──
トロッコ問題は前項で解決された。その正解は、
「法律や規則を守ること」
という原則に立つことだ。特にトロッコの例では、「何もしないこと」(5人を見殺しにすること)が正解となる。
( ※ 死者が多い方が正解となるので、一見、不自然に見えるが、それは人々の思い込みがおかしいからだ。そのことは最後に示した通り。)
──
さて。これでは話がつまらない、と感じられるだろう。それもそうだ。
では、どうしてそうか? それは、この問題がもともと不完全だったからだ。問題を立てた人は、
「倫理的に相反する二つの選択肢のどちらを採るか」
という問題を示したかったのだが、それに失敗したので、「一方だけが正しい」という問題を出してしまったのだ。
つまり、狙ったテーマとは別の問題を出してしまった。問題が不完全だったことになる。
だから、「正解はない」というふうに示したかったのに、実際には「正解がある」というふうになってしまった。大失敗。
──
そこで私が、出題者の意図を汲んで、完全な問題を提出することにしよう。
とりあえずは、サンプルのつもりで、次の「問題1」を示す。
【 問題1 】
ドクター・ヘリに乗っている緊急医が、災害現場に派遣された。目の前にいる子供は、脳に釘が刺さって、瀕死の状態である。その子供を救うために、さっそく手術を開始した。難しい手術なので、1時間以上かかるが、とにかく手術を開始した。
そこでレスキュー隊員から報告が来た。他の患者5人が急に出血したという。大出血なので、放置すれば、大量出血で死ぬ。緊急に出血を止める必要がある。
とはいえ、全身のあちこちから出血しているので、そのすべてを止めるには、5人で合計1時間かかる。となると、緊急医には、二つの選択肢がある。
・ 手術中の子供を救い、出血多量の5人を死なせる。
・ 手術中の子供を見捨てて、出血多量の5人を救う。
そのどちらを選択するべきか? (どれを選んでも違法ではないし、ルール違反でもない。)
【 問題2 】
住宅街の狭い道を運転していたら、脇から急に、ボールが出てきた。その直後に、子供が二人、飛び出してきた。その直後に、大人が二人、飛び出してきた。
狭い道路上に、大人二名と、子供二名がいる。
大 大 子 子
人 人 供 供
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ここで、選択肢がある。
・ そのまま直進すると、四人の全員を轢き殺す。
(ブレーキをかけても同じ。間に合わない。)
・ 右にハンドルを切ると、子供は死ぬが、大人は助かる。
・ 左にハンドルを切ると、大人は死ぬが、子供は助かる。
・ ハンドルを切りながらブレーキをかけると、スピンして、
自動車は横向きになりながら、四人を巻き込む。
( ※ 走る自動車の直前にいきなり飛び出すのは、歩行者の方が悪い。ゆえに自動車の方は特に違法でもルール違反でもない。若干の過失責任は負わされれるかもしれないが、誰であってもこれは避けられない事故だ。)
──
以上の二つの問題に、どう答えるか?
