2017年10月06日

◆ カズオ・イシグロとクローン人間

 カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した。その代表作ではクローン人間が扱われているが、そこには大きな誤解がある。

 ──

 カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した。その代表作というと、「日の名残り」と「わたしを離さないで」が挙げられることが多い。



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 「日の名残り」は、静謐な印象のある作品だ。セザンヌの静物画みたい。平易な文章で淡々と描写が進む。特に話の起伏があるわけではないが、品格のある文章で、読む価値のある小説だ。
 面白いかと言えば、まったく面白くない。エンターテインメントではないから、「面白いかどうか」という質問自体が不適切だ。
 料理で言えば、味付けのたっぷりあるフランス料理や中華料理ではなく、あまりにも淡泊な「蕎麦」(そば)みたいなものだ。
 この作品は、ノーベル賞のレベルにはまったく達していないが、年にいっぺんの文学賞を取るぐらいの価値はある。(実際に取った。)



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 「わたしを離さないで」は、賛否が大きく分かれる作品だ。これを高く評価する人はとても多い。今回、ノーベル賞を取ったのも、この作品によるらしい。非常に高い評価を受けている、とも言える。
 その一方で、非常に低い評価をする人もかなりいる。「まったくつまらない」という人も多い。
 これはどうしてか? たぶん、この作品の背景への理解の有無によるのだと思う。この作品は、クローン人間の心理を扱っているのだが、「クローン人間である」というのは、ネタバレである。ネタバレの内容を知っているかどうかで、評価が異なるようだ。
 で、クローン人間であるということは、ネタバレで知っていなくても、いくらか読むうちに、だいたい見当が付く。そして、そのことを知る(気づく)ようになったら、そのあとは、「まだ楽しめる」か、「一挙に興醒めになるか」のどちらかだ。
 で、どちらになるかというと、こうだ。
  ・ クローン人間について無知である → 楽しめる
  ・ クローン人間について無知でない → 楽しめない

 このことを、以下で説明しよう。




 はっきり言っておこう。この小説は、「クローン人間とは何か」ということについての、根源的な誤解に基づく小説だ。科学的無知の上に成立する、と言っていい。
 もちろん、小説の価値は、科学的な真偽とは別だ。とはいえ、まったくの誤解の上に成立するとすれば、科学的知識のある読者にとっては、興醒め以外の何物でもない。読むうちに、「馬鹿にするな」という思いばかりが生じてきて、感動なんかはしないからだ。

 ──

 では、誤解とは何か? 
 一般に、クローン人間については、次の二つの誤解がある。
  ・ 赤ん坊でなく、成長した個体が誕生する
  ・ クローン人間には人権がない

 以下では順に説明しよう。

 (1) 赤ん坊でなく、成長した個体が誕生する

 クローンというと、「元となる個体にそっくりのクローンができる」と思われがちだ。
  ・ 元となる人物が 20歳ならば、クローンも 20歳
  ・ 元となる人物が 40歳ならば、クローンも 40歳

 しかし、こういうことは、ありえない。
  ※ ここを勘違いしている映画や小説や漫画は多い。

 正しくは? 
 クローンで生じるのは、常に赤ん坊である。そのクローンが 20歳の肉体を持つには、20年間かかる。普通に成長するだけの時間が必要なのだ。いきなり大人の肉体が誕生するのではない。
 クローンでコピーされるのは、元の個体の DNA 情報だけであって、記憶や成長過程などは復元されないのだ。ここをきちんと理解するべきだ。

 (2) クローン人間には人権がない

 「クローン人間には人権がない」と思っている人が多い。そこから、「クローン人間を臓器移植に利用する」という発想が生じる。
 つまり、「クローン人間を育てて、その後、クローン人間を殺して、バラバラに解体して、その臓器を臓器移植に利用する」というわけだ。
 これをテーマにした作品はいくつかある。「わたしを離さないで」もその一例だ。
 しかし、これは、科学音痴の妄想にすぎない。
  ・ 臓器利用をするのならば、ES細胞などで臓器だけをつくろうとする。
  ・ クローンで個体を誕生させたならば、その個体は通常の人権を持つ。

