何らかの結果を得たとき、その結果をわざと目的としていたのだ、と考える立場がある。(前項の続き)
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何らかの結果を得たとき、その結果をわざと目的としていたのだ、と考える立場がある。これを「目的論」と呼ぼう。
一方、あるがままに結果を結果と見なすのを「結果論」と呼ぼう。
「結果論」は、事実をあるがままに見るので、ただの科学主義である。
「目的論」は、事実において何らかの意思が働いていると見なすので、一種の精神主義である。
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前項の例で言えば、ジョギングとβ-エンドルフィンの関係がそうだ。
ジョギングをする → β-エンドルフィンが出る
という生理現象がある。この生理現象について、後者(β-エンドルフィンが出ること)を、単に「結果」と見なすのならば、結果論だ。これは、ただの科学だ。
一方、後者を、「ジョギングすること」の目的だと見なすのならば、目的論だ。ここでは、「β-エンドルフィンによる麻薬効果を得るためにジョギングをする」というふうに、後者を目的と見なす。つまり、「人間がジョギングをするのは、ジョギングによって健康維持を図るためだ」という本来の目的は無視される。本末転倒的な議論となる。
同様に、
悪口を言う → ドーパミンが出る
という生理現象についても、次のようになる。
・ 悪口を言ったら、ドーパミンが出た。(結果論)
・ 悪口を言うのは、ドーパミンを出すためだ。(目的論)
※ ドーパミンを出すため = 快感を得るため
しかし、目的論ふうの考え方が、物事の一面だけしか見ていない、ということは、前項で示したとおりだ。
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生物の生理現象には、このように「結果論」と「目的論」の二通りがある。科学者ならば、「結果論」を取るべきなのだが、現実には「目的論」を取る人が多い。そこでは、ありもしない意図を、ことさら見出しがちだ。いわば、幽霊を見出すように。(それは大いなる勘違いなのだが。)
同様のことは、進化論の世界でも見られる。進化の理由を「結果論」で解釈せず、「目的論」で解釈する立場だ。
たとえば、次のように考える。
「象の鼻が長いのは、鼻でこれこれのことをするためだ」
しかしこれは、次のように考えるべきだ。
「象の鼻が長いと有利だったので、結果的に象の鼻は長くなっただけだ」
このように「目的論」よりも「結果論」で考える方が、進化論の解釈としては妥当なのだ。このことは、前に詳しく述べたことがある。
→ ゾウの鼻はなぜ長い 1: Open ブログ
──
結果論というのは、ただの科学だ。
一方、目的論というのは、事実に対して何らかの意図を(強引に)見出そうというものだ。それはちょっと、(天地)創造説に似ている。そこでは、世界が作られたのは「神の意志」によるものだとされる。つまり、神が何らかの「目的」をもっていたとされる。そういう宗教的な発想だ。
進化論における「目的論」というのは、そういう神秘的な「意図」を前提とした発想なのだ。
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生理現象における「目的論」もまた同様だ。人がジョギングをするのは、ジョギングをしたいと本人が思ったからだ。それが科学的な発想だろう。(結果論)
なのに、目的論では、「人がジョギングをするのは、β-エンドルフィンという麻薬物質を得るためだ」と考える。つまり、本人の意思を越えた超越的なもの(神?)を想定して、「人がジョギングをするのは、β-エンドルフィンという麻薬物質を得るようにと、超越的なものに操作されているからだ」と考える。まるで(神に操られた)操り人形のように。
しかし、そういう認識は不正確なのだ。β-エンドルフィンという麻薬物質による快感が生じるとしても、それはジョギングをさせるための誘因の一つであるにすぎない。全体のうちの一部分(一要素)にすぎない。決してそれがジョギングの主因ではないのだ。
ネットでバッシングをすることもまた同じ。それによって快感が得られるとしても、そのことは、多くの誘因のうちの一つであるにすぎない。仮にそんなことが主因であるのならば、日本中の全員がネットでバッシングをすることになる。(快感を求めて。)……しかし、そんなことはありえない。
ネットでバッシングをする人には、その人なりの、特定の理由がある。不幸感とか、精神的荒廃とか。……そういう個別事情こそが、「その人がバッシングをする理由」となるのだ。