そのどちらの問題でも、
「どの選択肢を選んでも人は死ぬ。ただし死ぬ人の種類が違うだけだ」
となる。また、「法律や規則を守れ」というだけでは正解が見つからない。
この意味で、前項の方法は適用できない。
これはつまり、「不完全な問題」ではなく、「完全な問題」だ。
──
完全な問題については、私は次のように考える。
【 問題1 】
子供1人と他の5人は、どちらを救うのでもいい。それは医者の裁量に任される。本人が何らかの基準で取った行動であれば、それがどのような基準であろうと、他人は口出しできない。
なぜなら、医者以外のすべての人々は、ただの1人も救わないからだ。
医者は1人であれ、5人であれ、とにかく救った。だとすれば、「1人を救うために5人を見殺しにした」(またはその逆)で非難するようなことは、よろしくない。
【 問題2 】
右側の子供を救うか、左側の大人を救うかは、どちらにしても正解はない。また、4人の全員を死なせてしまったとしても、それもやむを得ない。
ドライバーの選択によって、何らかの形で被害を軽減することはできたとしても、その是非を問うことはナンセンスである。人々ができることは、そのどれかが起こってしまったあとで、過失責任を問うことだけだ。「どれを選択するべきだったか」というようなことを問いかけても無駄だ。ナンセンス。
──
結論。
トロッコ問題の意図を汲んで、完全な問題を出すことはできる。しかし、そこで得られた結論は、ほとんど意味のない結論だ。「どっちを選んでもいい」という結論だからだ。
実は、そういうふうに「答えがない」というようなものを見出すのが、トロッコ問題の狙いだった。だから、「正解がない」ことを狙って作った問題に対しては、「正解がある」と思う方がおかしいのだ。
「正解がない」ことを狙って作った問題には、「正解がない」というふうになるのが当然なのだ。ほとんどトートロジーに近い。もともとナンセンスでしたね。
[ 付記1 ]
とはいえ、この議論がまったく無意味なわけではない。
前項では、「命に軽重はない」とか、「死者は少なければ少ないほどいい」とか、そういう常識が実は正しくないのだ……という真実が判明した。
こういう形で、思考の落とし穴を暴露したという点では、トロッコ問題には意義がある。ただしそれは、前項の最後で述べたことで、言い尽くされている。
その一方、本項は、あくまで余談ふうの扱いとなる。
[ 付記2 ]
前項の話題には、とても有益な点もある。何が間違いかをはっきりと指摘することができるからだ。
それは、自動運転車のトロッコ問題だ。次の選択肢がある。
・ 直進して、穴に落ちて死ぬ。
・ 脇に逸れて、歩道の歩行者を死なせる。
運転手にとって利益になるのは、後者だと思える。しかしこれは、交通法規に違反するがゆえに、これは正解ではないのだ。だから「後者はダメだ」と明白に指摘できる。「どっちでもいい」というようなことはない。
自動運転車のトロッコ問題では、人々は「ああだ、こうだ」と議論している。「正解はないんだ、どっちでもいいんだ」と唱える人もいる。
しかし前項を読めば、「後者は間違いだ」と明白に断定できる。ここでは「正解はないんだ、どっちでもいいんだ」というようなことはないのだ。
自動運転車のトロッコ問題は、不完全な問題であるがゆえに、物事の是非を明白に結論できるのである。その意味で、社会的にも有益だ。
( ※ 「歩行者を轢き殺す」というような AI を積んだ自動車が発表されたら、それを発売禁止にできるからだ。)
【 参考動画 】
飛び出し自転車。(開始 15秒 のあたり。)
【 補説 】
功利主義について。
功利主義の話が出ていたから、言及しておくと、功利主義は今日では否定されています。
倫理学では、功利主義と規範主義が「対立するもの」とされて解説されますが、こんな解説はナンセンスです。
今日では学説は定着しています。こうです。
「功利主義は、法律を守る範囲内でのみ、是認される」
前項では、「法律を守ること」という結論が出ているので、この結論が出た時点で、功利主義は否定されます。
一方、本項では、「法律に違反しない限りは、どっちを選んでもいい」となります。
そのどちらでも、功利主義は正当化されません。前項では功利主義は法治主義に否定されるし、本項では功利主義は個人の選択に委ねられます。
功利主義が否定される典型的な例では、こうです。
「鼠小僧が、金持ちの富を盗んで、庶民に分配すれば、世の中はよくなる。多くの命が救われる。では、それは正しいか?」
功利主義に従えば、「イエス」です。
