2016年10月23日

◆ ボブ・ディランのノーベル賞を取り消せ

 ボブ・ディランのノーベル賞について、私見を述べる。

 ──

 ボブ・ディランにノーベル賞を授与する、と発表されたのは、一週間ぐらい前。そのころ書こうかと思ったのだが、将棋の話題が大きくて、そっちを書くだけで精一杯だった。
 ようやく将棋の話も終わったようなので、ボブ・ディランのノーベル賞の話を書く。


 (1) 世間の祝福

 世間では祝福が多かった。「よかった」という声が多かった。まあ、おめでたい場で、いちいちケチを付ける人は少ないせいだろう。

 (2) 私の違和感

 一方、私は「これはおかしい」と感じた。
 まず、「そもそもボブ・ディラン自身が、たいして喜ばないだろう」ということだ。すでに世界的な名声を得ている人である。新たに名声を得たところで、たいして嬉しいはずもない。
 次に、ノーベル賞の意義だ。ノーベル賞は、「世間ではあまり評価されることのない学術という分野で、顕彰することで、金と名声を与える」という効果がある。これは、学術という分野のなかでこそ、有意義なことだ。なのに、世界的な名声と大金を得ている大衆芸術という分野で、こんなことをやったとしても、いったい何の意味があるのか? ノーベル賞自身の自殺行為だ、と思った。
 ※ ちなみにノーベル賞の賞金は1億円弱だ。莫大な金を稼いでいるボブ・ディランにとっては、今さらまったく必要のない金額だ。せいぜい「死後に残す遺産の金額の数字が少し増える」というだけのことだ。自分自身にとっては、何のありがたみもない。(金銭的には。)また、名誉の点では、今さら何を言う必要があるか。


 (3) ボブ・ディランの沈黙

 その後、ボブ・ディランが沈黙を守っていることが報道された。「ああ、やっぱり」と私は思った。彼自身が、こんなものをありがたがっていないのである。私の予想通り。
 「沈黙している、と報道される前に、こうなるだろうという予想記事を書いておけばよかった」
 と思ったのだが、将棋にかまけていて、書けず。


 (4) 解説記事

 そうこうしているうちに、私が書くまでもなく、他の人が似た趣旨の話を書いてしまった。英紙ガーディアンが書いていて、その解説という形。
 《 ボブ・ディランがノーベル賞にシラけている理由 》
 長年の友人でソングライターのボブ・ニューワースはワシントンポストの取材に対し、「受賞の事実そのものを認めないだろう」(原文・He may not even acknowledge it)という言い方をしている。つまり、自身の音楽が“文学”として評価されることに、ただならぬ違和感を覚えているのではないだろうか。
 そのひとつに、ディランがある時期からCDに歌詞カードを付けなくなったことが挙げられる。日本語盤ライナーには詞の対訳のみ掲載されているが、原盤には歌詞に関する情報が全く存在しない。
 もちろん公式サイトで全て確認できるから必要ないのもあるだろうが、最大の理由は、音楽よりも詞ばかりが深読みされる事態にディランが辟易している点だろう。
 ノーベル「文学」賞なる重石も加わるとなれば、ディランの音楽は“聴かれる”ものではなく、永遠に“読まれる”ものとして扱われてしまう危険すらあるのだ。
 そしてディランは、何よりも自身をミュージシャンだと考えている。次の発言からよく分かるだろう。
<俺にとって興味があったのは、ミュージシャンであることだった。シンガーであることも大事だし、曲も大事だ。しかし、脳裏のどこかで常に一番最初に来るのは、ミュージシャンであることだった。
(『インスピレーション』よりボブ・ディランのインタビュー 著:ポール・ゾロ 訳:丸山京子)
( → 日刊SPA!



