2018年07月27日

◆ 死刑と射殺と天声人語

 オウム事件の実行者に死刑が執行された。これについて天声人語が論じている。

 ──

 天声人語の一部抜粋。フランスの弁護士で法相になって死刑廃止を実現したバダンテール氏の発言。
「民主主義国家であることと死刑制度は共存できない。人命尊重は人権思想の基本であり、民主主義は人権に立脚しているからです」
 13人。その響きにたじろいでしまう。オウム真理教事件に関わる死刑執行が、二度にわたってなされた。世界の流れから離れ、制度が動き続けていることをあらためて思う。
( → (天声人語)死刑という制度:朝日新聞[有料] )

 フランスの元法相の言葉を引用しているが、天声人語もまたこの意見に賛同しているわけだ。
 ここでは、「死刑執行は人命尊重に反する」(だから駄目だ)という発想が述べられている。

 しかしこれは自己矛盾だろう。そのことは次のことで示される。
 「死刑廃止国では、死刑を執行する日本よりも、多くの人々が国家によって殺されている」


 このことは「犯人を現場で射殺する」という形でなされている。下記に詳しい。
  → 死刑廃止国が犯人を射殺した件数を調査してみた
 人口あたりの件数で、ドイツやフランスでは、日本における死刑執行者数を上回る率で、犯人が現場で射殺されている。たとえば、次のように。
 警察官2人が警察署近くの有罪判決を受けた大麻販売店を検挙しようとした。
販売店の男が警察官から逃げようとしたところ、警察官に頭の後ろを撃たれて即死した。

 ともあれ、これが「民主主義」を標榜するドイツやフランスの現状である。

 死刑廃止というのは、ある種の人生観や倫理観の問題だ。私はそう考える。
  → 死刑廃止とサッカーのごみ整理: Open ブログ
 そういうわけだから、頭ごなしに「死刑廃止は、良い/悪い」と決めつけることはできない。各人はそれぞれ自己の信念に従って主張していい。
 しかしながら、自分自身の主張に自己矛盾があってはいけない。「死刑は人権無視だが、射殺は人権無視ではない」というような発想は、とうてい受け入れられない。それは二枚舌も同然だ。

 本項では、死刑の良し悪しよりは、論理的矛盾という観点から指摘をしておいた。

 ※ なお、「死刑は殺人だ」という論法もあるが、
   それを言うと、「徴税は泥棒だ」となるぞ。

 ──

 最後に、結論ふうに、うまいことを言っておこう。こうだ。
 「犯罪者には、死刑になる権利を与えよ」

 これは発想の転換だ。死刑廃止論者は、「死刑は最悪の残虐行為」と見なしている。しかし、違う。死刑は恩恵なのだ。
 なぜか? 死刑になるには、十分な論議がなされるからだ。また、死刑執行までは二十年ほどの生きる権利が与えられるからだ。
 一方、現場の銃殺では、そのどちらも与えられない。十分な論議もなされないし、執行(殺害)は即時だ。あまりも残虐である。
 だから、そういうことがないように、「死刑になる権利」を与えるべきなのだ。これこそ、文明国のあり方だ。一方、即時に銃殺するなんて、あまりにも野蛮である。しかも、それが例外ならともかく、欧米では件数も比率も多すぎる。日本の死刑執行を上回る。
 これじゃまるで、暴虐を尽くしているジャイアンが、のび太に「暴力をふるうなよ」と諌(いさ)めるようなものだ。呆れてものが言えない。




 [ 付記1 ]
 射殺について紹介したので、補足となる話を紹介しておこう。
 射殺という点では、日本の警察は、極力、犯人を殺さないようにしている。そのせいで、警察官が無理をして重症を負う、という事例もあるようだ。
  → 拳銃奪われ発砲 警官重傷、容疑の男逮捕[横須賀]

  ※ ただし、このニュースは奇妙なところが多すぎる。
    警察発表では隠蔽がある疑いが強い。下記。
     → 警察官、銃を奪われたうえに発砲され重傷 2016年1月16日

 別に、上の話にこだわっているわけではないのだが、ちょっと事例を探すうちに、おかしな事例にぶつかったので、簡単に紹介しておく。

 [ 付記2 ]
 ついでだが、天声人語の最後には、次の話がある。
 13人のうちの1人が残した言葉である。「毎週金曜の朝に『執行』と言われなければ、明日明後日は週末だからないんだ、と一息つく生活です」。そうやって、死を待っていた。

 そうやって、死を待っていた、というのを、「かわいそうな・残酷な」事例とみているらしい。
 しかし、私はそうは思わない。このような行為は、罪人にとっては「悔い改める」機会だろう。なぜなら、「あす死ぬかもしれない」というふうに恐怖に戦くことは、被害者が死ぬ前の思いを追体験させるからだ。自分が「あす死ぬかもしれない」と思うことで、自分が被害者に同じ思いをさせたことを追体験させて、自分自身の罪深さを悟る……そういう機会が与えられているのである。かくて罪人は悔い改めることができる。
 死刑囚にとって何よりも大切なのは、死刑の前に「死に怯える」機会を与えられることだ。そうして生と死について深く実感する機会があることこそ、死刑という制度の本質的な部分かもしれない。つまり、死刑の本質は、死刑執行そのものよりも、死刑執行の前の日々にあるのかもしれない。そんな気がする。