法治主義に従えば、「ノー」です。
今日の法治主義社会では、「ノー」となります。ただし、上記の分配を制度化すれば、「イエス」に似た結果になります。ただし実行の主体は、鼠小僧ではなく、政府です。
鼠小僧と同じことを、個人がやれば悪であり、政府がやれば善です。ここでは、功利主義のかわりに法治主義が取られます。これが近代社会というものです。
本項もまた同じ。
( ※ 「そもそも倫理は、法律の範囲外の話だろ」という批判も来そうだ。それはそれで、ごもっとも。が、だとしても、前項の趣旨を否定することにはならない。なぜなら人々は「法律を守る」ということを、すっかり失念して論じているからだ。そこで私が、「まず法律を守るという大前提を見失うな」と告げているわけだ。……結局、人々が混迷状態に陥っているのは、話の大前提を見失っているからだ。その点を指摘したのが、前項である。)
で、結局のところ出題者の意図を汲んだ「答えが出せない完全な問題」に対する管理人の答えは「答えを出さない」かな。極めて一般的な答えだね。管理人らしくなくて期待外れ。
「後」でなく「前」ですよ。時間をかけて書き終えたあとで、アップロードしたら、コメントがあるのに気づいた。そのときはまだコメントを読んでいません。
あれだけの長文を 10分ぐらいで書けるわけがないでしょ。前日分の記述を書いたあと、しばらく考え続けていました。前日分の記述を書いた時点ですでに考察済み。(それを続編として書いた。)
※ 最後の [ 付記2 ] だけは、コメントを読んだあとで書き足した。
> 「答えが出せない完全な問題」に対する管理人の答えは「答えを出さない」かな。
「答えを出せない」です。
しかも、「その原理はトートロジーだ」と書いてあるでしょ。ちゃんと読んで。
なお、数学では「解なし」が正解であることもあります。ただし、それはそれで、立派な正解です。「解なし」だとわからない時点に比べれば、真実を知ったことになる。
「解なしという正解はつまらない」というような発想は、数学者向きではありません。
それは不完全な問題の例です。
完全な問題では、「二者択一以外は不可能」という前提が加わります。事例は下記。
> 医者は右手で子供の手術、左手で大人の止血ができるよう技術
技術的には無理。手術は一本腕ではできません。片腕の外科医は、外科医を廃業するしかない。テレビ番組(コードブルー)ではそういう流れになっている。
( ※ ちなみに、片手で紐を結んでください。できないでしょ? 縫合も同様。片腕でこんなことをやろうとすれば、患者の全員を死なせてしまいます。)
しかも、この事例では、場所が遠く離れているので、根源的に無理。(離れた二つの場所には同時存在できない。)
患者を移動させるか? しかし、テレビ番組の事例では、狭い機内で腹ばいになって脳の手術をしている、というありさま。そこに他人は入れません。患者を5人も入れるのは無理。
二者択一以外にはありません。
> 別のコースが取れる
別のコースは取れません。「狭い道」という条件で、他はあり得ないと設定されています。どうしてもやるなら、超能力で、道の両側の壁を撤去することかな。あるいは、超能力で、自動車が空を飛ぶ。…… 普通の人間には無理ですね。
そもそも、自動車の曲がり方には限界があり、いきなり脇に大きく逸れることはできません。少ししか曲がれない。だから、大人か子供か、どちらかを轢いてしまう。このことは条件で設定されています。
これを見てわかった。そもそもサンデルの意向を全く理解してない。
サンデルのトロッコ問題は政治哲学という分野への導入です。
回答が限定されてもその回答に至るプロセスは多種多様だという話。
あなたが前項で正解としている法律や規則の遵守とその責任は、あくまでリベラリズムの立場をとったに過ぎません。
他にもいろんな考え方があるし、どれが正解でもない。
ここに気付いていないから、問題が不完全だといちゃもんつける。
法も規則も人が定めたものです。そこに絶対はありません。
あくまで現行のシステムがそうであるというだけ。
もちろん、理論と経験から作り上げられた法や規則は極めて合理的ですが、「合理的だから正しい」、というのも考え方の一つに過ぎません。
懐疑を抱く余地は十分あります。
>「死ぬ数が少ないほどいい」とか、「人の命はみな平等だ」とか、そういう思い込みを捨てさえすれば、解決は簡単なのだが。
トロッコ問題で、なぜ功利主義や平等主義が間違ってると言えるのか、説明できます?
前項の場合、法が絶対であることの証明ともいえます。人が作り上げたものに絶対などありますか?