 (5) 歌としての歌詞

 「音楽よりも詞ばかりが深読みされる事態にディランが辟易している」
 と上の記事にはあった。これについては、私も前から似たようなことを考えていた。こうだ。
 「ボブ・ディランの歌詞は文学性があると言われているし、それ単独で読んでも文学性があるとも言われている。しかし、それ単独で読むのでは、超一流とは言えない。まして、ノーベル賞を得るほどの価値があるなんて、とても言えない」

 ちなみに、ノーベル文学賞を得た詩人と言えば、タゴールが思い浮かぶ。これはちょっと大物すぎるかな。


Amazon・タゴール詩集

 一例を少しだけ示そう。
あなたは わたしを終わりのないものに お造りになりました。
それが あなたの喜びなのです。
この こわれやすい器を あなたはいくたびも うつろにし
また いつも新しい生命で 充たされます。
( → タゴール詩集/ギタンジャリ…神への捧げ歌


 まあ、ボブ・ディランと比べると、大人と子供ぐらい、出来映えに差がある。野球で言えば、大リーガーと高校野球ぐらい、格差がある。
 甲子園球児がいくらすごいといっても、大リーガーとは比べものにならないのだ。ボブ・ディランも同様。野球で言えば、高校球児レベル。
 ただしそれは、ボブ・ディランの歌詞が、詩ではなくて歌詞であるからだ。歌詞という制限があるがゆえに、文章としての表現力は非常に限定される。(それは短歌や俳句に限定がかかるのに似ている。大幅に制約されてしまうのだ。)
 一方、歌詞であるがゆえに、「曲に乗って歌われる」「音楽性がある」という強みがある。このことによって、単に目で読まれる文字に比べて、圧倒的な感情効果を備えるようになる。文字で読むだけでは、「ちょっと優れた詩」ぐらいにしか思えないものが、曲に乗ることで、「非常に優れた歌」となる。

 このことは、ボブ・ディランも知っていたはずだ。だからこそ彼は、「歌詞だけを読むのでなく、歌として扱ってくれ」と思ったのだ。
 なのに、ノーベル賞の選考委員は、そのことを理解しなかった。ボブ・ディランその人が、「自分の歌の価値は、音楽性にある」と感じているところへ、「文字だけで評価しよう」とした。
 それはいわば、一人の美しい女優を称えるために、「唇が美しいから」というふうに、ほんの一部だけを取り出して称えるようなものだ。そんな形で褒めたとしても、その人の本質を褒めたことにはならないのだ、と気づかないまま。



石原さとみ

satomi-lip.jpg


 ※ どちらかというと、石原さとみを「おっぱいが大きい」と褒めるようなものか。



 (6) 「傲慢・不遜」発言

 そのあとで、「ボブ・ディランと連絡が取れないので、連絡を諦めます」という報が出た。
  → 「ボブ・ディランに連絡取るのやめます」ノーベル文学賞で事務局長

 これに関して、「傲慢・不遜」という発言が出た。
  → 「ボブ・ディラン氏は無礼で傲慢」ノーベル委員長が苦言:朝日新聞
 同賞を選考したノーベル委員長のペール・ベストベリィ氏が21日、「無礼で傲慢(ごうまん)だ。でもそれが彼ってものだ」と苦言を呈した。
 スウェーデン公共放送SVTのインタビューに応じた。ベストベリィ氏は、ディランさんの公式ウェブサイトから「文学賞受賞」の文言が21日までに削除されたことも認識しているとして、「予想していなかったが、彼は気難しいようだから驚きはしなかった」と語った。

 発言のニュアンスを問題視する人もいるので、詳細は英語記事で。
 《 Bob Dylan’s Silence on Nobel Prize Is Called ‘Impolite and Arrogant’ by Academy Member 》
“One can say that it is impolite and arrogant,” the member, Per Wastberg, a writer, told the Swedish newspaper Dagens Nyheter, according to a translation by The Associated Press. “He is who he is.”
( → The New York Times

 翻訳によれば、委員長 本人が「傲慢だ」と語ったのではない。「One can say that 〜」とあるから、「(人は)傲慢だと言ってもいい」ということだ。断言ではない、ということですね。

 とはいえ、断言の程度が弱まったとはいえ、まさしく「無礼で傲慢」と語ったことは事実だ。そして、それは、次のことに似ている。
 「おれ、クラスで一番の美女である彼女に告白したんだよ。だけどさ、彼女ったら、いつまでたっても返事をしてくれないんだ。黙っているだけ。無礼で傲慢だよな」

 これは何を意味するかというと、「フラれた男が鈍感である」ということだけだ。「沈黙は拒否」ということを理解できないで、女にフラれた男が、「無礼で傲慢だよな」と女を非難している。
 鈍感さに呆れるね。ノーベル賞の委員会も、この鈍感男と同じ。
 朝日の記事の続きには、こうある。
 12月10日にストックホルムで開かれる授賞式前には、受賞者による記者会見や講演も予定される。だがディランさんが受賞するつもりがあるかも不明だ。授賞を発表したスウェーデン・アカデミーはディランさんに直接連絡することを断念している。「我々は待つ。彼が何と言おうと彼が受賞者だ」とベストベリィ氏。「これは非常に特異な状況。おそらく彼は式典ぎりぎりまで返事を引き延ばすかもしれない」と話した。

