗うのに丁寧に洗うからだ。男の方はいい加減に洗うので、あまり時間がかからない。
ま、風呂の時間が違っても、終わったあとは館内で待っていればいいのだが、男だと、焦って、待ちきれずに、勝手に外に出てしまう。一度やって懲りたら、次は館内で待てばいいのだが、勝手に館外に出て待ち続ける。
ここでは、「一方がもう一方を待たせた」のではなく、「馬鹿な一方が勝手に早く館外に出てしまう」だけだ。こんなふうに学習効果がなくて、毎度毎度、無駄に待ち続けるなんて、いかにも阿呆くさいので、体力のある男以外にはあり得ないだろう。(女性の体力では、やってられない。)
したがって、「待たされた」のでなく「無駄に待ち続けた」のは、女性でなく男性だ。そういう馬鹿な男性に近づいて、優しく「冷たいね」と言ったのが女性だ。その意味は「待たせてごめんね」というよりは、「ずっと待っててくれるから、愛されて嬉しい」だ。
そのまた意味は、「一刻でも早く女に会いたいという思いで、待ちきれずに勝手に外に出てしまった男の、その気持ちがいとしい」だ。つまり、「愛されて嬉しい」だ。そして、そういうふうに嬉しがる女の気持ちが、男にとっても嬉しいのだ。(愛しあう幸福感。)
ここまで理解して初めて、男女の機微というものがわかる。ここまで登場人物の心理を知ることが、芸術の理解というものだ。
とはいえ、それは、国語力とは何の関係もない。男女の機微を知る能力は、大学入試で測るべき能力ではない。また、高校生時代に獲得するべき能力でもない。(高校時代には恋愛禁止みたいなことを言っている学校も多い。特に、男女別学の学校は、学校制度そのものが恋愛禁止みたいになっているのも同然だ。)
[ 余談 ]
蛇足だが、冒頭にある朝日新聞のリンク先ページでは「2019年度」と記してある。しかし実施日は「 2019年1月19・20日」であるから、「2018年度」が正しい。
朝日新聞社は、「年度」と「年」との区別が付かないんですね。困ったことだ。
《 加筆 》
コメント欄で指摘を受けたが、これは朝日新聞の独自のことではなくて、もともとセンター試験そのものがこのような数え方をしているのだという。
実際、調べてみたら、朝日新聞以外の他社も、いずれも「2019年度」というふうに表記していた。
へえ。世の中の常識とは異なるメチャクチャがまかり通るんだ。
それらを含めて”国語”とする見方が国語の教育者の大勢を占めているのでしょう。そういった立場からの、国語力の評価に心情を理解?洞察?推量?することの必要性を示してほしいところです。
※ 特に、「登場人物の心理」というやつが問題だ。純粋に表現だけを扱うのならばいいんだが。
この件は、前に扱ったことがある。一部抜粋。
> 入試においては論説文だけでいいが、教育においては文学作品も扱うべきなのだ。
→ http://openblog.seesaa.net/article/462450056.html
これは、「試験に出るのが論説文だからといって、論説文だけ学べばいいわけではない」ということであり、「必要なものだけ学べばいいのではない」というふうに述べて、「選択と集中」を否定する話に結びついている。かくて、日本の企業や政府が「選択と集中」で失敗している話と結びつけて論じている。
面白い話なので、このリンク先を読むといいだろう。
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ともあれ、入試では小説を排除するべきなのに、小説がやたらと幅を利かせる。
一方で、教育の場では文学を重視するべきなのに、教育の場では文学が排除されていく。
やるべきことが正反対だ。狂気の教育政策。日本亡国が狙いかな。いかにも安倍政権だ。(首相は漢字もまともに読めないレベルだし。)
論説文 だけか 現代国語 現国の話ですよね
言葉 文字に書かれたもの を 読み 感動することが 最初でしょ 小林秀雄の文章は ポエティックな芸術ですね そのなかに 泰子 を 感じたりするのも なかなか いいです
管理人さんの趣旨なら 言語 能力 なんて 外国語 英語かな で 測れば 足ります
国語力と言語能力 そんなもん 測れますか 論理的な文章 ボールベアリングの耐圧性の検査結果ですか サケ科の陸封についての一考察かな
自ら 否定した大学 頃 小林秀雄は わからなかった 終りはじめて わかってくるのか 彼 古典となるか か な
漫画 表現 管理人さん 改めて 考えては 柘植義春 文学賞の可能性 ある そうですし ソースは眉唾ですがね
くどいですが 小林秀雄は芸術です wikiの文章と 違う
タイムスタンプは 下記 ↓
>ここまで理解して初めて、男女の機微というものがわかる。ここまで登場人物の心理を知ることが、芸術の理解というものだ。
理解する必要性が感じられませんが...