 特に、後者が重要だ。似た例では、試験管ベビー(人口受精の赤ん坊)がある。これらの形で誕生した人間は、普通の人間であって、通常の人権を持つ。ここでは、
 「試験管ベビーだから、誕生させた医者が勝手に人命を左右していい」
 というようなことはない。ここでは、人間は単に誕生の一部に介在しただけであって、人間が人工人間を作ったのとは根本的に異なるのだ。
 人工人間というのは、遺伝子操作によらずに物質レベルで生命を誕生させたものを言う。小説では、ホムンクルスとか、フランケンシュタインとかが、該当するかもしれない。
 クローン人間は、人工人間とは異なる。人間が生んだものではなく、DNA から普通に誕生したものだ。ただ、そのほんの一部の過程を人間が部分的に操作しただけだ。もちろん、誕生したクローンは、普通の人間だから、通常の人権をすべてもつ。

 このことを理解できないのが、科学音痴の人々だ。クローン人間と人工人間とを、混同してしまっている。人間がほんのちょっと介在しただけのクローン人間を、人間が根源的に生み出した人工人間と同様のものだと思い込んで、人間が勝手に操作していいものだと思い込む。そして、「そういうことがあったら怖いな」と思って、勝手に小説や映画や漫画を創り出す。
 しかし、そういうのは、あまりにも馬鹿馬鹿しいのだ。荒唐無稽、とも言えるが、もっとひどい。荒唐無稽ならば、それがフィクションであることを誰もが理解する。しかし上記の例では、間違った現象を、真実の現象だと思い込んで、勝手に怖がっている。
 これはもう、フェイク・ニュースと同様で、有害無益だとも言える。
 比喩的に言えば、こうだ。
 「トランプ大統領が死亡した」というフェイク・ニュースをテレビ放送局が放送して、国中を大混乱に陥らせたあとで、「うそでした。だけど、みんなで騒げて、楽しめたでしょ? 楽しめたんだから、許してね」と居直る。

 こういうようなものだ。非倫理的であるにも、ほどがある。

 ──

 「わたしを離さないで」という作品は、そういう作品だ。
 これは、「クローン人間とは何か」を理解しないまま、クローン人間と人工人間を混同している人々(科学的に無知な人々)にとっては、「人間の本質を探り、人間性の深淵を見通す」というふうに感じられるらしい。
 しかし、「クローン人間とは何か」を理解している人にとっては、これはフェイク・ニュースも同様で、無知な人々をたぶらかしている嘘八百であるにすぎない。
 通常のフィクションは、それがフィクションであることが明示されているから、問題はない。しかしフィクションでありながら事実のフリをしていれば、それはもはやフェイク・ニュースも同様だ。「わたしを離さないで」という作品は、そういう作品だ。無知な人にとっては、素晴らしく上手にだましてくれるように感じられるだろう。しかし、科学的知識のある人にとっては、最初から最後までフェイクで埋め尽くされたナンセンスな駄文であるにすぎない。読むための金と時間のすべてが無駄になる。
 名作だという評判を聞いて、これを読んだ私は、大いに時間を無駄にした。これほど馬鹿げた小説は、滅多にない。

 イグ・ノーベル賞を受賞するべきだったね。



 【 追記 】
 ちょっと肯定的な解説もある。
 SFファンの僕としては、この小説におけるクローン技術の使用の仕方には疑問を感じざるを得ませんでした。根本的に、臓器移植のためにクローン人間を造ることを社会が許容するは思えません。
 しかし、彼の今回のインタビューを見ていて、考えが変わりました。彼にとって、物語へのクローン技術の導入はあくまで二次的なものであったことがわかったからです。
 彼が書こうとしていたのは、クローン人間のことではなく、あくまで「限定され縮められた人生」を生きる人にとって「記憶」とは何なのか?そのことを追求する……(略)
 どうしても最新の科学技術を持ち込むとSF小説として読まれることになりますが、この小説はあくまでも寓話と考えるべきなのでしょう。
( → 解説ブログ

 「限定され縮められた人生を生きる人」をテーマにして、寓話にするというわけだ。これは、もっともらしく思えそうだ。
 しかし、どうせ寓話にするのならば、はっきりと「ありえない」設定にするべきだ。まったくの荒唐無稽な話ならば、「寓話」となる。
 しかし、この作品は、「世間レベルの誤解された話」を前提としている。比喩的に言えば、「福島は放射能で危険だ」という誤解がひろまっているという状況で、その誤解に乗った作品を書くようなものだ。これでは、「寓話」ではなくて、「フェイクニュース」に近い。

