ノーベル賞(医学生理学賞)を受賞した大村智は、何億人もの人間を救った、と言われる。次のような報道がある。
→ 化学者、2億人を救う。「元高校教師」が生み出した薬
→ ノーベル賞:大村氏に医学生理学賞 毎年3億人を救う
→ 大村智氏に称賛の嵐 抗生物質「エバーメクチン」の発見で10億人を救う
ここでは、計算の仕方がちょっとおかしい、とも言える。確かに薬剤は何億人にも与えられたが、実際に発症する人はその全員ではなくて、一部である。だから、「救われた人」の数を数えるのなら、その分だけを数える方が妥当だ。
そういう数え方もある。
かつてアフリカでは毎年5万人以上が失明していたが、発見した抗生物質は失明原因となる寄生虫の増殖を抑え感染症の拡大を防いだ。
( → 日刊工業新聞 )
毎年4万人の失明を防いでいるという。
( → 朝日新聞 )
アフリカなどで流行しているオンコセルカ症の予防薬としてこれまでに4000万人を感染から守り、失明を避けられた人は60万人に上る。
( → NHKニュース )
つまり、毎年 4〜5万人で、これまでの総数で 60万人。それが実際に救われた、と見なせる数だ。
とはいえ、その数万人が誰であるかはわからないのだし、誰もがそうなる可能性があったわけだから、「何億人も救われた」という計算の仕方も、あながち間違っているわけではない。数え方が違うだけだ。(言葉の定義の問題にすぎない。)
だから、ここでは、そのことは特に問わないことにしよう。
──
問題は、次のことだ。
「この薬は、メルク社によって無償供与されている」
イベルメクチンが、アフリカや中南米で広がる人間の熱帯病「河川盲目症」にも効くことがわかった。ブユにかまれ、体内にフィラリア線虫の幼虫が入り込む病気。激しいかゆみを起こし、失明につながる。感染者は推定2千万人。メルクは人間用の抗寄生虫薬「メクチザン」を開発、87年に無償提供を始めた。世界保健機関(WHO)は95年、これを使う新たな制圧プログラムをアフリカで始めた。
( → 朝日新聞 )
つまり、メルク社が何億人もの人々に無償供与したからこそ、この薬は何億人もの人々を救ったのだ。仮に、メルク社が「有償販売します」と言っていたら、これほどにも大量には投与されなかっただろうし、数億人もの人々が救われたということにもならなかっただろう。
つまり、ここでは、数億人もの人々が救われたのは、薬のおかげというよりは、メルク社の無償供与のおかげだったのだ。
──
ではなぜ、メルク社は無償供与したか? 理由は二つある。
(1)
第1に、人間には無償供与しても、動物には有償販売することで、たっぷりと利益を上げることができたからだ。
エバーメクチンを改良して効果を高めた「イベルメクチン」は、昭和56年に牛や豚など、家畜の寄生虫の駆除剤として販売され、世界で年間1000億円を売り上げるヒット商品になりました。
( → NHKニュース )
この中でメルク社との共同研究によって発見したアベルメクチン(イベルメクチン)は動物薬として1983 年から今日まで世界の売り上げ第1位をキープし、ピーク時には年間の総売上が約1,000億円、1981 年から今日までは1 兆8,000 億円ほどとなる。
( → 産学連携ジャーナル )
これほどの利益を上げることができたからこそ、人間への無償供与は可能となった。とはいえ、その額は決して小さくない。
メルク社は、この無償供与したイベルメクチンの製造原価を3,750 億円と発表している
( → 産学連携ジャーナル )
これほど巨額の薬を無償供与するということは、常識的に言ってあり得ない。そんなことをしている企業は、他にないはずだ。
ちなみに、アップルの四半期の利益は 100億ドル程度。
→ 米アップルの4〜6月、純利益38%増
年間で 400億ドル程度(4兆円弱)の利益が上がっている。ここからどれだけの社会貢献をしているかは知らないが、微々たる額だろう。10年間で 4000億円ほどを寄付しているとは思えない。ちなみに、次の記事がある。
欧米企業は社会貢献をひけらかすのが主流と思いきや、黙って社会に貢献し、それが思わぬ所から公になった時に、何とも言えない照れを見せる日本的メンタリティを持った企業もあるじゃないか! そして、Jony Iveは、Appleが(Red)の証を表示しないことや、寄付金額を公表しないことに対して、とてもシャイに受け答えしていた。
──
Appleの「(PRODUCT)RED」って累計75億円(!)と言われています。
( → AppleのCSRは )
Apple は累計75億円もの寄付をしているんですよ、すごいですねえ、という趣旨の記事。まあ、すごいのかもしれないが、年間4兆円もの利益を上げる企業だ。75億円は微々たる額に過ぎまい。
これに比較すると、メルクの 3,750 億円という金額が、いかに途轍もない金額であるかわかる。
ではなぜ、メルクは無謀なほどの寄付をするのか? それには理由がある。
(2)
第2の理由は、高い理想だ。社会貢献意識といってもいい。メルクは、利益を上げることを目的とした企業ではなく、薬を通じて人類に貢献することを目的とした企業だ。(その意味で株主のためにある普通の企業とは異なる。)
このことは、あちこちの資料で確認できた。
