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相模原の事件で、殺人者の意図を「思想」として認識する観点がある。
具体的には、「障害者排除」という「思想」を見出そうとする。
障害者施設で介護職員として働いていた犯人が、身内でもない障害者に対して存在価値を認めないと思い詰め、その思想と具体的な犯行計画を記した手紙を衆議院議長公邸に送るほどであったならば、これはもう完全なる思想犯に類するものであろうと思うわけです。
( → 【やまもといちろう氏 特別寄稿】 )
「重複障害者は生きていても意味がないので、安楽死にすればいい」。多くの障害者を惨殺した容疑者は、こう供述したという。
これで連想したのは、「ナチス、ヒトラーによる優生思想に基づく障害者抹殺」という歴史的残虐行為である。
障害者の生存を軽視・否定する思想とは、すなわち障害の有無にかかわらず、すべての人の生存を軽視・否定する思想なのである。私たちの社会の底流に、こうした思想を生み出す要因はないか、真剣に考えたい。
( → 相模原殺傷:尊厳否定「二重の殺人」全盲・全ろう東大教授 - 毎日新聞 )
今回のは 害虫駆除(とても不謹慎な言い方ですみません)のノリだと思います
( → 本サイト:前項のコメント欄 )
こういうふうに「障害者排除」という思想を見出すことは、予想されたことである。それというのも、本人がそういうふうに述べているからだ。
衆院議長公邸に出した文書の原文が、下記にある。
→ 植松容疑者が書いた手紙(全文)
ここでは確かに、その種の「思想」が見て取れる。では、それを額面通りに受け止めていいか?
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書いてあるのだから書いてある通りに受け止める……というのは、素朴な発想であるが、あまりにも単細胞すぎる。
一般に、犯罪をなした犯罪者は、自己の行為を正当化するために、あれやこれやと言葉を弄する。それらの言葉を、まともに額面通りに受け止めるのは、おめでたすぎるというものだ。
たとえば、強姦した犯人が、「女が色目で誘ったから」と供述したからといって、その言葉を信じていいか? まさか。
同様に、殺人をなした犯人が、「社会を是正するため」と供述したからといって、その言葉を信じていいか? まさか。
殺人者がどれほど自己正当化のための言葉を弄したからといって、それをそのまま信じてはいけない。当り前だ。
これと似たことは、すでに「罪と罰」という小説で扱われている。有名な話だ。主人公は殺人を正当化する理屈を持ち出す。以下、読書感想文から。
「もしおのれの思想のために、死骸や血潮を踏み越えねばならぬような場合には、彼らは自己の内部において、良心の判断によって、血潮を踏み越える許可を自ら与えることができると思います――」
『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフはナポレオン主義思想の持ち主だった。ナポレオン主義とは、「ある高邁な目的のためには手段は問われず、行為は歴史により正当化される」という考えだ。そしてまた、人間はルールに従うだけの凡人と、それを書きかえる天才の二種類がいるという選民思想の持ち主でもあった。
物語の序盤でラスコーリニコフは金貸しの老婆を殺害する。殺害の動機は金品を奪うことであり、ごく一般的な強盗の動機に見える。しかし、どうやら動機は単にそれだけではないと分かるのが、ラスコーリニコフと彼を疑う判事ポルフィーリィが会話する場面であり、上記の台詞である。
( → 『ラスコーリニコフは何故凶行に至ったか』 )
ここでは「天才が凡人を殺してもいい」という理屈になっている。
これとちょっと違うのが、「身障者は殺されてしかるべきだ」という、今回の犯人の理屈だ。
両者は、ちょっとは違うが、根本的には同じ思想だと見ていいだろう。
だから、今回の犯人に、ある種の「思想」を見出すのは、不自然ではない。
とはいえ、ラスコーリニコフも同様で、彼の薄っぺらな思想は、たちまち崩壊してしまう。それは小説を読めばわかる。
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すでに述べたように、犯罪者の言葉を額面通りに受け止めるべきではない。では、正しくは、どう受け止めるべきか?
それには、彼の手紙の文章をよく読むとわかる。こういう文章がある。
作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。
逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。
新しい名前(●●●●)、本籍、運転免許証等の生活に必要な書類、美容整形による一般社会への擬態。
金銭的支援5億円。
これらを確約して頂ければと考えております。
( → ニュース速報Japan )
5億円という金を要求している。社会是正もへったくれもない。ただの「金寄越せ」だ。いやしいね。
しかも、である。この要求が本当の意味の要求であるなら、まだ良かった。もしそうであるなら、「要求が叶えられないから、実行はしません」というふうになるからだ。
どんな商売であれ、代金を受け取らないで仕事を実行するはずがない。無料で仕事をしていたら、干上がってしまう。だから、彼が本当に金を要求していたのであれば、金を得られないがゆえに実行しなかったはずなのだ。
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しかし実際には、彼は、金を受け取らずに実行した。
とすれば、彼が手紙で書いたことは、すべて嘘なのである。そう見抜くことが大切だ。いかにも「社会のため」という思想性があるように見えるが、それは金を得るという目的のための算段であったし、しかも、その「金を得るため」という目的自体が空虚な虚構であった。
では、思想性は嘘であり、金銭目的は虚構であったとしたら、真相は何か?