 ──

 どうせ「寓話」にするのならば、とうていありえない「タイムスリップ」を話題にした SF の方がずっとマシだ。「時をかける少女」とか、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」とか。
 とうていありえない「人格交換」を話題にした作品もある。新海誠の「君の名は。」もそうだが、「おれがあいつであいつがおれで」を原作とする「転校生」もある。
 私のお薦めは、東野圭吾の「秘密」だ。人格交換をテーマとする寓話のなかでは、ピカイチだ。


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 【 関連動画 】





 【 関連映画 】


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 クローン人間を扱った映画。昨日の午後にテレビ放送されたばかり。(テレビ東京の午後1時半ごろ)
 私は録画したものを見ました。



 【 関連項目 】

 → ボブ・ディランのノーベル賞を取り消せ: Open ブログ

 ※ 去年もひどかった。二年続いて、馬鹿げた授賞。
   どうせなら、村上春樹に与えるべきだったね。

posted by 管理人 at 23:35| Comment(23) | 一般(雑学)4 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「クローン人間には人権がない」は誤解ですが
同様な誤解である「◯◯人には人権がない」に基づいて差別、排斥が行われている社会においては意義のあるテーマではないでしょうか
Posted by あらカンオヤジ at 2017年10月07日 07:00
上記の「差別、排斥」に搾取を追加します。
Posted by あらカンオヤジ at 2017年10月07日 07:36
「◯◯人」には国籍や民族だけでなく障害者や貧乏人など社会的弱者を入れてもいいですね。
Posted by あらカンオヤジ at 2017年10月07日 07:47
クローン羊ドリーがクローン生物の実例なので、時間を要する成長に伴う経験、学習がその生物の意識を創ることを蛇足としてコメントしましょう。
まぁ成長に要する時間を成長ホルモンの大量摂取で短縮化できるかもしれませんが、本能の塊になりますね。
Posted by 京都の人 at 2017年10月07日 07:52
イグ・ノーベル賞は『エ、いや、それは……でも、愉快だなぁ、ケラケラ』と云うような笑いが取れるモノであって、ため息とともに冷笑されるようなものではないで、イグ・ノーベル賞にノミネートすらされないのでは?
Posted by 無機銘 at 2017年10月07日 08:20
生まれた時点か早い時期(1年以内?)、DNA/細胞を採取すると、“ほぼ”同じ年齢のクローンを用意することが可能になると思います。

当該小説は読んでいないので、その設定は知らないのですが。
Posted by 磯崎ゆい at 2017年10月07日 08:50
 後半に 【 追記 】 を加筆しました。
 タイムスタンプは 下記 ↓
Posted by 管理人 at 2017年10月07日 09:35
私もこの作品は嫌いです。

作者のインタビューで、どうしてクローン達がこの酷い状況から
逃げ出さないのか?別に監禁されてるわけでもないのに…という質問に、
なんだかよくわからん答えをぐずぐずいっててイライラしたのですが

作者の曖昧な返事を要約すると、これはクローンの設定が比喩であって、
つまり搾取されてる状況、多分底辺の労働者とか移民とか、そういう
社会に押しつぶされてる層の比喩らしいのです。

あんまりあからさまに煽ると社会運動みたいになっちゃうので、
文学的に表現、今の皆さんは内臓を少しづつ取られて、どんどん
苦しくなって、最後には命も維持できなくなって死ぬ、そんな状況ですよ、
その場から逃げればいいのに逃げられないと思い込んでいる。
そこに気がつくべきで、そういう意図を込めて警告を出したと、
まあそんな事を… 読んだ時は納得いかんかったのですが、
言わんとする事は分らんでも無い。

過労死する日本人、過労死が国際的に通用する単語になっちゃった事を
馬鹿にした発言なのか…?とか当時思ったものですが
(日系人でイギリス人になってエゲレス貴族階級のお話(ひのなごり)で
名をあげたイギリス文学界における異邦人枠にキレイに収まった奴に言われると
イラっとするですね)
Posted by ひら at 2017年10月07日 12:21
作品を読んでいないのでコメントするのは気が引けますが、実際に東南アジアや中国で臓器売買のために
子供を産ませる「人間工場」「赤ちゃん工場」といったものが摘発されたという報道もあるので、フィクションとして
それほど荒唐無稽な話でもないのではと思いました。
あとこの話は清水玲子の少女漫画「輝夜姫」と似ていますね。
要人の子息に万一のことがあったときのために孤島でクローンをスペアとして育てておくという設定です。
検索したところ同様の指摘はかなりあるようですね。1993年に連載開始なのでこちらの方が10年以上前です。
それ以前にも同じようなSF作品があったかどうかはわかりませんが。