ひるがえって、「バッシングをすると、ドーパミンの快感が得られる」というようなことは、誰にも当てはまる生理現象である(生物学的には誰もが同様である)のだろうが、そのことは決して、「バッシングをすること」の理由や目的にはならないのだ。実際、たいていの人は、バッシングをしない。そうすれば「ドーパミンの快感が得られる」ということはあるだろうが、だとしても、たいていの人は、バッシングをしない。
目的論ふうの考え方は、物事を正しく理解することとは大きく隔たっているのである。
[ 付記1 ]
「不幸感とか、精神的荒廃とか」と述べたが、これは重要である。
ひるがえって、恋愛に熱中している人は、ネットでバッシングなんかしないはずだ。そんなことをするよりは、
「また彼女と会ったときに、どういうふうにキスしようかな。どこに触ろうかな」
というようなことばかりを考えているはずだ。どうせ快感を得るのなら、バッシングの快感なんかより、キスしたり、胸に触れたりする快感の方が、ずっと上である。
幸福な人は、バッシングなんかしない。……この事実の前に、おかしな仮説(快感のためにバッシングするという説)は、あえなく崩壊してしまうのである。
( ※ 快感を得ることは、一つの誘因[一要素]にはなるとしても、物事の全体像を示すには程遠い、ということ。)
[ 付記2 ]
「目的論が正しくない」ということは、論理的にも示すことができる。
一般に、次の因果関係があるとする。( A ならば B )
A → B
このとき、A の結果は B だけでなく、他にもたくさんある。最初の B を B1 と書き、他のものを B2 ,B3 ,B4 と書くことにすれば、次の図式を書ける。
B2
↑
B3 ← A → B1
↓
B4
これを見て、「B1 を目的としてAがあった」というふうには主張できない。なぜなら、B1 に限らず、B2 ,B3 ,B4 についても、同様のことが言えてしまうからだ。そのどれであってもいいのだから、ことさら B1 だけを取って、「B1 を目的としてAがあった」とは言えないわけだ。
というわけで、ことさら B1 だけに着目して、「B1を目的とした」というような説は、成立しないわけだ。( B1 はあくまでも一要素にすぎない。)
[ 付記3 ]
本質的に言うなら、むしろこう言える。
「人々がバッシングをするのは、攻撃対象が悪をしているからだと錯覚して、自分が善をなしていると錯覚しているからだ」
換言すれば、「自分が愚かな間違いをしていると気づかないから」だ。
バッシングを受ける人は、悪をなしていないのだが、「悪をなしている」と誤解される。この誤解こそが、人をしてバッシングに走らせる理由だ。
この誤解は「共同幻想」(by 吉本隆明・岸田秀)みたいな用語で理解する方がいいかもしれない。
なお、(誤解としての)バッシングの例は、下記。
→ 朝日騒動の関連用語: Open ブログ
ここで、「社会的バッシング」の箇所に、5例が記してある。
【 関連項目 】
→ 対人攻撃は快楽が目的?: Open ブログ (前々項)
→ 心はどこにあるか?/快感とは何か? : Open ブログ (前項)
2019年02月05日
過去ログ

AならばBが真である
場合、
BならばAは、必ずしも真であらず。
の説明の方が、適当かと思います。つまり必要十分条件は必ずしも成り立たない。
管理人さんが言われる件は、ひと言でいうなら因果関係を逆に捉えるなということで
この必要十分条件の論理だと、逆も真なりということが起きますが、因果関係では逆は真なりにはなりませんので、そこは論理と違う話ですね。
前者ならば「必要条件・十分条件」という言葉を使えますが、本項では違います。
AならばBである
AならばBになる
という違い。
目的論が多いような気がします。
ダーウィンが来た でした。
パッシングなんて生産的でないことをするのは、不幸や精神荒廃をする人たちだと、いう趣旨かと思うのですが。
いわゆる「暇人」なんかのパッシングは、パッシング自体が快楽目的になっているような気がします。
まあ不幸や精神荒廃の定義は難しいのですが。
「暇人」で社会的に裕福な人とかもいるので、まあ一概にはいえないかと。
くら寿司(やセブンイレブン)で騒ぎを起こした高校生を、世間がよってたかって大非難しているが、それも、ただの「攻撃する快楽を求めるだけ」と見なすことはできない。もっと別の要因が大事だ、ということ。
この例で言えば、次に指摘された勘違いが大きい。
→ http://b.hatena.ne.jp/entry/4664381627933880801/comment/stp7
時給が低いから責任感が低い人間が集まる、という見方には同意ですが。