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ここまで理解すれば、真相がわかる。彼の目的は、殺人そのものだったのだ。「社会是正」という思想的な目的は嘘であり、「5億円」という金銭的な目的は虚構だった。そして、偽りがすべて消えたあとに残るのは、殺人という行為だけだ。これこそが、真の目的だった。
彼が殺人をしたのは、他の何かのためではなく、殺人のために殺人をしたのだ。簡単に言えば、「殺したいから殺した」だけなのだ。これが真相だ。
そして、このことは、前項で「殺人愛好者」というふうに説明したとおりだ。
では、「殺人愛好」とは何か?
すぐ上では、「殺したいから殺した」だけだ、と示した。
前項では、「精神異常の一種」「脳の異常。特に前頭前野の異常」というふうに説明した。
一方、ここで、新たな観点から認識できる。それは、「多重人格」という観点だ。
そもそも、「殺したいから殺した」というのは、普通は成立しない。「殺したくても殺さない」というのが普通だ。なのに、そうならないとしたら、頭のタガがはずれていることになる。
要するに、自分で自分を制御できない状態である。
自分で自分を制御できないこと。これが、殺人愛好者の本質であろう。殺人をしたいことよりも、殺人をしたいときに、それを抑止できないことが本質だ。自分で自分を抑止できないというのは、つまりは、自分で自分を制御できないということだ。
そして、これは、「自分のなかに制御できないもう一人の自分を飼っている」というようなものだ。
これはちょうど、「多重人格」という症状に似ている。
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ここで、多重人格の方に話を飛ばそう。
多重人格というと、24人のビリー・ミリガンというノンフィクションが有名だ。
ここでは、人格がたくさんあることが話題になっている。しかし、もう一つ、特筆すべき点がある。
「多重人格の人は、そのうちの一部に、殺人犯や強姦魔などの重犯罪者を含むことが多い」
ということだ。
ここでは、強い犯罪意欲とともに、その犯罪者を抑止できないという無制御状態が露見している。
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これらのことからわかるように、次の三つは強い関連性がある。
・ 殺人愛好(または強姦などの重い犯罪)
・ 自分で制御できない状態
・ 多重人格
そして、これらのすべては、脳の異常ということから来る。特に、前頭前野の異常から来る面が大きい。
結局、今回のような犯罪は、「正常な人間の異常な思想」というような観点で理解するべきではない。「脳の一部が壊れた人間における、脳が制御不能になった状態」というふうに見なすべきだ。そこでは、人格の不統一もいくらかは見られるかもしれない。
そして、この観点からとらえるには、前項における殺人愛好者の例(殺人の例)と参照することで、いっそうよく認識できるだろう。
【 関連項目 】
→ 殺人愛好者による殺人 (前項)
【 追記 】
これがいわゆる政治的な「思想犯」とは違うことは、簡単に証明できる。
それは、彼が「自首した」ということだ。
政治的な「思想犯」ならば、自分が捕まらないように、いろいろと工夫するはずだ。自己破壊をしてまで思想を実現するのでは、本末転倒だからだ。
しかるに、この犯人は、自分が捕まらないための工夫をまったくしていない。自分の顔を知っている施設で、自分の顔を知っている人に顔をさらして、相手(職員)を縛るだけで生かしたままにしている。必ず自分が逮捕されるとわかっている。その上で自首している。逃げようとする要素は皆無だ。
つまり、彼は最初から自分が死刑になることをわきまえて、間違いなく死刑になるように用意をととのえた上で、犯行を実施している。……要するに、すべては、他者破壊行為であると同時に、自己破壊行為でもあるのだ。一種の自殺行為だ。
このことゆえ、いわゆる政治的な「思想犯」とは違うとわかる。むしろ、自己を破滅させるとわかっていながら、自分で自分を止められなかった、というふうに認識するべきだ。
( ※ 彼がいろいろと思想みたいなものを書いているのは、「盗人にも三分の理」みたいなものだ。自分が正しいと自分自身に納得させるために、理屈にもならない理屈を持ち出す。それが世間的に受け入れられる可能性は皆無だとわかっていながら、あえて奇妙な理屈を持ち出す。……こういう理屈なのだから、その理屈を、まともに受け取るべきではあるまい。世間に支持されないと自分でもわかっている、奇妙な理屈だ。それを、他人が「まともな理屈だ」と思うのであれば、その他人は、狂気の犯人よりももっと分別がない、ということになるね。犯人ですらわかっていることがわからないのだから。)
要するに、犯人は、「障害者は死ぬべきだ」と思ったから殺人をしたのではない。「殺人をしたい」と思ったから、その名分として、「障害者は死ぬべきだ」という屁理屈を持ち出しただけだ。
ここでは、論理が倒錯している。理屈ゆえに行動があるのではなく、行動のために理屈をこねるだけだ。……そして、そこを逆に理解すると、思想犯のように見える。
「こいつは狂人だから、こういうことをした」
と見なせば、事実に基づいた、正しい認識となる。
「こいつは正常な人間だから、思想に基づく行動ををした」
と見なせば、事実に反すること(= 正常な人間だ)から、誤った認識が出る。前提が間違っていれば、結論も間違いになる、という例だ。
殺しています。
やはり、ある種の悪魔的な思想犯ととらえるべきではないでしょうか?
彼なりの理屈でしょう。彼にしてみれば、それが正しい。そういうふうに思う変人がいてもおかしくはない。
悪魔的な思想じゃなくて、病的な思い込みでしょう。
あと、最後に 【 追記 】 を加筆しておきました。
松陰の信念…江戸幕府という最強の権威に立ち向かった
加害者の信念…障害者という、「自分より弱い物」に襲い掛かった…
私は、前者のほうを信用します。
どちらかと言えば、ワシントンと桜の木、という話に近い。