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今回の豪雨では、被害の規模は十分に予想されたのに、人々はあえて避難行動を取らずにいて、そのせいで多大な死者が出た。死者 200人以上。
これには既視感を覚える。同じことが前にもあったはずだ。そうだ。東日本大震災のときだ。そのときにも、私は気象庁の責任を指摘した。
→ 津波の気象予報: Open ブログ
要旨は次の二点だ。
・ 気象予報を的中させようとするな。被害の幅を持たせて、最大の被害を警告せよ
・ 気象の予想値だけでなく、付加情報も述べるべきだ。特に、死者数の予想を示せ。。
一部抜粋すると、こうだ。
たとえば、……(中略)……「最も確からしい数値」は、3メートルぐらいだろう。気象庁ならば、「なるべく当たる予報値を出そう」と思って、3メートルという数値を出すだろう。
しかしながら、5メートルや6メートルになる可能性も十分にある。そして、そのような結果になったなら、2階建ての家も水没するので、莫大な被害が生じる。
とすれば、ここでは、次のように予報するべきだ。
「かなり大規模な津波が予想されます。3メートルから6メートル、あるいはそれ以上の津波になりそうです。非常に危険なので、ただちに高台に逃げてください」
さらには、気象の予想値だけでなく、付加情報も述べるべきだ。次のように。
「6メートル以上の津波が起こる可能性があります。その場合、2階建ての家も水没するので、死者は数千人または数万人になると予想されます。高台に逃げるか、5階建て以上のビルに逃げてください。また、道路は渋滞するので、自動車にはなるべく乗らないでください。繰り返します。死者は数千人または数万人になると予想される大津波が来ます。ただちに避難してください」
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これが、東日本大震災のときに、津波の予報をする気象庁がなすべきことだった。
しかし現実には、そうしなかった。単に「ありそうな値」を出して、それが的中するだろうと信じた。ところが実際には、それをはるかに上回る大規模な津波が押し寄せた。かくて、楽観していた人々は、津波に呑み込まれた。最終的に1万人ぐらいが死んだ。( → 出典 )
気象庁の警報が大甘だったせいで、人々の避難行動がなくなって、そのせいで、多数の人が死んでしまったのだ。実際には、逃げる時間はたっぷりとあったのに。
それが、7年前にあったことだ。
そして今また、同様のことがあった。気象庁の予報が大甘だった、というわけではないが、緊急性が薄かったせいで、多数の人々が油断した。
特に問題なのは、気象の予報を「降雨が 400ミリ」というような気象用語だけで説明したことだ。これではたいていの人にはピンと来ない。
むしろ、「死者が最大で 100人以上」というふうに示すべきだった。「特定地域でなく広範な地域で多数の死者が出る見込み」というふうに警告するべきだった。
ま、これは、本来は気象庁がやる仕事ではない。防災庁がやるべき仕事だ。しかし現実には、防災庁がない。とすれば、気象庁がやるべきだったのだ。人の命を救うために。
百歩譲って、「気象庁は被害予想をする権限はない」というのであれば、最低限、過去の被害との対比をするべきだった。
・ 2016年、岩手の水害
・ 2016年、鬼怒川の水害
・ 2017年、北九州の水害
・ 2018年、西日本の水害
降雨量では、これらの降雨量と同程度だろう。一方、面積では、西日本全体だから、圧倒的に広い面積となる。とすれば、
各例での死者数 × 面積の比率(倍数)
を見ることで、おおざっぱな死者数の予想の算式を示せるはずだ。予想ではないとしても、その算式を示すべきだった。そうすれば、「死者百人以上(数百人)」という数値を示せたはずだ。そのとき、人々は警告を重く受け止めて、避難行動を取っただろう。