 フラれた男が、いまだにフラれたことを認識できず、一縷の希望にしがみついている。ボブ・ディランのサイトでは、いったん掲載したノーベル賞の記述を削除した、というにもかかわらずだ。みじめで、情けなくて、涙が出るよ。
 もはや、ノーベル賞の権威は風に舞っている、というしかない。


 (7) 本質

 そもそも、本質は何か?
 大事なのは「文学とは何か?」という本質ではない。「賞とは何か?」という本質だ。
 それについては、先に (2) でこう書いた。
 次に、ノーベル賞の意義だ。ノーベル賞は、「世間ではあまり評価されることのない学術という分野で、顕彰することで、金と名声を与える」という効果がある。これは、学術という分野のなかでこそ、有意義なことだ。なのに、世界的な名声と大金を得ている大衆芸術という分野で、こんなことをやったとしても、いったい何の意味があるのか?

 ノーベル賞の委員会は、「ノーベル賞とは何か?」という本来の意義を忘れてしまっている。単に「自分たちが気に入った作品に賞を上げればいい」と思っている。自分たちが「神のように評価を下すもの」だと思い込んでいる。だから、「高く評価されたものはありがたがれ」と思っているし、「高い評価を受け入れなかったものは無礼で傲慢だ」と思っている。
 しかし、ノーベル賞の意義は、そんなことではない。すでに最大級の評価を受けている人に、屋上屋を架す形で、二重に評価を与えることではない。また、百億円の富をもつ人に、さらに1億円を贈ることではないのだ。
 ノーベル賞の意義は、むしろ、学術分野という日の当たらない分野で、名声のない人に名声を与えることだ。また、1億円という所得を得ていない人に、1億円という所得を与えることだ。

 これがノーベル賞の本質だ。なのに、その本質を忘れて、ただの人気投票みたいな商業主義に染まってしまったことを、ノーベル賞の委員会は示している。ノーベル賞というものを、ただの商業的な宣伝行為だと勘違いしているのだろう。
 アルフレッド・ノーベルは、ノーベル賞を設立した。それは決して、ノーベル賞が世界的に大々的に宣伝されることのためではない。ノーベル賞委員会は、アルフレッド・ノーベルの本来の意図を理解するべきだ。

 そうすれば、ノーベル賞委員会がなすべきこともわかる。それは、こうだ。
 「ボブ・ディランへのノーベル賞を、ただちに取り消す。そして、かわりに、別の人にノーベル賞を出す。ちゃんと贈る意義のある人に」




  ※ 取り消しの理由は、「本人の不受理」でいいだろう。
    取り消しを決定した数日後に、別人に贈ればいい。
    あるいは、翌年に、二人に贈ればいい。
 


 [ 付記 ]
 ノーベル賞の委員会は、「ボブ・ディランが授賞式に出席するかもしれない」と期待しているようだ。しかし私がはっきり言っておく。「出席することは絶対にない」と。
 なぜか? もし出席すれば、多大なるファンが押し寄せて、とんでもない混乱になることは見えているからだ。そんなことをボブ・ディランが喜ぶわけがないだろう。
 ここでノーベル賞の委員会にはっきり言っておく。こうだ。
 「ノーベル賞は素晴らしい、と思い込むのはやめろ。ボブ・ディランの価値は、ノーベル賞の価値よりも、ずっと上なんだよ。自分の価値を下回る賞をもらって、喜ぶわけがないだろう。ボケ」

 ノーベル賞の委員会に対しては、「自惚れるのもいい加減にしろ。自分を何様だと思っているんだ」と言っておきたい。



 [ 補足 ]
 スウェーデン語の原文と翻訳は、下記。
Nä, vad ska man tänka? Man kan ju säga att det är oartigt och arrogant. Han är den han är.