Posted by 愛読者 at 2017年10月07日 12:56
> それほど荒唐無稽な話でもないのではと思いました。

 荒唐無稽ではないから問題なんです。荒唐無稽な話であれば、誰も信じないから、問題はない。
Posted by 管理人 at 2017年10月07日 13:01
映画(洋画のほう)しか見ていないもので私の独自解釈でしかないのですが
クローン云々はあくまで舞台装置であって問題提起ではなく、そこにSF的な是非を語るのはテーマとは違う筋だと思います。
限定された人生を強いられた人間の心に寄り添う作品だと感じました。
Posted by よしお at 2017年10月07日 22:08
> クローン云々はあくまで舞台装置であって問題提起ではなく

 それはわかっているんですけどね。「その主題を扱いたいのであれば、こんな舞台装置を使ってはいけない」というのが、本項のテーマです。
 文学的な是非ではなくて、科学的な見地から「こんなやり方をするな」という批判です。

> 限定された人生を強いられた人間

 そんなものは存在しません。
 クローン人間を作ることは禁止されていますが、仮に禁止されなかったとしても、「限定された人生を強いる」というのは、「人類全体が発狂したら」という仮定と同様なので、ナンセンスです。

 結局、そんなものは存在しないのだから、すべての前提が崩れてしまう、という主張です。親亀こけたら皆こけた、という話。「砂上の楼閣はナンセンス」という話。

> 〜心に寄り添う作品だと感じました。

 まあ、科学的なデタラメさが気にならなければ、それなりに感動できるのでしょう。そういう人が多いから、ノーベル賞授賞になったのでしょう。
 本項は「科学的なデタラメさが気になる」という立場からの話です。
 評価のレベルが違っていますね。本項は文学的な良し悪しを論じているわけではありません。


Posted by 管理人 at 2017年10月07日 22:23
宇宙モノのSF見てて、酸素無いのに炎が…とか質量小さいヤツが蹴っても逆に飛ばされるとか…あれやこれ萎えるか、感情移入できるかってことと似てるんでしょうね。

史実と掛け離れた時代劇とか


ショートショートならピンポイントで笑えるんだけど、長文の小説となるとモヤモヤしますね、
Posted by 磯崎ゆい at 2017年10月08日 01:04
「「わたしを離さないで」という作品は、そういう作品だ」と述べておられますが、例えば、「赤ん坊でなく、成長した個体が誕生する」という「誤解」は、カズオ・イシグロ氏の小説『わたしを離さないで』の中で、具体的にどの箇所に見出されるのでしょうか?
小生がざっと見たところでは、例えば、クローン人間である同作の語り手・キャシーは、冒頭で「いま三十一歳」とされていますが(2006年の早川書房版のP.7)、「確かに、わたしはずっと以前から―もう六、七歳の頃から―ぼんやりとですが、提供のことを知っていたような気がします」(P.100)と述べられていて、幼い頃から育てられてきたように書かれています。また、ある「提供者」(クローン人間です)についても、「あの人は、きっとヘールシャムのことをただ聞くだけでは満足できず、自分のこととして―自分の子供時代のこととして―「思い出したかった」のだと思います」(P.10)と述べられていて、その人にも幼い頃があったようです。なお、ヘールシャムとはクローン人間たちの教育施設であり、そこは「年少組」と「年長組」に分けられていて、「年長組二年、年齢で十二、三歳の頃」とされています(P.11)。
なるほど、「赤ん坊」のことが描かれていないとはいえ、同作では、「クローンで生じるのは、常に赤ん坊」だとされているのではないでしょうか?
Posted by 科学知らずの文学好き at 2017年10月09日 21:17
> 「赤ん坊でなく、成長した個体が誕生する」という「誤解」は、カズオ・イシグロ氏の小説『わたしを離さないで』の中で、具体的にどの箇所に見出されるのでしょうか?