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7年前の事例は、まったく教訓にならなかった。私はあのとき、はっきりと気象庁に向かって警告の話を書いた。
→ 津波の気象予報: Open ブログ
しかし気象庁はそんな話を歯牙にもかけなかった。だから、このたび 200人以上が死んだのだ。
そして、今回もまた、気象庁には何の反省もない。
「自分たちはきっちりと降雨量を予報して、うまく的中させました」
と思っているのだろう。彼らのやっていることは、競馬の馬券で当てるようなことだけだ。人の命を救うということは、まったく念頭にないようだ。
[ 余談 ]
私がいくら「人命を救おう」と思って、あれこれと書いても、気象庁は一顧だにしない。また、本サイトの読者でも、やたらと私に文句を言ってくる人が多い。人を死なせたダム管理の責任者を擁護するばかりだ。死んでいった死者のことを考える人はいない。こんなことでは、将来もまた、死者が続々と出るだろう。
次は何百人になることやら。……いや、南海トラフ地震で、何万人または何十万人もの死者が出るかもね。
そのときもまた、死者のことを悲しむよりも、「政府の防災担当者を非難するのはけしからん」という文句の方が、本サイトには押し寄せそうだ。
【 関連動画 】
警戒を訴えるばかりで、避難行動を促していない。これでは、誰も避難しないよね。
[ 補足 ]
ちなみに、本サイトでは、避難行動を促していました。
特定地域が危険だ(局地的豪雨だ)というより、ほぼ全域にわたって梅雨前線が停滞しているようだ。
となると、危険発生地帯は、気象によるというよりは、地形による。
・ 河川のそばで氾濫の危険
・ 山裾で土砂崩れの危険
が、危険地帯となる。
対策は
・ 各人が自発的に避難する。
・ 自治体が半強制的に避難させる。
だろう。サイレンを鳴らしたりするといい。
( → 大雨注意報(史上1位?): Open ブログ )
気象庁が働かないから、私が働いている。
【 追記 】
実は、気象庁は何もしなかったわけではない。動画を見ればわかるとおり、「最大級の警戒を」というふうに、「警戒」を唱えている。
これは気象庁の仕事ではないのだが、出しゃばって、「警戒を」と唱えているわけだ。そのくせ、警戒以外の避難行動を何も唱えていない。
「警戒」だけを唱えて、「避難行動」を唱えない。……これじゃ、何もしないよりも、もっと悪い。
人々は「警戒すればいいんだな」と思っただけで、自宅待機していたのだろう。「気象庁が警戒しろといったから、警戒したんです」というふうに。そして、自宅に居座った。
気象庁は何もしない方がマシだった。気象庁の方針に従ったせいで、多数の人命が奪われた、と言ってもいいぐらいだ。
気象庁は、次のように語るべきだった。
「被害を減らす方法は、事前の避難行動です。警戒などはまったく無用です。被害が起こってから逃げ出したのでは遅い。被害が起こる前に逃げ出すべきです。大切なのは、警戒ではなくて、事前予想に基づく避難行動です。われわれはそのための事前予想を提供しました。このあとで必要なのは、避難行動です。警戒などは意味がありません。やがて来る被害を警戒するよりも、被害が起こる前に危険地域から逃げ出しましょう」
こう語って、「警戒」の無意味さを唱えていたら、被害者数は激減していただろう。(ゼロにはできなくても、半減できたかも。)
【 後日記 】
このあと、台風 12号が来た。すると気象庁は、こう言った。
「特別警報が表されていなくても、早め早めに避難してください」
このことがテレビでは何度も放送された。だから人々は実際、早めに避難した。(朝日新聞で報道された。)
私が本項で提案したことを、気象庁はまさしく実行したことになる。ご立派。
何度も記者会見を開いて、特別警報の可能性に言及して、その後特別警報も出して、放送各社にも情報を順次提供して。
そもそも浸水レベルについてはハザードマップが出されて配られてもいた。
でも、避難行動が起きず、多数の犠牲者が出た。