責任感が低い人間が、こういうおかしな動画を投稿するのは、「快楽」目的ではないでかねー(人が迷惑するのを喜んだり、話題に上がって目立つのが楽しい)。
まさしく、そうですよ。そういう普通っぽい理由がある。そしてそれは、誰にでもある感情だ。たとえば、はてブでスターをもらうのが楽しいとか、 twitter や Facebook で「いいね」をもらうのが楽しいとか。まさしく「話題に上がって目立つのが楽しい」だ。
一方、件の記事では、「攻撃すること自体が快楽だ」という、殺人狂みたいな精神異常者の話。普通の精神構造の人とは別で、ヤク中みたいになった人の話。私はそういう極論を否定している。
他人を攻撃するために「個人情報を調べたり、攻撃のために手間暇(時間とお金)をかけて準備する」というのであれば、少々常軌を逸していると思います。
身近な人の陰口をたたいたり、twitterでちょっこっと批判したり、そんな軽いレベルで「快楽」を得ているって、結構あると思いますけどね。
女性の陰口なんて、そのレベル。
昔ならともかく、今は、読書、ゲーム、動画などなど一人で楽しめるコンテンツなんて存分にあるのに、その時間をあえて人をバッシングするtwitterなどをするなんていうのは、ある程度「快楽」部分はあると思います。
ワイドショーなんて下らないし、意味ないと皆思ってると思いますが、それはなくならない。それはやっぱり、バッシング・悪口にも「快楽」部分がある程度あるからかな、と思います。
部分的にはそうですね。否定はしていません。
この件、もう何度も何度も同じことを答えているんですけど。
同様のコメントが多すぎるので、他人のコメントを読んで、私の返答も見てください。
> 同様のコメントが多すぎるので、他人のコメントを読んで、私の返答も見てください。
それは失礼しました。
ただ、この記事の元になっている「対人攻撃は快楽が目的?」では、
http://openblog.seesaa.net/article/463982958.html
>「(ネットなどで)他人のアラ探しをするような攻撃性は、快楽のためだ」
という主張が示されていた。攻撃すると、快楽物質としてのドーパミンが出るが、これが脳内麻薬となって、人を誘う。だから、麻薬漬けになるようにして、人は快感を求めて、他人を攻撃するようになる……というわけだ。
しかし、それは一面的すぎる。ドーパミンには、脳内麻薬のような効果がなくもないが、それを目的として人が行動するというのは、あまりにも一面的すぎる。人間の心理は、そんな「パブロフの犬」みたいな単純なものではないのだ。
それよりはむしろ、攻撃者の人間性に目を向けるべきだ。彼らがいかに苦しんでいるかを、人間的に理解するべきだ。彼らを(ホルモンを分泌する)実験動物としてみるのではなく、自分たちの仲間として人間的に理解するべきだ。それは「共感する」ということでもある。そういうふうに人間性によって相手を理解して初めて、物事の真実が見えてくるものだ。
と書かれているんですが。
twitterとかで軽く馬鹿な事言ったり、やったりする人達って人間性というより、「一時的な快楽」って側面が強いと思うんです。
だって10代の頃って、「社会的にどういう影響があるか」とか考える人間より、「今、ふざけて楽しいことやろうぜ」的な方が比率としては高い気がするんです。
だとすると、ドーパミン=快楽→ふざけた行動も部分的という限定的なものではない気がするんですよね。
長文失礼しました。
なんてことはありえません。あなたはここを誤解しているから、以後のすべてが砂上の楼閣となっている。
ドーパミンは、カフェインみたいな興奮物質ふうのものであって、快感を与えるものではありません。ドーパミンで快感を感じるというのは、コーヒーを飲んでおいしく感じるというのにちょっと似ている。
前項を参照。
「今、ふざけて楽しいことやろうぜ」
は、快感ではあるが、ドーパミンとは関係ない。
> 「一時的な快楽」って側面が強いと思うんです。
それは成立するけど、ドーパミンは関係ない。
もっと典型的な例では、お風呂に入ったり、落語を聞いたりすると、くつろいで快感を得られるが、ドーパミンはまったくといっていいくらい出ない。ドーパミンが出るのとは逆の状態となる。お酒を飲んでいるときも同様。女の子と見つめあっているやキスしているときも同様。
なお、これらの状態では、オキシトシンが分泌されることもあるが、だからといって、人は「オキシトシンが出ることを目的として、そういうことをする」というのは、話が逆だ。(目的論)
→ http://j.mp/2BEKovz
しかし、芸術家が創作活動をするのは、ドーパミンを出すためだ、と理解するのは、本末転倒だ。
ここでは、ただの結果論にすぎないことを、目的論で説明していることになる。見当違い。