 ちゃんと読んでください。それは(1) であって、一般論。(2) は、『わたしを離さないで』も該当する。『わたしを離さないで』は、(1) は該当しません。
 両者はちゃんと分けて書いてあるでしょ。(1)(2)をゴッチャにしないでください。
Posted by 管理人 at 2017年10月09日 21:24
早速のご回答、有難うございます。
とはいえ、「はっきり言っておこう。この小説は、「クローン人間とは何か」ということについての、根源的な“誤解”に基づく小説だ」との一般的な命題が最初の方に書いてあって、次いで「では、“誤解”とは何か?」とあり、そうして「以下では“順に”説明しよう」とされいます。「順に」とあるからには、「誤解」は複数あるものと予測できます。
そして、「(1)」と「(2)」と書いてあり、しばらくして行を大きく空けて「―」があって、さらに再度行を大きく空けて、「「わたしを離さないで」という作品は、“そういう”作品だ」と述べられています。こうした文章の運び方を見たら、そして通常の読み手が「ちゃんと読」めば、「そういう」は、「(1)」と「(2)」の両方を受けているものと考えるのではないでしょうか?確かに、「(1)」と「(2)」とは、箇条書き風に「ちゃんと分けて書いてある」にしても、「そういう」以下で二つを一緒に受けてしまっていますから、結果的には分けたことにはならないでしょう。
それはともかく、「(2) は、『わたしを離さないで』も該当する」と述べておられますが、『わたしを離さないで』のうちの具体的にどの箇所がどのように該当するのでしょうか?
Posted by 科学知らずの文学好き at 2017年10月09日 22:01
該当箇所はこうです。
 ──
 一般に、クローン人間については、次の二つの誤解がある。
  ・ 赤ん坊でなく、成長した個体が誕生する
  ・ クローン人間には人権がない
 以下では順に説明しよう。
 ──

 「一般に」と示してある。一般論を順に示しているのであって、作品論を順に示しているのではありません。
   一般 → 個別
 という順です。

 なお、(1)(2) の区別は、「そういう作品だ」の「そういう」が(2)に限定されることを意味します。「そういう」には(1)は含まれません。

> 具体的にどの箇所がどのように該当するのでしょうか?

 それはネタバレだから書きません。すぐにわかることなので、自分で探してみてください。
 ネット上のあちこちにも同趣旨の話があるので、誰でも簡単にわかることです。

Posted by 管理人 at 2017年10月09日 23:13
再度の回答をいただき、心から感謝申し上げます。
ただ、「(1)」は「一般論」とされながら、貴論でもっぱら取り上げられているカズオ・イシグロ氏の『わたしを離さないで』が早速該当しないというのであれば、一体どういう意味の「一般」なのかなと考え込んでしまいます。
そう思ってWikipediaの「クローン」の項を見ると、そこでは夙に、「「自分と姿・形が全く同じ人間」というイメージが“一般”にあるが、仮に自分のクローンを作る場合、誕生した時点ではクローンは赤ん坊であるため、現在の自分とは年齢のギャップが生じる」と記載されています。もしかしたら、貴論のように「(1)」を掲げるのは、クローン人間を議論する際の常套的な方法なのかもしれませんが。

また、「(2)」ですが、『わたしを離さないで』では、確かに、「クローン人間を殺して、バラバラに解体して、その臓器を臓器移植に利用する」様子が描かれています(正確に言えば、同書では、「殺して」からではなく、臓器移植が何度か行なわれてから、クローン人間は死ぬのですが)。
ただ、そのように書かれているからといって、カズオ・イシグロ氏が、「クローン人間と人工人間を混同している人々(科学的に無知な人々)」の一員であり、「クローン人間には人権がない」ことを是認していて、「最初から最後までフェイクで埋め尽くされたナンセンスな駄文」を生み出している、と決めつけることが出来るでしょうか?
むしろ、「クローンで個体を誕生させたならば、その個体は通常の人権を持つ」ことを十分にわきまえた上で、同氏は、あえてこのように書いているのではないでしょうか〔例えば、作品の最後の方で、エミリ先生は、「世間はなんとかあなた方のことを考えまいとしました。どうしても考えざるをえないときは、自分たちとは違うのだと思い込もうとしました」などとキャシーに語ります(P.315)〕?
それで、「(2)」の「クローン人間には人権がない」との意味合いを持った表現を同氏が同書のどこでどのように行っているのか、具体的にご教示願いたいと申し上げたところです(貴論を読んだ上でもなおこの小説を読もうとする奇特な読書人は見当たらないように思われますから、ネタバレを気にかける必要はないものと思います)。
小生がざっと見た限りでは、同書には「人権」あるいはそれに類する言葉は使われていないように思えるのですが。
なお、途轍もなく該博な知識をお持ちの管理人さんに申し上げるのは不遜極まることながら、例えば、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』が、奴隷制度の下における黒人奴隷の悲惨な姿を描いているからといって、同作品が奴隷制度を是認していて、「最初から最後までフェイクで埋め尽くされたナンセンスな駄文」だとは誰も考えないでしょう(尤も、Wikipediaによれば、「作中のトムの従順な態度から、公民権運動以降のアメリカの黒人の間ではこの作品に対する評価が否定的なものに変化している」ようですが←「作中のトムの従順な態度」というのは、『わたしを離さないで』におけるクローン人間たちの態度に通じるものがあります!)。