どこまでが行政の責任で、どこからが個人の自覚の問題なのか、難しいなと思います。
ものすごい猛暑になるから、と散々警告されていたけれど、そんな中畑作業に出て死んでしまった高齢者もいて。それでいて、実際は大したことのない気温にしかならなかったとしたら、「煽りやがって」と非難が殺到しそうだし。
> 気象庁が働かないから、私が働いている。
今後とも、ぜひよろしくお願いいたします。
しかし、警報の意味を考えると、大雨警報が出た時点で災害が発生する可能性があるということだ。警報に加え、土砂災害警戒情報も出た。
気象庁は、それらを経て出される特別警報は、いわば最後忠告のようなものだ。
気象庁(気象台)は、気象警報の警戒を呼びかける事くらいで、それ以上のことは気象庁(気象台)の行う仕事ではない。
結局のところ、気象庁(気象台)というよりも、避難するかどうかは個人の問題でしかない。
東日本の地震の時に海岸沿いに住んでた人の家族に話を聞いたが(あとその地域での実録の本も読んだ)。
途中まで逃げてたのに、「〜を持ってくるのを忘れた」と途中で家に戻った人。その人が高齢だったりすると、一緒に付き添って戻った人なんかもかなりいたらしい。
津波の被害に遭った場所に、1年に1回は(ご縁があって)行っていたが、見事にお店や町などが再建されていた。
こちらの感覚でいうと、「あのあたりは沈んだとこなのに、なぜまたあそこに町を作るの」という感覚。
住んでた人に聞くと、先祖伝来の土地だからとか、その手の感覚も強いらしい。
話しはそれたが要するに、「人は痛い目にあっても、必ずしも学習するものでもないし、痛みを忘れてしまうものである」ということ(それが良い面もある)。
あと前の所で書かれている方もいたが、特別警報みたいなものが出ても、高を括って逃げないみたいな人もいるような気がする(推測だが、数人いてもおかしくない、特に身体が悪い人だったりしたら)。ましてや今回は深夜の出来事。こういう災害があったニュースを2か月に1回くらい何回も流せばいいと思う、特に公共放送のNHKとか)。
したがって、行政や諸機関もより優れた仕事をするために高見を目指すことは言うまでもないことだが、過ちを繰り返す人間の特性がある以上、あまり批判しすぎるのも良くないと思う(もちろん原因究明、分析は必要)。
蛇足だが、気象庁は天気予報が外れたと文句を言う人がいるが、確率で言えばかなり高いと個人的には思う。
その件は本文中で示しているでしょ。引用すると:
《 ま、これは、本来は気象庁がやる仕事ではない。防災庁がやるべき仕事だ。しかし現実には、防災庁がない。とすれば、気象庁がやるべきだったのだ。人の命を救うために。 》
たとえて言うと、目の前に救いを求めている子供がいる。しかし、子供に手を差し伸べることは、自分の仕事ではない。
あなたは思う。「これは自分の仕事ではないから、やりたくない。ちょっと危険だし。それは別に自分の義務ではない」。そう思って、ほったらかしにしようという気になる。
しかし、そこで考え直す。「自分が手を差し伸べれば、子供は救われる。自分が手を差し伸べなければ、子供は死ぬ。ここでは、手を差し伸べることができるのは、自分しかいない。子供を救えるのは、自分しかいない。ならば、義務ではないが、救おう」
そう思って、あなたは手を差し伸べて、子供を救った。その結果、本来ならば 200人が死ぬはずだったのに、死者は 20人にまで激減した。何と 180人もの命を救った。
一方、気象庁がやったのは、その反対だった。手を差し伸べるどころか、ただ言葉を出すだけということすらできなかった。手を差し伸べることには危険が伴うが、言葉を出すことには危険が伴わない。それほどにも簡単なことでさえ、出し惜しみした。そのせいで、200人以上が死んでしまった。
そこで気象庁への恨み辛みを述べる被害者遺族がたくさん出た。「ちゃんと警告してくれれば良かったのに。そうしなかったせいで、愛する人がみんな死んでしまった」