法によって得られるのは単なる秩序です。法は正義を判断するものさしではありません。(あなたはそうした使い方をしているけど)
「罪のある人が死ぬべき」も考え方の一つに過ぎません。罪を決めているのがそもそも人間なのですから。
あなたの選択は”秩序”です。だからといって”命の数”を否定することがなぜできるのでしょう?
(ちなみに、テロリストの例は、テロリストを助けると再びテロを起こす可能性があるので功利主義もテロリストを殺すと思います)
トロッコ問題は原文のままでいいのです。
原文のままでもやっぱり正解はないのです。
サンデルを引用するなら思想の多様性について触れましょうよ。
>しかし、そこで得られた結論は、ほとんど意味のない結論だ。「どっちを選んでもいい」という結論だからだ。
結論はどうでもいいのです。その結論に至ったプロセスを討論するための問題提起なのですから。
>それは医者の裁量に任される。 >ドライバーの選択
あなたが医者なら、あなたがドライバーなら、何を根拠に誰を殺しますか、救いますか?
確かに、ここに正解はありません。でも「正解がない」は求められている回答ではありませんよ。
なぜなら、答えは各人持っているはずだからです。正誤ではなく答えを聴いている問題です。
それはあなたの勘違い。前項では「人が行動するときに、どんな指針に従えばいいか」への回答を示している。そこでは「法に従う」という指針が示された。指針が示されただけです。「法が絶対」は関係ない。
> 答えは各人持っているはずだからです。
あなたは「各人が勝手に決めればいい」と答えているが、それは、「完全な問題」の場合。正解がない場合。正解がある場合(不完全な問題の場合)には、「正解を取れ」というのが回答となる。それが前項の趣旨。
> ”命の数”を否定することがなぜできるのでしょう?
これも誤読。”命の数”を否定しているのではない。「命の数」を大前提とするよりは、「法に従う」ことの方を大前提とするべきだ、と示している。
ここでは、正解を示している。
> 功利主義もテロリストを殺すと思います
テロリストを殺すかどうかは、問題とされていない。命の数は問題とされていない。
「法に従う」ことだけが目的とされる。それが前項の趣旨だ。
あなたは誤読している。前項が捨てた回答を取っている。
> 原文のままでもやっぱり正解はないのです。
だったら、自動運転で、「交通違反をして、自分の命を救うために、大量の歩行者を死なせる」という違法行為も是認される。
あなたは大量殺人という違法行為を是認しているわけであり、犯罪を正当視するわけだ。テロリストも同然だ。
正解がある場合に正解を否定するのは、犯罪者も同然だ。
> 結論はどうでもいいのです。その結論に至ったプロセスを討論するための問題提起なのですから。
それは、完全な問題の場合。
しかしトロッコ問題は、不完全な問題(失敗した問題)なので、当初の意図通りにはなっていない。
サンデルの意図通りにするなら、完全な問題を出すべきだ、となる。完全な問題ならば、あなたの言うとおりになります。
だから、完全な問題と不完全な問題を区別すべきだ、というのが、本項の趣旨。あなたは本項をまったく理解できていない。完全な問題と不完全な問題を区別できていない。不完全な問題を、完全な問題だと勘違いしている。両者を混同している。目的と現実とを混同している。
( ※ いったんコメント欄に記述したあとで、本文に移しました。)
タイムスタンプは 下記 ↓
では、その原則は正しいのか?となりますが、ここで他の問題も含めた、正解の”正”の定義が曖昧なままではいつまでも結論には至らないのでは?
