2016年10月03日

◆ 有望な研究はやるな

 学問的または技術的な研究で、成功するにはどうすればいいか? 有望な研究をやればいいか? いや、逆だ。有望な研究はやめた方がいい。

 ──

 なぜか? 有望な研究は、参入する研究者が多くて、ライバルが多いからだ。ライバルが多ければ、たとえ研究が実るとしても、その成果を得るのは(多くの)ライバルのうちの一人であって、あなたではない。一人が成功して、他の全員は出し抜かれる。「一将功成りて万骨枯る」とはちょっと違うが、そんな感じだ。


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 「だったら他人を出し抜けばいい」と思うかもしれないが、出し抜いたとしても、ほんの僅差であることが多い。最近では、遺伝子の編集技術というやつがある。「画期的な技術だ、ノーベル賞確実だ」とまで言われているが、三人の研究者が「私が早い」と言い張っている。
 ま、誰が早いかは、それなりに話題になるが、世界にとってはどうでもいいことだ。この三人は、立派ではあるが、「かけがえのない存在」ではない。そのうちの一人は、いてもいなくても、どうでもいいのだ。別の一人が同じ研究成果を達成するのだから。

 ここで思い浮かぶのが、DNA の発見だ。ワトソンとクリックは、「 遺伝子とは何か? その分子構造は?」という最も有望な分野に進出して、見事に成功を収めた。これは、本項で述べたことの反例になるように思える。
 「ほらみろ。有望な分野に進出したからこそ、大成功を収めたんだ。やっぱり、大成功を収めたければ、有望な分野に進出するべきなんだ」
 と。
 しかし、それは早計というものだ。ワトソンとクリックが成功したのは、有望な分野に進出したからでもないし、彼らに才能があったからでもない。他人の業績を盗んだ(盗み見た)からだ。前に述べた。
  → ノーベル賞を取る方法(STAP細胞の教訓)

 ここでは、「才能のない人がノーベル賞を取る方法」というのを示している。その方法は、一言でいえば、
 「(ノーベル賞級の)他人の業績を盗むこと」
 である。そして、それに見事に成功したのが、ワトソンとクリックなのだ。彼らは、業績を盗むことで、ノーベル賞を獲得し、さらには、「 DNA の発見者」という名誉を受けた。

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 だから、わかるだろう。
 「大成功を収めたければ、有望な分野に進出するべきだ」
 ということはない。DNA の発見は、そういう意見を裏付けする例にはならない。DNA の発見は、むしろ、「他人の業績を盗むと成功する」ということを示しているだけだ。

 本当に大成功をしたければ、やはり、有望な分野に進出するべきではないのだ。前出の「独創的な研究をなす方法」の本庶佑さんも、狙って業績をなし遂げたのではない。きっかけは、ほんの偶然だった。(その偶然のあとは、優秀な知性を働かせたのであって、何から何まで偶然だというわけではないが。)
 本庶佑さんの業績は、「ガンの免疫療法」という分野の主流派の道を通ったのではない。まったく別分野のことをやっていた。そうしたら、偶然の成果が得られて、そこから別ルートを開拓したのだ。その別ルートは、有望と思えたルートではなかったのだ。


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  ────────────

 ともあれ、有望な研究では、研究者が多い。研究が実ったとしても、その成功者が自分である可能性は低い。だったら、そういう分野(有望な分野)には参入しない方が利口だ。どうせ何かを研究するとしても、どのみちはたいていは、他の誰かが通った道なので、やる意義もない。

 ひるがえって、有望でない研究ならば、参入者が少ない。そのほとんどは未開の地だ。とすれば、そこを進むことには意義がある。
 この方針を取ったので有名なのが、青色 LED の中村修二だ。前に言及したので、引用しよう。
 独創的な見解というのは、公開された時点では、まだ主流とはなっていない。
 そこで、まだ主流とはなっていないうちに(つまり公認されていないうちに)ひときわ素早く着目して、そこに手をつければいいのだ。
 中村修二で言えば、赤崎勇の成果に着目して、それを理解すればいいのだ。そのことで、主流派とは異なる、まったく独創的な成果をなすことが可能になりそうだ。
 この際、成功の保証はない。では、それは問題か? いや、成功の保証がないからこそ、ライバルは少ない。それゆえ、独創的な業績を上げることが可能になる。
 中村修二で言えば、赤崎勇の成果(窒化ガリウム)に着目して、その量産化技術を開発すればいい。学界の大部分は、主流派の研究(セレン化亜鉛)にこだわっていたが、そういう主流派に背を向けて、非主流派の風変わりりな研究に着目すればいい。
 そのことで、どうなるか? すでにある新しい理論を理解することで、そこに自分の成果を付け加えることができる。しかも、その成果は、ライバルが少ないから、画期的な大きな成果になりやすい。
( ※ 進化論ふうに言えば、新領域に進出すればいい。その新領域では、ライバルがいないから、領域の大部分を自分のものにすることができる。まったく新しい新種というものは、そういうものだ。)
( → しがらみ (2)