それを非難する人が出た。「気象庁は悪くない。逃げよといわれなくても逃げなかったのは、自分が悪い。気象から被害を予想できなかった各人が悪い。気象から被害を予想するのは、各人の仕事であって、気象庁のせいではない。気象の影響をはっきりと分析して理解するという分析力を持つべきなのは、各人であって、気象庁ではない」と。
気象庁は「その通りだ」と思った。そのせいで、方針を確認した。
「次の地震が起こったときにも、決して被害予想(死者数)は出すまい。避難勧告も出すまい。津波が来たら、今度は何万人も死にそうだが、その警告は決して出すまい。
警告を出すのは気象庁の仕事じゃない。われわれの仕事は気象の予想をすることだけであって、死者を減らすことではない。
そうできるのが自分たちだけであっても、自分たちは決してそんなことをするつもりはない。彼らが死ぬのは、自分たちのせいじゃない。勝手に死ね」
それを見て、オウムの麻原は称賛した。「あなたこそわれわれ以上に目的を達成した。われわれは 27人しか殺さなかったけど、気象庁は圧倒的に素晴らしいことをやった。しかも、合法的に」
たしかに、気象庁のやったことは合法だ。「人を救わなかったこと」は違法ではない。単に非道であるだけだ。「あえて見殺しにする」というふうに。
そして、そのことの目的は、「自分の身を危険にさらさないこと」ではなくて、単に「官僚的な縄張り意識」だけだったのである。「縄張りの外には出たくない」という、それだけのこと。そのせいで、200人ほどが死んでしまった。
> 過ちを繰り返す人間の特性がある
それはそうだが、それ以後の態度が違う。たしかに避難行動を取りたがらない人は多いが、
「だから、人が死んでも仕方ない。多数の人が出るとしても、ほったらかしておけ」
と考えるのが、あなた。
「だから、人が死ぬのを減らすように努力しよう。多数の人が出るのを看過・放置せず、死者数を激減させよう。そのために必要なのは、言葉だけなんだから」
と考えるのが、私。
言葉を出し惜しみしないのが、私。
言葉を出し惜しみするのが、あなた。
ものぐさ優先で 200人を死なせようというのは、たいした精神力だな。すごい。
> あまり批判しすぎるのも良くないと思う
批判しすぎる? この件で気象庁を批判しているのは、日本広しといえども、本項だけ。大海の一滴です。あまりにも微量です。ないのも同然と言えるぐらい小さい。超微量。
「大海の一滴は多すぎる」という意味不明なことを書いても、困りますね。
ま、中国の主席なら、「大海の一滴は多すぎる」と思いそうだが。つまり、十数億人のうちの一人が文句を言っただけでも、その人を抹消しそうだが。下記。
http://j.mp/2mfQR7U
気象庁は「警戒」を唱えていたが、それは逆効果だった、という話。
私は防災庁がないから気象庁ではなく、その予測のゾーンは政府が肩代わりする方が現実的かと思いました。
予測するというよりは、「見込みを述べて警告する」ということですね。算式は本文中にある通りで、下記。
各例での死者数 × 面積の比率(倍数)
ここから出る数値が、現実の結果と違っていても、誰も気象庁を非難しないでしょう。
現実にはその数値より減ったとしたら、「気象庁の勧告のおかげだ。ありがとう」と感謝する。
現実にはその数値より増えたとしたら、「気象庁の予測が外れたのはどうしてか?」という議論が起こって、次回への教訓となる。
内閣府の政策一覧に“防災”があります。
http://www.cao.go.jp/seisaku/seisaku.html
気象庁は国民の人命を左右するが、私は国民の人命を左右しない。気象庁には権限があるが、私には権限がない。そもそも私は国からお金をもらっているわけじゃない。(月給をもらっている気象庁の人とは違う。)
私のことを気象庁と並ぶ権威だと思っているんだろうか? その通りなら私のことを批判してもいいが。
むしろ、政府を絶対的権威と見なして、政府を批判することを許すまい、ということかな。ネトウヨ。