ええっと、何を思えばいいかってこと? 無礼で傲慢だと言えるだろうね。彼はそういう人間だから

 これの出典は、下記。
  → 【確報】「無礼で傲慢」とノーベル賞選考関係者はディランを評したのか

 しかしながら、上の和訳は妥当ではない。なぜなら、これを英訳すると、「 I can say that it is impolite and arrogant.」となり、主語が変わってしまうからだ。

 原文をBing 翻訳 で英語に翻訳すると、こうなる。
 Nah, what do you think? One can say that it is impolite and arrogant. He is who he is.

 結局、NY Times の翻訳は正しかったことになる。一方で、上の和訳は駄目だ。
 なお、NY Times や Bing の翻訳が正しかったのは、英語とスウェーデン語はもともと兄弟語みたいに近いからだ。変な和訳に頼らず、NY Times の記事だけ読む方が、よほど信頼が置ける。



 【 追記 】
 その後、ボブ・ディランは、ノーベル賞を受ける旨を声明した。
 なぜ沈黙していたか、という質問には、とぼけて、まともに答えない。どうも、何か深い事情があるらしい。
 そこで私はこれを推測して、コメント欄に書いておいた。
>  インタビューで、沈黙を貫いていた理由について問われたディラン氏は「今ここにいるだろう」と答えている

http://www.afpbb.com/articles/-/3106112?cx_part=topstory

 まともに答えていないね。
 「逃げようとしたけど、逃げられないと思ったので、とうとう出頭することにした」
 という犯人の心理に近いかな。主義を貫くことができなくなった、という諦めの心境か。

 Posted by 管理人 at 2016年10月29日 07:51
 私の推理だと、この心変わりは、本人の意思ではないな。たぶん、家族(娘?)に説得されたんだと思う。
 「1日出席して1億円もらえるのなら、もらっておきなさいよ。どうせ相続税で半分取られちゃって、あんまり残らないんだから、いっぱい残しておいてよ」

 本人は金は不要でも、娘には金が必要なんだろう。いくら金をもらっても、本人は使い切れない(使う前に死ぬ)けれど、子供は「金は多ければ多いほどいい。ちゃんと使い切る」と思っているんだろうね。

 Posted by 管理人 at 2016年10月29日 10:42

posted by 管理人 at 21:56| Comment(11) | 一般(雑学)4 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
何事にも、エラーはつきもの。
該当者がいないので、エラー覚悟で宣言した!
といったところでしょう?
Posted by yomoyamapage at 2016年10月24日 00:05
 最後のあたりに、 [ 付記 ] を加筆しました。
 タイムスタンプは 下記 ↓
Posted by 管理人 at 2016年10月24日 01:03
機械翻訳と和訳は相性が悪いですね。中国語も英訳が和訳よりも分かりやすくなります。
google翻訳は次のようになってます。主語は同じですね。
Well, what should we think? One can say that it is impolite and arrogant. He is who he is.
Posted by 京都の人 at 2016年10月24日 23:05
 以前もコメントさせていただきましたたが、ノーベル賞はノーベル財団が推薦と調査に基づいて決めるものです。文学賞はスウェーデン・アカデミー(学士院?)が決定します。それだけのことです。
 今年はボブ・ディランに決まりました。驚きでしたが、違和感はありませんでした。受賞理由に納得するからです。

 ノーベル財団のHPに載っている受賞理由には "for having created new poetic expressions within the great American song tradition"「偉大なアメリカ歌謡の伝統の中で、新しい詩の表現を創出したことに対して」とあります(一部のウェブ記事で「アメリカ音楽」とあるのは誤訳です)。歌手が受賞したのではない、ということです。また、ディランの経歴の記述では、ウディ・ガスリーの系譜に連なるとの見方をしています。

 これまでの文学賞の対象となった作品を辿ると、小説が53%、詩が25%、戯曲が14%となり、詩が結構多いのが分かります。ディランの歌詩が評価されてもいいわけです。では彼の歌詞のできばえはどうなのでしょうか。私には、それを評価できる素養はありませんが、彼の歌詞の多くが、韻を踏んでおり、伝統的な詩作の方法に従っているとは言えそうです。韻を踏む、という点では、サイモン&ガーファンクルの歌詞も同じです。ビートルズの歌詞は、韻の踏み方がやや不明瞭に思われます。

 ノーベル文学賞はノーベルの遺言に基づきますが、財団HPには ''to the person who shall have produced in the field of literature the most outstanding work in an ideal direction'' 「文学の分野で、理想的な方向に最も傑出した作品を創作した人へ」とあります。「an ideal direction」 の意味が、中学レベルの私の英語力では正確には掴めませんが、単なる文学作品では賞の対象にはならない、ということでしょう。


