判決の要旨はこうだ。
裁判長は「名字が改められることで、アイデンティティが失われるという見方もあるが、旧姓の通称使用で緩和されており、憲法に違反しない」と指摘しました。そのうえで、「夫婦別姓については国会で論じられるべきである」と述べました。
( → NHKニュース 2015-12-16 )
判決は、「結婚の際に氏の変更を強制されない自由」は憲法で保障された人格権にあたるとは言えないと指摘。夫婦が同じ名字を名乗ることは社会に定着しており、「家族の呼称を一つに定めることは合理性が認められる」と判断した。
さらに……旧姓の通称使用が広まることにより一定程度緩和される、と指摘。夫婦同姓が憲法の定める「個人の尊厳」や「男女平等」に照らし、合理性を欠くとは認められないと結論づけた。
( → 朝日新聞 2015-12-16 )
この判決について、どう考えるか? 私の考えを言えば、こうだ。
「夫婦別姓を認めないのは、原理的には違憲だが、違憲だとする論拠を間違えたので、原告が敗訴した」
要するに、原告の立場は正しいのだが、主張する論拠が間違っていたので、論理的には合憲とするしかなかった。
──
具体的に言おう。
「夫婦別姓を認めないのは、原理的には合憲」
というのが判決だが、その根拠は、記事にもある通り、次のことだ。
「結婚の際に氏の変更を強制されない自由は認められていない」
つまり、このような自由があると主張した原告の主張は間違っている、と判断したわけだ。これはこれで妥当であろう。おかしくない。
私としても、「結婚の際に氏の変更を強制されない自由」なんてものがもともと存在していたとは思えない。ゆえに、これを論拠とする限り、原告の主張が却下されるのは当然だ。(法理論的に。)
では、夫婦別姓は認められなくてもいいか? いや、そうではない。ただし、その論拠は、別に必要だ。それは何か? こうだ。
「夫婦別姓を選択している人に、結婚する自由を認めるべきだ」
現状では、認められていない。夫婦別姓を選択している人は、結婚する自由がないので、事実婚を選ぶしかない。そうなると、社会保障や、法律資格や、その他の点で、いろいろと不都合がある。つまり、法的に差別されている。
ここでは、次の二点が問題となっている。
・ 思想信条の自由
・ 結婚する権利について 思想信条によって差別する
(ある種の思想の人には 結婚する権利を認めない)
このような法的な差別を許容していいか、ということが問題となるのだ。ここを論点とすれば、最高裁は違憲判決を下したはずだ。しかしながら、原告は、ここを論点としなかった。だから最高裁は合憲判決を下したのだ。
結局、原告の法的な論拠がまずかったから、原告は負けた、と言える。
──
なお、二つの論拠はどう違うかというと、端的には、次の差だ。
・ 結婚を前提とした上で、別姓を選択する自由。
・ 別姓を前提とした上で、結婚を選択する自由。
もしこれらの自由が認められたら、どうなるか? 前者と後者で分けて考えよう。
前者の場合には、すでに結婚した人にも効力が及ぶ。結婚した人が、今後も別姓になることを認める。(この権利は最高裁に否定された。)
後者の場合には、いまだ結婚(法律婚)していない人だけに効力が及ぶ。現在では未婚または事実婚についてのみ、別姓を保ったまま結婚する権利を新たに与える。(この権利は最高裁では言及されていない。原告が主張しなかったからだ。しかし、認められるのが当然だ。)
──
ともあれ、現状では、夫婦別姓論者には、結婚する権利は与えられていない。「おまえたちには結婚する権利は与えてやらない」というふうに差別されている。その結果、今回の原告のように、事実婚をし続けるしかない。
結婚した夫婦の姓をどちらかに合わせる「夫婦同姓」を定めた民法の規定は憲法違反だとして、東京都内の事実婚の夫婦ら5人が国に損害賠償を求めた訴訟
( → 朝日新聞 )
この人たちは法的に差別され続けるしかない。なぜなら、「差別するな」という主張をしなかったからだ。かわりに「すでに結婚した人たちの姓を変える権利を認めよ」というふうに主張したからだ。(そのつもりはなくても、そのような趣旨の主張をしてしまった。)
基本的には正しいことを言っていても、法的な論拠が狂っていれば裁判では負ける、という見本だろう。「馬鹿の見本」「無知の見本」「素人の見本」と言ってもいいが。
( ※ まともな弁護士を使わなかったから、法的に負けたわけだ。いわば不戦敗。出場する試合を間違えて不戦敗になったようなものだ。間抜けとしか言いようがない。)
[ 付記 ]
NHK の記事から参考情報を引用しよう。
夫婦の名字について、海外では欧米を中心に、多くの国で別々の名字を選ぶことが認められています。