「どっちを選んでもいい」は「正解がない」のではなく、一つに正解が定まらないのであって、「どちらも正解」とも受け止められます。やはり”正”の意味する処を明確にすべきかと。
ちゃんと読んでください。トリアージのあとで容態が急変した場合の話です。
どうも、本文をきちんと読まずに誤読する人が多い。たいていは「あえて誤読しよう」と思っているせい。だから、特定の人が、何度も何度も誤読する。うっかりでは済まない。
子どもと他の患者5人の治療の優先度判断ですが。
問題1には書いてありません。したがって、問題1の前に、トリアージが行われています。(常識)
その後、急変がありました。(書いてある。)
トリアージがあるかないかに関係なく、急変によってトリアージは無効化しています。この「無効化」が重要。
急変があれば、当然その時点で子どもと他の患者5人の優先度判断が行われると思いますが。
もちろん。そのトリアージ段階は本文中に記されたとおりなので、「赤」(緊急・最優先)です。全員が「赤」です。そのなかでどうするか、という問題です。
──
ただしまあ、「誤読」と書いたのは、私の間違いでした。失礼をお詫びします。
ちょっと医学的知識が足りないだけですね。一般人ならば当然のことです。過大な期待を持ちすぎた私が間違っていました。読者は医者じゃないんだから、医学的知識は不十分で当然でした。
(ただ、話の持って行き方がやや拙いけれど。命の数やテロリストの話なんかは正論かもしれないけど、管理人の不毛な反論を招き、話が紛れていくだけ)
ともあれ、管理人がトロッコ問題の本質を理解できておらず、本人がそのことに気づいていないことは明らかではある。
誤解を恐れず、分かりやすく言うと、トロッコ問題とは一種のアンケートなのだ。
設問への考えられる選択肢は3つ。
進路を切り替える/切り替えない/判断できない。
キーポイントは選択肢が少なくてもその結論に至った思考過程は人により様々だという点。
つまり、この問題に対して、人々はどのように考え、それはなぜなのかを研究するところにこの問題の意義があるのだ。
だからカンディ氏は
> 回答が限定されてもその回答に至るプロセスは多種多様だという話。
> サンデルを引用するなら思想の多様性について触れましょうよ。
> 結論はどうでもいいのです。その結論に至ったプロセスを討論するための問題提起なのですから。
と、繰り返し、正しく導くためのヒントを出してくれている。
しかし悲しいかな管理人は全くそのことに気づいていない。
トロッコ問題とは一種のアンケート集計結果を論じることだと思えたなら
> 「正解はないんだ、どっちでもいいんだ」と唱える人もいる。
という指摘が的外れなのにも気づけるだろう。
アンケートの回答に対して正解か誤答か問うのは意味が無い。
しかし「どっちでもいい」わけではない。
前項で私が指摘したのは、
> 絶対的な正解があるわけではない。いや、逆に絶対的な正解がないからこそ、
> 回答者それぞれの判断理由が研究テーマになり得ている。
同じことをカンディ氏は
> 答えは各人持っているはずだからです。正誤ではなく答えを聴いている問題です。
と書いている。正解がないわけではない。人それぞれ個別の正解はあり得る。だけれども統一できる絶対的な正解はない、ということだ。
> 「正解がない」ことを狙って作った問題には、
> 「正解がない」というふうになるのが当然なのだ。
これもそうだ。トロッコ問題に対して絶対的な正解を求めようとするからこのような考えに陥る。
> ほとんどトートロジーに近い。もともとナンセンスでしたね。
トロッコ問題は数学や論理学とは違うのだ。
方程式 x-x=0 は不定。xがどんな値でも成立する。いわゆるトートロジーで、これはナンセンスだ。
しかしトロッコ問題は、xの中身が数値ではない。血の通った、人々の考え(倫理観、道徳心、価値観、正義感といったもの)なのだ。
これらを分析し、考察することはナンセンスどころか、非常に興味深い。
もう一度引用しよう。
カンディ氏はこう書いている。
> 回答が限定されてもその回答に至るプロセスは多種多様だという話。
> サンデルを引用するなら思想の多様性について触れましょうよ。
> 結論はどうでもいいのです。その結論に至ったプロセスを討論するための問題提起なのですから。
カンディ氏は管理人に議論を挑んでいるのだろうか。