Posted by Nekogu at 2016年10月26日 00:09
> 彼の歌詞のできばえはどうなのでしょうか。

歌詞としてのできばえは最高レベルです。「歌」というジャンルでは、最高レベルの歌詞と言ってもいいでしょう。

文学としては? 本文中に書いたとおり。
私の見解は、ボブ・ディラン自身の見解とほぼ同じであり、ノーベル賞委員会とは正反対です。

> 私には、それを評価できる素養はありませんが、

論じない方がいいでしょう。数学を知らない人が数学論文を評価するようなものです。

 ──

あと、そもそもの本質は、「ノーベル賞に値するか否か」ではありません。「賞を欲していない人に無理やり賞を与えるか」です。

比喩的に言えば、1兆円の富をもっている孫正義に、「1億円の賞を上げるから授賞式に来い」と命じるようなもの。それによって孫正義は1億円を得るが、数億円分の時間を損してしまう。これじゃ 損 正義だね。
Posted by 管理人 at 2016年10月26日 00:15
本人、ノーベル賞欲しいようですね。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161029-00000003-jij_afp-int
授賞式も出るみたいです。
Posted by RFT at 2016年10月29日 07:36
>  インタビューで、沈黙を貫いていた理由について問われたディラン氏は「今ここにいるだろう」と答えている

http://www.afpbb.com/articles/-/3106112?cx_part=topstory

 まともに答えていないね。
 「逃げようとしたけど、逃げられないと思ったので、とうとう出頭することにした」
 という犯人の心理に近いかな。主義を貫くことができなくなった、という諦めの心境か。

 三浦九段もそのうち出頭する気になるかもね。今は雲隠れしているが。
Posted by 管理人 at 2016年10月29日 07:51
 私の推理だと、この心変わりは、本人の意思ではないな。たぶん、家族(娘?)に説得されたんだと思う。
 「1日出席して1億円もらえるのなら、もらっておきなさいよ。どうせ相続税で半分取られちゃって、あんまり残らないんだから、いっぱい残しておいてよ」

 本人は金は不要でも、娘には金が必要なんだろう。いくら金をもらっても、本人は使い切れない(使う前に死ぬ)けれど、子供は「金は多ければ多いほどいい。ちゃんと使い切る」と思っているんだろうね。
 
 
Posted by 管理人 at 2016年10月29日 10:42
書けない?
Posted by あれ at 2016年10月31日 00:49
失礼、書けますね

> その後、ボブ・ディランが沈黙を守っていることが報道された。「ああ、やっぱり」と私は思った。彼自身が、こんなものをありがたがっていないのである。私の予想通り。

そうではないようです

ボブ・ディラン氏、ノーベル賞沈黙は「言葉失っていた」:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/sp/articles/ASJBY31LNJBYUHBI00J.html
> 今年のノーベル文学賞の受賞者に選ばれながら、約2週間にわたり沈黙を貫いていた米国のミュージシャン、ボブ・ディランさん(75)が、28日までに文学賞を選考したスウェーデン・アカデミーに受賞の意思を伝えていたことが分かった。同日、ノーベル財団が声明で明らかにした。

財団トップからソースに辿れます

Bob Dylan: “If I accept the prize? Of course.”

SNS用のURIはかなり特殊です
http://meltwater.pressify.io/publication/5813bb6c3f5fa7030006bb32/552bd85dccc8e20c00e7f979?&sh=false

財団トップからどうぞ
Posted by 通りすがり at 2016年10月31日 00:59
事態が変わってしまいました。周知のように、ノーベル財団のHP に、金曜日(10.28)にディラン氏からスウェーデン・アカデミーに電話があり、“I appreciate the honor so much.” (栄誉にとても感謝します/とても光栄に存じます)と述べた、と報じました。授与式に出席するかどうかは不明?ですが、財団としては一安心?ということでしょうか。

ノーベル賞選考委員会は「選定する」だけで、「断られる」ことは想定していないようです。サルトルは辞退しましたが、選んだ/選ばれたという事実は残っています。拒否するなら「辞退する」と言えば済むことだろうと思います。
ディラン氏がこれまで沈黙していた理由は分かりませんが、「賞を欲していない」とご本人が言ったことはありませんでした。
Posted by Nekogu at 2016年10月31日 18:28
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