海外の婚姻制度に詳しい専門家によりますと、アメリカやイギリスなど欧米を中心に、多くの国では夫婦が同じ名字にするか別々の名字にするかを選ぶことができます。また、その中には、夫婦の一方が結婚前の名字を併記したり夫の名字と妻の名字を組み合わせたりする「複合姓」を認めている国も少なくないということです。
かつては別姓を認めない国もあり、ドイツでは、夫婦のどちらかの名字を選び、どちらか決まらない場合は、夫の名字にするように定められていましたが、女性差別だとして1990年代に見直されました。
一方、同姓を義務づけている国は限られているとみられ、日本政府はことし10月、国会議員の質問に対する答弁書で、「現在把握している限り、法律で夫婦の名字を同じにするよう義務づけている国は、日本のほかには承知していない」と回答しています。
( → 夫婦別姓認めない規定 合憲の初判断 最高裁 NHKニュース )
これが世界の常識だ。まともに法的論拠を立てれば、原告は勝てたはずだ。「世界で日本だけで成立している法的差別」などは、成立するはずがないからだ。
原告は「私たちにも結婚する法的権利を」と求めればよかった。なのに、「結婚した人に別姓にする権利を」なんていうトンチンカンなことを主張したから、最高裁は合憲判決を下すしかなかったのだ。
【 関連サイト 】
公務員の通性使用はすでに認められている。
→ http://www.kaigamori.com/bessei/info/koumukyuu.html
NHKのアナウンサーも同様で、通性使用が普通だ。例外は久能木/黒田/渡辺 あゆみ ぐらいだ。
→ http://j.mp/1YfW8M0
ただし、大学教員では、法律名を使うことが強要されるので困る……という話も、ときたま聞く。
「後者」だと原告は訴訟に勝っても得るものはない。くたびれ損。目先の利益に捉われてしまった。
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/546/085546_hanrei.pdf
長文ですが、とりあえずは、11頁の冒頭まで読めば足ります。それ以降は各裁判官の個別意見にすぎません。
既婚者の人も一部にいるらしいが、他は未婚(事実婚)の人です。本文中の引用で「事実婚の夫婦」と赤字で示しているとおり。しかしながら、
> 原告が既婚者だから「前者」を主張したんでしょう。
ということは、部分的に成立しそうですね。
既婚者が一部に含まれているせいで、前者を主張する《 だけ 》だったのかも。戦術ミス。
既婚者を救おうとした結果、全員が救われない結果となった。一人乗りのボートに二人が乗ったせいで全員が沈没、というようなもの。
↓判決要旨(朝日新聞)
【憲法24条との関係】
仮に、法制度の内容が意に沿わないところがあるという理由で、婚姻をしないことを選んだ者がいるとしても、直ちに、法律が「婚姻は当事者間の自由かつ平等な意思決定にゆだねられるべきだ」とする憲法24条1項の趣旨に沿わない制約を課したとはいえない。
別姓主義のため事実婚を強いられてる人たちが結婚できなくても憲法違反じゃないよ、と言っているような気がしますね。
どっちを論拠にしても最高裁は腰が引けて違憲と言えなかったのでしょう。困ったものです(^^;
→夫婦(法律上の夫婦となるために、婚姻届を提出した夫婦)が別姓を選択することが、人格権と認められない。
このように解釈し、管理人さんの言う「別姓を前提とした上で、結婚を選択する自由」が認められていないように考えます。
原告が「夫婦別姓主義の考えの私たちにも結婚する法的権利を」と求めていたとしても、今回の判決が変ったとは言えないと思います。
そうかもしれないけど、少なくとも主張しない限りは、主張が認められることはない。
「どうせ主張が認められるはずがないから、主張しない」というのであれば、裁判を始める意味がない。したがって私の見解に反対するのであれば、
「今回の判決が変ったとは言えないと思います」
というのでは不足であり、
「今回の判決が変ることは絶対にあり得ない」
と 100%断言しなくては。
100%断言できるのでなければ、「その主張をするべきだった」となるので、「主張しても仕方ないから主張しない」という敗北主義が正しいことにはなりません。
あとね。論理的に言っても、「すでに結婚した人も含めての別姓の自由」と「まだ結婚していない人だけの別姓の自由」では、適用の範囲が異なります。前者は後者よりも範囲が広い。前者が認められないからと言って後者まで認められないとは言えない。
端的に言えば、今の自分たちの家庭で別姓が保たれていればいいのであって、若い人たちの別姓の自由を制限するほど干渉する必然性があるとは思えない。ここをきちんと区別すれば、違う判決が出た可能性は十分にある。