私にはそう思えないのだが。
その状況下でも何らかの原則に基づいて優先順位がつけられるはずで、その原則の正当性を考える必要があるのでは、という話ですが。
>ちょっと医学的知識が足りないだけですね。
医者じゃありませんから、医学的知識が不十分であるのは認めますが、ちょっと足りない医学的知識についてご教示頂ければ幸です。
勘違いしているようだけど、私はそのすべてを認めていますよ。ただしそれは「完全な問題」についてだけ。
「完全な問題」と「不完全な問題を区別せよ」というのが私の主張。
私は範囲の区別の話をしているのに、あなたはそこを理解できていない。どこが議論の対象となっているのかを理解しないで、議論の対象外のところで「こうだ」と述べている。
その「こうだ」というのは、私はすべて認めているんですけどね。(条件つきで。範囲限定で。)
人の話を理解しないから、話がちっとも噛み合わない。見当違いのことを論じている。
ない。「それは医者の裁量に任される」と回答済み。
ただし異論は認めます。
実際、そのせいでしばしば、善意の医者が「正当性がない」と非難されて、訴えられる。
ドラマのコードブルーでも、善意の医者が患者から筋違いの非難を浴びて苦しむ場面があった。しかも訴えられた医者は、謹慎処分となり、結果的に病院は医師不足となって死者をたくさん出してしまう。無意味に「正当性」を問うことのせいで、最悪の結果となった。
医者が患者を救えないことはしばしばあります。神でない限り、すべての命を救うことはできない。にもかかわらず、どれほど多数の命を救っても、救えなかった事例があるというだけで、医者は非難されます。
それが世の常。こういう大量の医学的な背景を知らない素人ばっかり。
ということは問題1において、子供を助ける場合も、出血多量の5人を助ける場合もあるわけで原則が定まっていないということでしょうか。トリアージの根幹にある行動原理を鑑みれば定まっているはず、と思っていました。
> 救えなかった事例があるというだけで、医者は非難されます。
そうなんでしょうか。結果が、その時点での最善の選択によるものであれば受け入れざるを得ないのでは。最善か否かに疑義がある場合は非難も生じるかもしれませんが、その確率はそれほど大きくないように思います。
>( ※ ちなみに、片手で紐を結んでください。できないでしょ? 縫合も同様。片腕でこんなことをやろうとすれば、患者の全員を死なせてしまいます。)
テレビでは日本の外科医はレベルが低いのかもしれません。
Sergent onehand knotというのがあるそうです。
レベルが低いんじゃなくて、両腕があるんです。両腕があるのに片手で手術するわけがない。まして、左手だけでは。
テレビでは片腕になった医者は、定年間近で、残った腕は左手だけ。
仰る通りです。ただ例外はないのだろうかと。その例外処理を裁量のみで行えば批判は免れません。
その際、単に裁量のみで例外を選択した場合と、
なんらかの原則に依拠した場合では結果が同じだったとしても選択に対する評価は異なると考えます。
だからといって批判されないということはないでしょうが。
いや、私は勘違いしていない。
> 私はそのすべてを認めていますよ。
認めて欲しいとは思っていない。掘り下げて欲しいと思っている。
> どこが議論の対象となっているのかを理解しないで、
どこが論点なのかは理解している。くだらない薄っぺらな論点だ。
> 議論の対象外のところで「こうだ」と述べている。
これはそうだ。
> 人の話を理解しないから、話がちっとも噛み合わない。
> 見当違いのことを論じている。
これは、そっくりそのまま、管理人のことを言っている。
私が一貫して言っているのは、「範囲の区別の話」や、問題そのものへの回答の論究をしているのが的外れだ、と言うことなのだ。
つまり論述の焦点が私と管理人とでずれているのは当たり前なのだ。
その上で、そのズレを修正すべきではないのか、と言いたいのだ。
トロッコ問題とは、多くの人々がその状況についてどのように感じどのように考えるのか、その傾向や思考手順を考察すること、その事こそがトロッコ問題の本質なのだ。
その本質を掘り下げようとせずに、単に理屈をこねくり回すだけに終始するなら、それはトロッコ問題を語っているとは言えない。
だから、本来の意味でトロッコ問題に向き合うべきではないのか、というのが私の主張。