貴論のように「これほど馬鹿げた小説は、滅多にない」と突き放さずに、例えば、ネットに掲載されている「「ヘールシャム化」する世界 バイオテクノロジー社会の行く末にあるもの『わたしを離さないで』(小説/映画/ドラマ)を解読する」(http://dokushojin.com/article.html?i=793)という対談のように、この小説をめぐってあれこれ議論する方がずっと生産的ではないかと思えるのですが?
Posted by 科学知らずの文学好き at 2017年10月10日 05:46
> 「クローン人間には人権がない」ことを是認していて

 誤読。「是認している」ではなくて、「前提としている」です。
 彼がその状況を是認しているということはないでしょう。反対しているからこそ、クローン人間の悲しみを書いているわけです。その方針は、多くの人々の共感を得るでしょう。

 私が問題としているのは、氏の方針ではなくて、「クローン人間が臓器移植のために存在する」という話の前提そのものです。この前提が成立しないので、「すべては砂上の楼閣だ」と言っているのです。
 なぜ前提が成立しないかというと、「クローン人間が臓器移植のために存在する」という状況そのものが、非倫理的だとして、否定されているからです。クローン人間の開発は現状、禁止されています。法律で規定されているので、仮にやったなら、逮捕されます。
  → https://matome.naver.jp/odai/2137491345448124301
  → http://j.mp/2xtY1xq

 2000年には法律で禁止されているのに、2005年に「わたしを離さないで」が発表された。馬鹿馬鹿しいでしょう。
 比喩で言えば、「殺人は禁止されている」という状況で、「殺人が可能になった場合の問題点や非倫理性を描写する」という小説と同様です。ナンセンス。馬鹿馬鹿しい。

 すでに社会的に禁止されていることなのに、「それが社会的に公認されたら」という心配をするのは、杞憂というものです。無駄な心配。
 「殺人がやり放題になるほど許容されたら、それによって悲しむ人がたくさん出るんだ。その実例を哀切に情感たっぷりに描く」なんていう小説を読んでも、「馬鹿馬鹿しい」と感じて、興醒めになるだけでしょう。「おまえは何を言っているんだ? 自分だけが利口だと思っているのか?」と言いたくなる。 

 氏はたぶん「科学技術が暴走すると危険だ。科学者は科学の暴走に対して倫理的であるべきだ」という趣旨で小説を書いたのでしょう。しかし科学者は、氏の思っているほどバカではありません。「自分だけが利口だと思うな」「科学者をバカ扱いするな」というのが、おおかたの科学者の感想でしょう。
 氏はどうも、科学者と狂人科学者(マッドサイエンティスト)との区別が付いていないのでしょう。
  http://openblog.seesaa.net/article/435851070.html

 クローン羊のドリーが発表されたのが 1997年で、その年のうちに早くもサミットとユネスコで「クローン人間の作成禁止」が決まりました。なのに、2005年になって、「わたしを離さないで」が刊行された。これではあまりにも周回遅れです。
 氏の主張は、決して間違っているわけではありません。むしろ逆です。「科学者なら誰もがわかっていること」です。だからそんなことをいちいち大がかりに語る必要はないし、聞く方もいちいち聞く必要はないのです。
 これを読んで感動するのは、(クローンについて無知だった)科学音痴の人だけでしょう。
 
Posted by 管理人 at 2017年10月10日 07:44
>周回遅れです。

未だ人権が蹂躙されていて、臓器売買が横行しているであろう、少なくない国々ならばそれなりの意義があるのでは?