「当社の成功とは、病気に打ち勝ち、人類を助けることを意味する。この点を忘れてはならない」
こうした理想があることを考えれば、メルクが「糸状虫症」治療薬「メクチザン」を開発し、無料で提供したのも、驚くことではない。糸状虫症とは、第三世界で百万人を超える人々がかかっている病気で、寄生虫が体内に入り込み、最後には目を侵して失明をもたらす。百万人の患者がいれば、市場規模はかなり大きいと思えるが、薬を買えないほど貧しい人たちだ。メルクは、このプロジェクトが、収益を生むとしても、大きな収益は期待できないとわかっていながら、新薬が完成すれば、どこかの政府機関か非営利団体が買い上げて患者に提供すると期待して、プロジェクトを進めた。しかし、この期待は外れ、メルクは薬を必要としているすべての患者に無料で提供することにした。また、薬を自らの手で、それも自費で配布し、糸状虫症に侵されて危険な状態にある百万人の患者に薬が確実に届くようにした。
メルクがこの決定を下した理由を聞かれたとき、パジェロスCEOは、このプロジェクトを進めなかったら、メルクの科学者、「人々の生命を維持し、生活を改善する仕事をしている」と自負する企業で働く科学者の士気が下がっただろうと指摘している。
( → メルクの治療薬「メクチザン」:孫引き )
メルクは1987年、ついに企業として大英断を下しました。なんと、薬を自らの手で、それも自費で無料配布し、糸状虫症に侵されて危険な状態にある百万人の患者に薬が確実に届くようにすることを意思決定したのです。
メルクがこの決定を下した理由を聞かれたとき、当時のパジェロスCEOは次のようにインタビューに答えたと言われています。
『このプロジェクトを進めなかったら、「人々の生命を維持し、生活を改善する仕事をしている」と自負する我が社の科学者の士気は著しく下がっただろう』
続けて彼はこうも言ったそうです。
『15年前、日本をはじめて訪れたとき、日本のビジネス関係者に、第二次世界大戦後、日本にストレプトマイシンを持ち込んだのはメルクで、その結果、蔓延していた結核がなくなったと言われた。
これは事実だ。ちなみに当社はこれで利益をあげていない。
長い目で見ると、こうした行為の結果は必ずしもはっきりとは表れないが、なんらかの形で必ず報いられると思っている』
( → メルク社の過去の大英断 )
メルク社の大英断が、「報いられた」かどうかは、何とも言えない。ただ、名誉や称賛は別として、現実に人命を救ったという事実においては、まさしく報われたと言えるだろう。
そしてまた、私としては、事実を正確に認識するよう、人々に告知したい。この薬は、確かに数億人を救ったが、救ったのは、薬を発見した人ではなくて、薬を与えた会社だったのだ。
だからといって、「ならば会社にノーベル賞(医学生理学賞)を与えよ」ということにはならない。それは当然だ。とはいえ、数億人を救ったということをもって顕彰するのであれば、大村智を顕彰するよりは、メルク社を顕彰した方がいいだろう。ただ、その賞は、ノーベル賞ではあっても、医学生理学賞でなく、平和賞の方になりそうだが。
[ 付記 ]
大村智が何も貢献しなかった、と言っているわけではないので、お間違えなく。
大村智は、動物の薬の販売に貢献して、メルク社に多大な利益をもたらした。そういう意味の貢献ならある。
ただ、それとは別に、動物の寿命を劇的に延ばした、という貢献もある。グラフとともに、次の解説がある。
これ(グラフ)は、日本獣医師会のデータですが、なんと1980年では犬の平均寿命は2.6歳、猫は3歳。それが2009年には犬が15.1歳、猫が12.6歳まで伸びました。犬の2.6歳は人間で言うと25歳くらいだから、若いうちに死んでいたのが本来の寿命である76歳くらいまで生きられるようになった。グラフを見るととくに急に伸びたのが80年代後半です。
( → 大村 智先生のおかげで犬の寿命が飛躍的に伸びた )
昔の犬の寿命は 2.6歳 だったのに、近年では 15.1歳まで伸びている。劇的と言えるほどの寿命の伸びだ。これほどの効果を動物にもたらしたのだ。(寄生虫による感染死を防ぐ効果。)
大村智は、数億人を救うという業績こそメルク社に譲ったが、莫大な数の動物を救うという画期的な業績はまさしくあったのだ。そして、その業績の一端として、メルク社に多大な利益をもたらした。その利益の一部が、アフリカで数億人を救う貢献ももたらした。
大村智の貢献は、こういうところにある。彼は、動物の命を救うことで、人間の健康をも救ったのだ。彼の発見が直接的に数億人を救ったのではない。もちろん、彼の薬が数億人に販売されたわけでもない。(彼の薬を無償で大量提供するために巨額の金を支出した会社があったのだ。)
こういう真実を正しく理解しておこう。科学史の一端として。
(文中、敬称略)
【 関連サイト 】
参考資料。
→ Google ブックス から閲覧
【 追記 】
犬の寿命のグラフについては、「数値をそのまま受け取るのは妥当ではない」という指摘が、コメント欄に来た。下記のコメント。
> Posted by sakamuke at 2015年10月08日 13:23
詳しくは、そのコメントを参照。
人でも儲けたかったメルクを、特許権を持つ大村名誉教授が制したのでは?
