──
大学の研究に軍事予算を投入する傾向が強まっている。たとえば、光学迷彩の研究など。
特に米国が熱心で、米国の豊富な軍事予算を、日本の基礎研究に投入しよう、という傾向がある。日本でも、防衛省による競争的資金制度である「安全保障技術研究推進制度」というのがある。
特に曖昧なのが、軍民両用(デュアルユース)という分野だ。明確に「軍事専用」と言えないことで、議論が沸いている。
これに対して、「大学は平和目的だから、軍事予算は受け取らない」と声明した大学もある。(法政大学)
→ 軍事研究・デュアルユース(軍民両用)研究等に関する 本学の対応
また、朝日新聞では、デュアルユースについて特集ふうに報じた。
→ デュアルユース 軍事も民生も、技術の両義性:朝日新聞 2017-02-18
ニューズウィークの記事もある。
→ 安全保障貿易管理から見るデュアルユース問題
──
さて。これについて私はどう考えるか?
実は、似た話題を、前に扱ったことがある。下記だ。
→ インターネットは軍事技術?
この項目から、一部抜粋しよう。
「インターネットは軍事技術として生まれた」という俗説がある。信じている人が多いが、これは誤りだ。
軍が関与したといっても、あくまで「軍が資金提供をした」というぐらいのことでしかない。当時はすでに情報技術・通信技術の開発があちこちの政府機関でなされていたが、そのうちで最も資金が潤沢であった軍が担当した、というぐらいの意味でしかない。純粋な軍事技術として開発したというよりは、重要性が高いから軍が担当したという程度のことだ。基本的には、「軍事技術」というよりは「国家の基幹技術」という扱いであり、そのために最先端の民間技術者が登用されたわけだ。
文中のロバート・E・カーンも、軍人だったのではなくて、ただの電気技術者であったが、「国家の基幹技術」の開発のために軍の組織に属していただけだ。
インターネットは、軍事技術として開発されたのではなくて、国家の国家の基幹技術として開発された。ただし、その開発の担当機関が、軍の組織であった。もっとわかりやすく言えば、インターネットの開発には、軍の開発資金が使われた。そのせいで、組織上は、開発組織は軍に属していた。……それだけのことだ。
なお、これをもって「インターネットは軍事技術として開発された」と表現するのは、話がおかしい。この理屈が通るなら、軍が料理のレシピを考案したのも、「このレシピは軍事技術として開発された」というようなことになる。
インターネット技術は、デュアルユースの技術として、軍の予算で開発された。これが「群にも使われるから、けしからん」ということになるのであれば、今日、インターネットを民生技術として使うこともできなくなる。(それは困る。)
また、防衛省の予算で開発された「海軍カレー」のレシピも使えなくなる。(困るわけではないが、馬鹿馬鹿しい。)
──
以上からすれば、私としての結論は明らかだ。
「戦争に使われる可能性があるからといって、その分野の基礎技術の開発までも止めてしまうのは、馬鹿馬鹿しい」
こういうのは、故事成語にもありそうだ。元も子もないというか、本末転倒というか、角を矯めて牛を殺すというか。……
一般的に、基礎研究というのは、未分化なものなのだから、「軍事的にも使えるから」というような理屈で研究禁止にするのは、馬鹿げているのだ。
具体的な例は、ノーベルのダイナマイトだ。これが戦争のときに爆弾になるからといって、土木工事の利用でも使用禁止になったら、大変不便になる。たとえば、黒部ダムの建設もできなかっただろう。また、歴史的にも、ダイナマイトは石炭の採掘で多用された。ダイナマイトなしでは人類の発展はなかったのだ。(石油時代の前は石炭時代だった。明治のころはそうだ。朝ドラの「マッサン」でも放映された。)
これが「話が古すぎる」というのなら、前述のインターネットを思い出せばいい。
ともあれ、基礎研究と、実際の生産活動とは、話の次元が異なる。軍事的な兵器の生産が駄目だということと、軍事的に利用可能な基礎研究が駄目だということは、全然別のことだ。
そもそも、「軍事的に利用可能な物はすべて駄目だ」ということになったら、食料の生産だって駄目だということになる。食料は軍隊でも使われるんですからね。
基礎研究における「軍民両用が駄目だ」ということになったら、「農業生産は禁止」となって、餓死するしかないね。
──
さてさて。
以上のことだけだったら、特に私が書くまでもないだろう。同じようなことを言う人はたくさんいそうだ。特に、軍事マニアの人はそうだろう。
ここで、私としては、もっとひねった見解を示したい。こうだ。
「軍民両用の予算が増えれば増えるほど、純粋な軍事予算が減るので、かえって平和目的に適う」
たとえば、オスプレイを1機買うのをやめて、100億円を浮かせて、その 100億円で軍民両用の基礎研究をする。これだと、軍事予算の総額は変わらないが、兵器を買うかわりに、基礎研究が推進されることになる。……だったら、この方が、平和目的に適うだろう。
軍民両用と聞くと、反発する研究者が多いようだ。
「軍の費用なんかに頼るのは、平和目的という良心に反するので、まっぴらごめんだ」
というふうに。しかし、やっている研究が基礎研究である限りは、軍の予算を使えば使うほど、かえって純粋な軍事利用の額は減るのだ。そういう逆説が成立するのである。
──
なのに、その逆説を理解できないで、感情的に反発する人が多い。
法政大学の見解や、朝日の記事などを見ると、「大学というアカデミズムが軍事研究に踏み込むのはけしからん」という論調だ。たとえば、こうだ。
大学など日本の学術界は長く、防衛研究や軍事研究とは一線を画してきました。第2次世界大戦で研究者が動員され、戦争に協力したことを強く反省したからです。議論の中心は、科学者の代表機関である日本学術会議です。
しかしこれは、「あつものに懲りてなますを吹く」というようなものだ。なるほど、たしかに戦時中には、「研究者が動員され、戦争に協力した」ということはあった。しかしそれは、軍民両用の研究ではない。純粋な軍事研究のためだった。
たとえば、物理学者が自分の専門の物理研究をしたのではなく、物理学者が爆弾の技術開発などに転用された。ここでの「協力」とは、「研究の協力」ではなくて、ただの「軍事活動」だったのだ。それは、今回の「軍民両用」の研究とはまったく別のものだ。
両方を混同しているのは、「あつものに懲りてなますを吹く」というふうでもあり、妄想・勘違いふうでもある。「心配性」とも言えるかも。(心配症と言うべきかも。ビョーキだ。)
というわけで、「戦争の心配をするのもいいが、過剰に妄想をするべきではない」というのが、結論となる。とりあえずは、インターネットの由来についてでも、考えるといいでしょう。ついでに、GPS も。
軍事に適用できる技術の研究開発が相手のそれを凌駕していれば相手の攻撃による損失を低減できますが、極端な平和主義の方々はそういう概念さえお持ちではないようです。
そっち方面の予算を増やす、って話があったから。
少し前に某掲示板で話題になってましたよ。
同じことでしょう。たしかに法政大のは、「防衛省から委託された研究するのは禁止」ですが、「防衛省から委託された研究」は「軍事技術になり得る研究」ですから。
仮にそうでないとしたら、防衛省は税の無駄遣いをしていることになる。そっちの方が問題だ。