範囲の区別や、トートロジーだった、という陳腐な結論で管理人が満足しているなら別だが。
だったら、サンデルの扱っているトロッコ問題と、本来のトロッコ問題を、区別するのが先決でしょう。それが第一段階となる。
なのに、「区別すべきだ」というのを否定して、両者を故意に混同させているのなら、話が先に進まない。
> 管理人が満足しているなら
満足しているのではない。私の話は、「混迷している問題を整理する」ということだ。
ここを整理したあとで、その先に話が進む。
要するに、あなたは山頂をめざしている。私は山頂をめざす前に、「麓で取る道を間違えるな」と言っている。「人々の取る道は間違いの道だから、正しい道を取れ。こっちが正しい道だ」と示している。
なのにあなたは、「麓で正しい道を選択するのは無意味だ。それでは山頂に到達したことにはならない。山頂に到達しないで、満足なのか?」と文句を言う。
私がやっているのは「物事の本質的な真実はこうだ」と示す神のような役割ではない。「物事を明確に考えましょう」という論理的思考法の提示だ。
私の示しているのは「最終的な回答の提示」ではなく「思考法の提示だ」ということを理解できないと、無いものねだりをすることになる。寿司屋に入ってフランス料理を注文するようなものだ。お門違い。
基本的には、本サイトは、倫理学のサイトではなく、論理的思考を扱うサイトです。倫理と論理で、文字だけは似ているけどね。
お疲れ様です。
なお、Sergical One-handed knot(日本語訳 片手結び) は外科医の基本のようです。
これは「片手だけで結ぶような結び方」ではありません。あくまで両手を使います。
片手で一つ、もう片手で一つ、あわせて二つが1箇所にできます。そのことで、ほどけにくい丈夫な結び方となります。
http://www.nagano-matsushiro.or.jp/resident/movie
> 「麓で取る道を間違えるな」と言っている。
ではなぜ、前項の冒頭に
> サンデルの「トロッコ問題」が難題とされるが、これはあっさり解決できる。
と書いているのか。
文面通り捉えると、あっさり山頂へ到達できる、という事になる。
管理人はこの時点で自分の間違いに気づいていない。
トロッコ問題とはトロッコ問題のプロブレムに答えることではなく、トロッコ問題をメソッドとして捉え、考察することだ。
そして、メソッドとして捉え考察することが「難題」なのだ。
再度アンケートになぞらえると、アンケートへの回答が難しいのではない、集計結果の分析・考察が難しく、且つまた興味深いのだ。
アンケートへの回答が難題だ、という意味なら、これぞ噴飯モノ、ということになる。
それでいいのか、ということなのだ。
> 寿司屋に入ってフランス料理を注文するようなものだ。お門違い。
この比喩も間違っている。
正しくは、寿司屋で「ポトフ」と言われた料理が出てきた。よく見ると明らかに「豚汁」だった。
というくらいだろうか。
> 本サイトは、倫理学のサイトではなく、論理的思考を扱うサイトです。
単なる逃避だ。
トロッコ問題自体、倫理学・心理学の問題だが、それを論理的に思考することは可能だ。
いや、逃避ではなく「降参」なのか。
>> サンデルの「トロッコ問題」が難題とされるが、これはあっさり解決できる。
>と書いているのか。
まだ区別ができていないようですね。
サンデルの「トロッコ問題」は、本来のトロッコ問題ではないから、あっさり解決できるんです。(本来のトロッコ問題について「解決が容易だ」と言っているのではない。)
あなたは私の話をまったく理解していない。不完全な問題と完全な問題を、どこまでも混同し続けている。
私の話を読んでいないのも同然だ。まずは相手が何を言っているのか理解しましょう。議論にならない。
それ、むしろ逆。
というか、サンデルの「トロッコ問題」を語るなら、せめて、これ読んでからにした方がいい。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784152091314
まあ、どのみち、倫理学や心理学の観点から、語る気も能力もなさそうだから、ここまでにしよう。
片手の一方は糸を固定しているだけなので、人間である必要はありません。クランプでもなんでも糸を固定できる装置があればいいだけです。
言葉とはすべて比喩ですので、よろしくお願いします。