”寒い中待っていて風邪をひいたら元も子もない。早く出たどちらかがさっさと帰って部屋を暖めたり暖かいものを作っておいた方がいい”
と、身も蓋もないことを書いてみます。
◯◯年度に入学する学生のための試験
という意味で、あえてそのような表記にしているみたいです。
私自身も過去問を解いているときに変だな〜と思っていたので、調べてみました。
混乱するのでやめてほしかったですけど。
ご指摘を受けて、本文の最後に 《 加筆 》
というのを書き足しました。
そうですかね?
ステレオタイプな文学少年・少女はコミュニケーション能力が高いとは到底思えませんが、小説の読解なんかは当然得意でしょう。
もっと言えば、そもそも小説家(あるいは漫画化でも良い)の人達自体がそんなに社会経験豊富とも思えまえんし。
小説の登場人物の心情を読み解く能力って、もっと独特の物だと思います。
結局のところ豊富な読書量で自然にセンスが磨かれるか、そのためのメソッドを身に付けるかじゃないでしょうか。
小説の読解を一般的に上手にできるとしても、登場人物の心理そのものを上手に理解できるとは限りません。
ちなみに、料理小説や「美味しんぼ」をいくら読んでも、料理が上手にできるとは限らない。読んで済むわけじゃない。
> 小説家
自分の体験に基づくことは上手に書けても、他人の体験に基づいた小説をうまく読み取れるとは限らない。
魚釣り小説を上手に書けるからといって、料理小説を上手に読み取れるとは限らない。まして、他人である登場人物の心理については。特に、女性心理については。
男臭いヤクザ小説の小説家が、女臭い少女小説の登場人物の心理をうまく理解できるわけじゃない。
> 豊富な読書量で自然にセンスが磨かれる
いくら読書したって人間心理を理解できるようになるわけじゃない。そのことは読書量が増えれば自然にわかります。まともな本を読めば「無知の知」を理解できる。「どれほどたくさん読書しても、読書だけでは理解できないことが多すぎる」とわかる。読書量が豊富になれば、読書の限界を知るようになる。
そんなこともわからないようでは、あなたの読書量は全然足りない。まだ小学生レベルです。面白おかしい大衆小説よりも、人生を考えさせる哲学的な小説をいっぱい読みましょう。
ただし、読書を1万冊するよりも、1人の女の子とじっくり付き合う方が、より多くのことを学べます。(体験談)
「センター試験」は略称、正式名称は「大学入学者選抜大学入試センター試験」です
のかわりに
「2019年度大学入学者選抜大学入試センター試験」
なら、たしかに問題なさそうだけど、実際には、
「2019年度試験」
という用語で使われていることが大半です。リンク先でもそう。
なお、これは略称ではありません。「試験」は略称ではないし、固有名詞でもないので。
うん?
管理人さんの言いたいことが分からない。
そもそも国語の読解問題に正解できるかって話ですよね?
リアルに人間の心理を理解出来るかってのは議題としては二の次というか、管理人さんの論理の過程で出てきた一要素でしかないと思ったのですが、違うんでしょうか。
「センター試験の小説問題で高得点」と「コミュ力が高い」が完全に一致するというのが管理人さんの論旨ということでよろしいですか?
つまり管理人さん的には国語のセンター試験(小説)の得点は
人間の心理に精通した人>小説読解に優れた人
コミュニケーションに優れた(例えば)サッカー部員>文学少年・少女
って考えているってことですか?
うん、あり得ない。
よろしくないです。私はそんなことは言っていません。この手の藁人形論法が多すぎますね。
(小説試験で)高得点にはコミュ力が必要ですが、逆は成立しません。
必要条件と十分条件は異なる、ということを理解しましょう。
もういいです。
4/11 12:34アラ還オヤジ発言のことでしたら、
論説文は論理構成力が必要だし小説も人生経験が少ないので、正解することでは点が取れない、しかし出題者が回答として何を期待しているか忖度できれば点が取れる、ということで、将来の役人候補としての学生の忖度能力を判断するためにあえて正解が曖昧な小説試験を課しているのかと思ったものです。
反れた解答で申し訳ない。
忖度能力が高いからといってコミュ力が高い(共感力がある)と限らないのはS大臣の例を見ても明らかですが