2016年08月13日

◆ 探し物はどこにあるか?

 あるはずのところに見つからない。いくら探しても見つからない。では、どこにあるのか?

 ──

 いきなり、答えを言おう。探し物は、ここにある。
   

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 「探していないところ」


 いくら探しても見つからないとしたら、それは、探していないところにあるのだ。

 ──

 こう聞くと、「ふざけるな! 当り前だろ!」と思うかもしれない。しかし、当り前ではない。そのことは、前項の例を見ればわかる。
  ・ 阿蘇大橋の不明学生 …… 下流 400メートルの場所
  ・ 北海道 の不明男児 …… 自衛隊の演習場


 このいずれも、自治体の総力を上げて徹底的に探したが、どうしても見つからなかった。では、どうしてか? 探していないところにひそんでいたからだ。
 つまり、探しているものは、探していないところにあったのだ。
 かくて、冒頭の結論は正当化される。

 ── 

 狐につままれたように感じる人も多いだろうから、さらに説明する。
 探し物がいくら探しても見つからないとしたら、なぜか? それは、人々が「ないところ」ばかりを探しているからだ。あるところを探せばいいのに、「ないところ」ばかりをしきりに探している。
  ・ 阿蘇大橋の場合には、土中ばかりを探していた。
  ・ 北海道の場合には、はぐれた地点の近辺ばかりを探していた。

 いずれにしても、「ないところ」ばかりを探していた。それでも見つからないから、「徹底的に人力を投入する」という対策を取ったが、いくら人力を投入したところで、「ないところ」をいくら探しても、見つかるはずがないのだ。

 要するに、「探しても見つからない」というのは、人々が思っているように「探し方が悪い」のではない。「探すべき場所を間違えているから」なのだ。
 なのに、人々は、「探し方が悪い」と思って、人力や労力を多大に投入する。同じところを何度も何度も、ていねいに探索する。しかし、そんなことをいくらやっても、見つかるはずがないのだ。なぜなら、そこは「ないところ」なのだから。「ないところ」をいくら努力して探しても、ただの無駄なのである。

 ──

 では、どうすればいいか? 「あるところ」を探せばいい。
 しかしながら、当然のことに、「あるところ」というのは、すでに探したはずである。ではなぜ、「あるところ」を探さないのか? 

 答えを言おう。そのことは、前項からもわかる。
 「そんなところにあるはずがない、と思い込んでいるから」

 または、こうだ。
 「まさかそこにはあるとは思えない、というふうに、副次的な場所だから」

 または、こうだ。
 「そこは、思考の盲点だから」


 人々は、探すときに、「あるはずのところ」というのを、一定範囲に定める。そして、その範囲内をしきりに探す。しかし、その範囲内は、すでに十分に探したのだ。見つかるならば、とっくに見つかっているはずだ。
 なのに、まだ見つからない。としたら、対象物は、すでに探した範囲内とは別のところにあるのだ。

 ──

 では、別のところとは? これについては、前に次のように述べた。
 「あるべきところの、ちょっと脇の、見えないところ」
( → 探し物はどこにある? : nando ブログ

 「見えないところ」というのは、文字通り目に見えないところであることも多い。さらに引用しよう。
 少しぐらいズレてしまったとしても、普通ならば、見えるはずだし、見つかるはずだ。なのに、見つからない。それは、探し物が「見えないところ」に隠れてしまっているからだ。何かの隙間にあるとか。隙間を通じて、下の方に落ちてしまったとか。
 こういうふうに、
 「脇にある隙間を通じて、下の方に落ちてしまったので、見えないので、見つからない」
 という場合が、非常に多い。

 こういう例のような形で、「見えないところ」にひそんでいることが多い。
 その援用として、「袋に入っているせいで見えない」というようなこともある。

 さらには、「見ても見えないところ」、つまり「目には見えるが頭には見えないところ」、つまり「思考の盲点」にあることもある。
 阿蘇大橋や北海道の例は、これに当たりそうだ。まったく範囲外にあったのだ。そこは、探そうと思えば簡単に探すことができて、あっという間に見つけることができるのだが、探そうとしなかったので、見つけることができなかった。

 ではなぜ、探そうとしなかったのか? 「そんな遠いところにあるはずがない」と思ったからだ。ここでは、「探し物が勝手に移動する」または「移動させられてしまう」ということを失念しているわけだ。
 北海道の例では、子供は屈強の体力を持つ子供だった。阿蘇大橋の例では、自動車は水によって大幅に流されてしまった。「まさかそんなことはあるまい」と思っていたのだろうが、その「まさか」が現実に起こったのだ。
 ここでは、思想の範囲の狭さが根本的な欠陥だった。常識的な思考にとらわれていたせいで、特別な事象に対応できなかったのである。

 ──

 いずれにせよ、「探し物はどこにあるか?」という話題から、人々の発想の狭さというものがよくわかる。
 人々が真実を見出せないとしたら、人々が過去を引きずった固定観念にとらわれているからなのだ。そして、人々が固定観念から自由になったとき、人々は真相にたどり着く。

( ※ そういう教訓が、阿蘇大橋や北海道における失敗例から得られる。)



 【 関連項目 】

  → 阿蘇大橋の不明学生 (前項)
  → 不明男児 発見 の教訓

  → 探し物はどこにある? : nando ブログ
posted by 管理人 at 12:02| Comment(2) | 一般(雑学)4 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
井上陽水さんの言うとおりですね
Posted by 先生 at 2016年08月13日 12:32
話が卑近になってしまいますが、
探し物が地面に落ちているというのは自分の経験でもよくある話です。

例えば、財布にしまうために免許証をこの部屋に持ってきたはずなのに見当たらないというケースにおいて、
私の経験則では、以下の4パターンの順で確率が高いです

1.床に落ちている
2.棚など高いところに置いてあり、目に映らない
3.本の下や引き出しの中にあり、目に映らない
4.既に財布に中にあり(さらには財布が鞄の中にある場合もあります)、目に映らない

いずれにしても死角にあることが問題であり、
特に4.は心理的な面が大きいです
Posted by いきがけのななし at 2016年08月14日 00:31
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