 [ 付記3 ]
 本項は、生と死についてのエッセーです。
 死刑について、私自身の意見は、下記。
  → 死刑存廃は本人が決めよ:  nando ブログ
  → 死刑執行の責任は?:  nando ブログ



 [ 余談 ]
 上の [ 付記1 ] で述べた横須賀の発砲事件では、警察におかしなところがある。行政ミスか何かあるのだろうか。
 どうも、安倍政権になってから、日本ではあちこちでおかしな行政行為が見つかるようだ。官公庁自身における内部犯罪、という感じ。
 なお、佐川・元長官などについては、偽証などが免責されることがほぼ決まった。野党の要求を与党が全面拒否したせい。
 自民、公明両党は20日の衆院予算委員会理事会で、財務省の決裁文書改ざん問題をめぐる証人喚問で偽証があったとして佐川宣寿・前理財局長を偽証罪で告発するよう求めていた野党側に対し、告発には慎重に対応すべきだとする内容の中間報告を示した。近く最終報告も示すが、告発には応じない構えだ。
( → 佐川氏の偽証罪告発、自公応じない構え 中間報告:朝日新聞 2018年7月20日


 
posted by 管理人 at 20:56| Comment(7) | 一般(雑学)5 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
現在、わが国では極刑として死刑が設定されているわけですが、その妥当性を全面的に首肯できないでいます。

人としての尊厳を奪われる、自分が生きていることが悔やまれる、死にたいのに生かされ続ける、そういった状態こそ極刑ではないかと思うのですが、なかなかそういった話を聞きません。

こちらの方が死刑より人権を蹂躙することになると思いますけど。
Posted by 作業員 at 2018年07月28日 00:51
> 全面的に首肯できないでいます。

 そうです。プラス面とマイナス面がともに大きな事例では、イエスとノーのどちらを取っても、切り捨てたものが大きすぎて、納得できなくなります。すっきりした解決は、どっちみち、得られません。苦渋の選択をするしかない。
 葛藤の典型的な例でしょう。

 似た例。妊娠した愛人と結婚するか、不妊の女房と結婚し続けるか。……どっちみち、地獄だ。
Posted by 管理人 at 2018年07月28日 04:17
わたしは“不妊の愛人”がとても好きです
しかし向こうから
貴男こそ不妊の愛人になって欲しいと言われるのが

玉に瑕です
Posted by 先生 at 2018年07月28日 11:58
キリスト教では
命を与えるのも奪うのも神のみによるものと考えられている
人が神になってはいけないんだよ


Posted by 老人 at 2018年07月28日 17:38
日本の国連大使が日本は世界一の人権大国だと叫んだから仕方ないね
欧米が自分達より遙かに厳しい基準あてはめても世界一だと叫んだのは日本だからね
攻撃材料を与えるような外交官だすようなのが一番だめなんじゃないかね
Posted by トレンチ at 2018年07月28日 19:32
裁判を受けることなく現場警察の瞬時の判断で射殺するほうが「人権に配慮」だというのだから
欧州の論理はわけがわからない。

老人さんの

> キリスト教では命を与えるのも奪うのも神のみによるものと考えられている

の出典はどこから?
Posted by けろ at 2018年07月30日 22:34
お邪魔します。
 中世の西洋では強盗よりも窃盗の方が罪が重いとされていたと聞いた事があります。中世の西洋では基本「自立救済」で、それで撃退といった「自立救済」のある強盗の方がそれの無い窃盗よりも軽く見られていたと。また確か『肉食の思想』で、人も動物も漫然と「命」と見る日本と違い、キリスト教の西洋では「神の似姿としての人間」と他の動物は厳然と線引きされており、動物愛護も「命を奪う」よりは「無用な苦痛を与える」事に対して批判的だと書いてあった記憶があります。今西洋が「裁判での死刑よりも現場での射殺」の傾向なのは、「命を奪う」というだけでなく、「手を挙げるなり返り討ちにするなりの、される側に選択肢のある射殺の方が、執行時にはされる側に選択肢が全く無い死刑よりも望ましい。」とでも考えているのではと思ったりもします。
 後一神教では神が人間を造ったという事になっています。「陶芸家が自分の作品を、出来が気に食わないと叩き割る」のと「他人の作品を制作者の了解も無く叩き割る」のとの違いではないかと思われます。日本ではお岩は相手に「直接」復讐しましたが、聖書では殺されたアベルは神に訴え、神はその訴えを受けて殺したカインを追放しました。
Posted by ブロガー(志望) at 2018年08月26日 22:37
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