 そして、「他人の通らない道(少数派の道)を取る」というようなことも、高度な総合判断による。たとえば、中村修二が青色LEDの研究で、窒化ガリウムの研究をするか否かは、マニュアルなどによって決めたのではなく、彼の高度な総合判断によって決められた。
 これはとても重要なことだ。
 たいていの凡人は、中村修二のような道を取らない。むしろ、こう思う。
 「大多数の人は、セレン化亜鉛こそ正解だ、と言っている。みんながそう言っているのだから、真実はこちらにあるのだろう。みんなの言うことを信じて、みんなと同じことをしよう。」
 これが普通の人の判断だ。いかにも定型的な判断だ。一方、中村修二は、自己の独自の判断によって、別の道を選んだ。ここでは、あえて危険な道を選んだ。危険な道を。一見、成功する可能性の低そうな道を。
 ここでは、非常に高度な総合判断がなされたことになる。
 とすれば、そういう非常に高度な総合判断をなすための「心構え」こそが重要になる。
( ※ どうするべきかを記した教科書などはないからだ。)

 ──

 では、その心構えとは、どんなものか? それは、「他人の通らない道(少数派の道)をあえて取る」という心構えだ。そのポイントは、次の (1) (2) (3) で示せる。
( → しがらみ (3)

 このあとは、上記項目で、続きを読んでほしい。
 


 【 参考資料 】
 朝日新聞に、オートファジーの大隅良典についての記事がある。これが本項の趣旨に合致するので、該当部分を転載しよう。
 日本で25人目のノーベル賞に輝いたのは、「へそ曲がり」を自認する研究者だった。
 「人がやっていないことをやるのが楽しい。それがサイエンティストの本質だと思う」

 オートファジーの研究も当初は見向きもされなかった。それでも、研究費を得やすく、論文も書きやすい「流行」のテーマに転じようと考えなかった。「人と競争するのは嫌い。だれもやっていない分野でパイオニアとして切り開いていく方が楽しい」。
 大隅さんは受賞決定前、「自分がやっていることが面白いなあと思えることがサイエンスにとって一番大事。オートファジーが流行になってしまって居心地が悪い。私はちょっとへそ曲がりなんです」と話した。
 
 ■高校化学部で
 大隅さんは福岡高時代、成績は常にトップ。化学部の部長として「真面目な部員」ではない一面も。「部室の備品でとんでもない気体をつくって風船を飛ばしたり、謎の飲料をつくったり。大隅君は顧問の言うテーマをやるというより、明るく楽しむのがモットーだった」
 (大隅さんは)30代の頃、渋谷で飲んだ際、「たんぱく質のライフステージを研究したい。学者の8割は合成をやるが、自分は滅びるサイクルをやりたい」と語っていた。得田さんは「へそ曲がりなあんたらしいな」と切り返した。(大隅さんは)「人と同じことをやってもしようがない」と何度も口にしていたという。
( → 朝日新聞 2016-10-04

 他人と同じことをやらない、自称「へそ曲がり」。ノーベル賞学者のほとんどは、このタイプだ。

 ※ 日本では「トンデモ」と批判されることも多いが。
 
posted by 管理人 at 23:46| Comment(3) | 科学トピック | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 最後に 【 参考資料 】 を加筆しました。大隅さんの逸話。
Posted by 管理人 at 2016年10月04日 12:50
どっちかというか国の科学技術政策としては二本立てである必要があるということでしょう。
おおむね、有望でまあモノになるであろう研究にはガッツリお金を投じて堅実に国立研究所にやらせ、バクチの要素が多分にある研究についてはそこそこのお金をつけて大学の研究室にやらせるという。
30年くらい前の日本だと、同じ分野の研究を行うのに、国立研究所は大学の研究室の10倍くらいの予算をもらえるかわり、ガチガチに方針が縛られしまう一方、大学の研究室はそれこそビーカーのかわりにワンカップ大関の空き瓶を使うかもしれないけど、PIである教授らの自由な着想にもとづき、自由な研究が認められていました。それで仮に成果が出ないとしても教授らの身分は安泰で最低限の講座運営費は保障されていました。
Posted by とおりがかり at 2016年10月04日 13:54
「有望な研究はやるな」「独創的な研究をなす方法」
興味をそそる、面白い記事を2つ読ませていただきました。

表題は、ノーベル賞の季節に合わせて、画期的で、高く評価される研究をするにはどうしたらいいかを、逆説的に言い表したものだと思われます。ただ、研究が「有望」であるかどうか、「画期的」であるかどうかは、あらかじめ分かるものではないのが悩ましいところなのでしょう。

大隅氏の「オートファジー」のノーベル賞受賞は、いろいろな意味で慶賀すべき事だと思います。最近やや「世俗化」の感があったノーベル賞が、本来の?基礎研究を重視した選定だったように思いす。

大隅氏が「成功」した背景には、真核細胞のもっとも単純な実験材料として、酵母細胞が分子生物学者に広く受け入れられていたことも、忘れてはならない点だと思いいます。独創的な研究の種、有望な研究の種は、どこにでも転がっている・・・。

では、その種を拾う「科学者」とは一体何ものか。私は日頃、ゲーテの戯曲「ファウスト」の中で、錬金術師?ファウストが、苦悶の中で発する次ぎの問いが、科学者の原点だろうと考えています。
「一体この世界を奥の奥で統べているのは何か。それが知りたい。」(森林太郎訳)

Posted by Nekogu at 2016年10月05日 08:09
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