本項で言いたいことは、「こうすれば必ず裁判で勝てた」ということではありません。「こうすれば裁判で勝てたかもしれないのに、こうしなかったということは戦術ミスだ」ということです。裁判で勝てたかどうかは二の次であり、主張するべきことを主張しなかったことが批判されています。「たぶん勝てなかっただろう」というのはただの憶測であり、意味がありません。「核心となる点を主張するべきだったかどうか」が本項の論点です。
>現在では未婚または事実婚についてのみ、別姓を保ったまま結婚する権利を新たに与える。(この権利は最高裁では言及されていない。原告が主張しなかったからだ。しかし、認められるのが当然だ。)
>まともに法的論拠を立てれば、原告は勝てたはずだ。「世界で日本だけで成立している法的差別」などは、成立するはずがないからだ。
と書いているんだから、管理人さんの見解は「こうすれば確実に勝てるはず」でしょ? まともに読めばそう受け止めます。
で、それに対して「いや、それはちょっと無理なんじゃないかな」という指摘が出るのは別におかしくない(判決要旨を読めばそうなる) かと。最高裁の多数意見は「世界で日本だけで成立している法的差別」を許容している(判決要旨)ようだし(; ̄ェ ̄)
>私の見解に反対するのであれば、
「今回の判決が変ったとは言えないと思います」
というのでは不足であり、
「今回の判決が変ることは絶対にあり得ない」
と 100%断言しなくては。
コメントする立場として、100%断言する必要なんてないと思いますね。
管理人さんの「こうすれば勝てたはずだ」について「そうしても勝てそうもない」という見解を対置すれば、それは十分意味があるコメント。賛成・反対の二分法に持ち込むのもどうかと思いますね。理系の悪いところだ(笑)
ま、私は100%断言してもいいですがね(笑)少なくとも今回の裁判官が変わらない限り。理由はすでに書いたとおり。まったく困ったもんです(^^;
「勝てるはずだ」と書いたとしても、勝つか負けるかという予想が本項の目的ではなく、「主張すべきだった」がメインであり、その論拠の一つとして「勝てるはずだった」があっただけです。ここで「勝てるはずだった」を「勝てそうだ」「勝てるかも」と書いても、文意はまったく同じです。
> 「こうすれば勝てたはずだ」について「そうしても勝てそうもない」という見解を対置すれば
予想の当たる度合いは本項の文意とは関係ありません。ギャンブルでオッズを出しているわけじゃない。本項の趣旨とはまったく別の話題で、枝葉末節の表現を述べているだです。
だいたい、「勝てそう」か「勝てない」かは、完全に個人の主観によるので、そんな主観について論じても、ただの水掛け論。
本項の主題は、個人の主観のどれが正しいか、ではありません。そんな予想の当否みたいなことを話題にしたければ、賭け屋とやり合ってください。
本項のテーマは、「こう主張すべきだった」という点だけです。ギャンブルは話題になっていない。
ただ、本文ではとてもそうは読めない。「勝てたはずだ」も主題の一つに見える。だからコメントも軒並みそうなるわけで、それならそうと最初からわかりやすく書いたらどうですか、ってだけのことです。後からいろいろ言い訳するからすり替えに見える。
百歩譲って、文章が意図通り伝わらないのは誰だってあることだから、後から主題をはっきりさせる意味で補足するのはよしとしましょう。しかし、ishiさんの言ってもいないことを
>「主張しても仕方ないから主張しない」という敗北主義
と決めつけたり、
>賭け屋とやり合ってください。
などというのは明らかに礼を失してますよ。罵声の領域。歯に衣着せず書く、って言葉を勘違いしてませんか?
コメント欄を用意してまともなコメントを期待するなら、まともな態度で臨むべきではないですかね? もったいないですよ(^^)
この部分については、全面的に賛成します。
>コメント欄を用意してまともなコメントを期待するなら、まともな態度で臨むべきではないですかね? もったいないですよ(^^)
管理人さんは、目の付け所がいいのですが、他人と少しでも意見の相違があると、それを受け入れられないようです。本当にもったいないですよね。
別に受けれられないわけじゃないですよ。各人の主観があるから、勝手にそう思っていればいい、というだけ。否定はしていません。
私が言っているのは、そんなことは論じている暇がない、というだけ。主題とは別のことでいちいち論じていたら、私の時間がなくなる。だからノーコメント、というだけです。
勝手に枝葉末節な点で突っ込んできて、ノーコメントがけしからん、という人は、本サイトで書き込まないでください。私は暇人じゃないので、いちいち対応できません。当方、ただ今、すごく忙しいのでね。ゴミみたいな議論ではお返事できません、というだけ。
とにかく、今は忙しいし、体調も良くないので、時間が足りなくて困っているんです。