読まれるかどうかはともかく。
Posted by 作業員 at 2017年10月10日 10:40
再々度の回答をいただき、誠に有難うございます。
確かに、現状では、「クローン人間が臓器移植のために存在する」という状況そのものが、非倫理的だとして、否定されている」わけですが、だからといって、「クローン人間が臓器移植のために存在する」という話自体が「馬鹿馬鹿しい」ということにはならないでしょう。
なによりも、「すでに社会的に禁止されていることなのに、「それが社会的に公認されたら」という」状況を描くのは、本当に「馬鹿馬鹿しい」ことでしょうか?
例えば、麻薬の売買等は法律で厳重に禁止されていますが、それが社会的に公認されたらどんな悲劇を生じるのかを描くことが「馬鹿馬鹿しい」とはトテモ思えません。
また、「殺人がやり放題になるほど許容されたら」というのは、戦争を取り扱った作品が当てはまるでしょうが、戦争を題材にした小説等が「馬鹿馬鹿しい」とは全く考えられません。
それに、カズオ・イシグロ氏は、なにも、「科学技術が暴走すると危険だ。科学者は科学の暴走に対して倫理的であるべきだ」という趣旨で小説を書いた」わけではないでしょう。同氏は科学者ではありませんし、科学哲学などを専攻したわけでもないでしょうから。
無論、この小説の趣旨をそう受け取ることは管理人さんの自由です。とはいえ、同氏は、例えば、「概して我々はそれぞれ違った方法で死をのがれようとします。死後の世界を信じたり、もっとささいな方法としては、作品を残したり、我々自身の記憶や、人生で達成したものを残したり、我々を愛してくれた人や友人の思い出を残すようなことをするのです。何とかして、ある程度は死を克服することができます。私はこの本の登場人物がそういう観点からしか、死について考えないようにしたかったのです。特にこの本の中心に、真の愛を非常にロマンチックな方法で見つけることができるという希望を置きたかったのです。こういうふうにしても死を打ち負かすことができる、これは、世界中のどの文化をみても存在する、一種の深い神話です」と語っているのです(http://www.kaz-ohno.com/special/kazuoishiguro.html)。
この小説のテーマは「科学」というよりもむしろ「死」であり、クローン人間の話は単にその枠組みにすぎないと小生には思えるところです。
カズオ・イシグロ氏は、「科学者なら誰もがわかっていること」を「いちいち大がかりに語」っているわけではありません。それとは別のことを小説という形式を使って書いているのです。
この小説を読んで「馬鹿馬鹿しい」と憤慨するのは、小説自体を「誤読」した人だけではないでしょうか?
Posted by 科学知らずの文学好き at 2017年10月10日 14:29
> 特にこの本の中心に、真の愛を非常にロマンチックな方法で見つけることができるという希望を置きたかったのです。

 それが目的だったなら、この設定はダメだ、ということです。どうせならもっと荒唐無稽な設定にするか、現実的に可能な設定にするか、どちらかです。
 要するに、設定ミス。だから読者は「あってはならないと否定された状況をあえて設定するというのは馬鹿げている」と感じるわけです。要するに、作品世界にのめり込めない。
 SF 用語で言うと「死の谷」に はまり込んでいるんです。中途半端に SF とリアリティを混ぜているから、すごく気持ち悪い。
 氏のやっていることが馬鹿馬鹿しいのではなくて、読者が「こんな設定は馬鹿馬鹿しい」と感じる、ということです。氏の才能には、疑いはありません。日の名残は立派な文学作品です。せっかくの才能が、こんな設定ミスで、のめり込めないような作品をもたらすのが、もったいない。どうせなら、別の設定にすればよかったのに、という話。
 考えてみれば、この人、ストーリーの設定は下手なんですよね。文章はとてもいいんだけど。
Posted by 管理人 at 2017年10月10日 18:05
自分が素晴らしいと感じた作品を馬鹿馬鹿しいと言われたけれど、
馬鹿馬鹿しいわけではないと言われたので、溜飲が下がったのかな。
誤読に基づくボタンの掛け違い。Openブログあるあるですね。


個人的には文学・平和賞は、受賞の裏事情?!を探ることが楽しいです。
イシグロ氏の受賞は、ブリグジットに対する欧州サイドからの批判が大きいような・・・。
移民(日系)である彼が優れた英文学を残しているんだぞ・・・EU離脱とか阿保なことやるんじゃないと(苦笑
Posted by アレン at 2017年10月12日 21:51
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