そうでなければ、メルクは株主から膨大な損害賠償を訴えられていたでしょう。
http://news.livedoor.com/article/detail/10677472/
東スポの言うことなんか信じない方がいいです。
仮に特許権を放棄していたら、誰もが自由に作れることになり、メルク社は大儲けができなくなるので、結果的に、数十億人に無償供与するための資金がなくなってしまいます。ゆえに、そんな馬鹿げたことをするはずがない。最善は、特許権で資金を得て、人類のために貢献することです。そして、実際、そうしたのでしょう。
なお、正確な事実は、次の通り。
メルクが無償供与を決定したが、それを大村さんに無断で発表したため、大村さんが特許権の侵害に怒った。その後、メルク社の会長がお詫びに行ってから、大村さんに、無償供与の分については特許権を放棄することに同意してもらった。
> WHOがメクチザンの集団投与に踏みきれたキッカケが、メルク社からの無償供与。しかし、メルク社は特許保有者の大村に相談なしに無償供与を発表したため、大村は憤慨。結局、メルク社の会長バジェロスがすぐに東京にまで謝りに来て、自体は収拾、大村も全面協力を約束します。
http://is.gd/cgw7zg
> 大村智氏は、WHOを通じて10億人以上にイベルメクチンを無償提供することに同意し、その部分についての特許権を放棄している
http://j.mp/1hrKSru
「日本獣医師会のデータ」とされていますが,正確には「日本獣医師会雑誌に掲載された報告の中にある,ある動物病院における平均死亡年齢のデータ」です.動物病院ですから当然何らかの疾患を持つ犬がやってきます.昔は2,3歳で病気に罹る犬が今よりずっと多かったのは事実でしょうが,「昔の犬の平均寿命が2,3歳だった」という解釈は明らかに誤りかと思われます.
(普通に考えて「平均寿命が1年ごとに大きく変わる」なんてことはおかしいと思いませんか?)
>ではなぜ、メルク社は無償供与したか? 理由は二つある。
>(1) 第1に、人間には無償供与しても、動物には有償販売することで、たっぷ>りと利益を上げることができたから・・・
>(2) 第2の理由は、高い理想だ。社会貢献意識といってもいい。・・・
ブログ主様の論考に異論はないのですが、英米の「篤志・慈善」の習慣は、日本にはないレベルのもののように思います。その裏/背後には、企業の税対策も絡んでいるのかもしれません。
以下、引用。
 ̄ ̄
薬の開発関連の特許料は北里研究所に入った分だけで250億円。しかし、本人は「食べるだけで十分」と、研究所の経営再建や病院建設にも巨費を投じました。残りを上村松園や三岸節子ら女性画家を中心とした美術品の収集に充ててきました。
そのうち1500以上の作品が2007年、これらを収蔵する新築の美術館ごと、生まれ故郷の山梨県韮崎市に寄贈されました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151005-00000004-withnews-soci
 ̄ ̄
こういうのを見ていたから、メルク社も、もともとある篤志活動を強めたのでしょう。仮に、大村さんが贅沢三昧をしていたら、メルク社も無償供与は考えなかったかも。
その人の真価が現れるんでしょうね
良くも悪くも。。。
(1) 人間は途上国で、動物は先進国。途上国向けに無償にして、先進国向けに有償にした。
(2) 寄生虫にかかるのは最貧困層だから、薬を購入できるだけの資力に乏しい。(あとは、ビジネスと人道とのかねあい。)
(3) 途上国で圧倒的な成果を上げれば、それを宣伝にして、先進国のペットに高額販売できる。宣伝費。
(4) 薬剤は、開発費のコストが大きい割には、生産費はあまり大きくない。追加で生産する分のコストは、あまり大きくない。(ジェネリリックと同じで、開発費の分は負担しないで済む。) 動物向けを主用途とすれば、追加の人間向けは、開発費のコスト負担なしで、安価に生産できる。
※ 会計処理で。経営的見地から。
※ とはいえ、その製造原価が 3,750 億円だから、決して安価ではない。
(5) 薬を提供したあと、期限切れが近づいた分を回収して、途上国に回した。廃棄されそうな分を有効利用した。(これだと実質的なコストは激減する。)
※ ちなみに日本では、今回のコロナで使わなかったアビガンを、大量に廃棄する予定だ。(期限切れで。)……これぞ愚の骨頂。本来ならば大量の命を救える薬を、単に廃棄してしまうのだ。 どうせ使わないのなら、メルク社みたいに、途上国に無償供与すればいいものを。そうすれば日本でも治験結果を得られるというメリットがある。