この件は、ずっと前に「泉の波立ち」で指摘した。(2004年の記事)
それを読んでもらえばいいのだが、前項(レカミエ夫人)との関連で、その文章をここに転載しておく。
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まず、画像を示す。

出典:Wikipedia
以下は、過去記事からの転載。
● ニュースと感想 (4月18日)
「名画の謎」について。
他人の意見の紹介。「裸のマハの顔と体は別人だ」という説。野口晴哉の説で、見田宗介が紹介。(朝日・夕刊・文化欄 2004-04-16 )
( → 画像 裸のマハ )
有名なゴヤの「裸のマハ」は、「着衣のマハ」と一対である。かつ、「裸のマハ」の顔と体は別である。なぜか? この絵を描かせたのは首相。モデルは首相の愛人らしい。首相は愛人の裸が大好きで、サロンに飾りたい。しかしあからさまにそんなことをするわけには行かない。そこで、ひとにひねり。愛人の裸を描かせたあとで、その顔だけを別人にする。その顔で、もう一つ、着衣の姿の絵を描かせる。裸のマハの絵の前に、着衣のマハの絵を置いてから、紐を引くと裸身が現れるしかけにしてある。見た人は、「お、着衣の女(マハ)が裸になった」と思い込む。顔と体が同一人物だと思い込む。別人だとは思わない。かくて、まんまと、サロンに愛人の裸を堂々とさらけ出す。(首から下だけですけどね。)
この説は、もっともだと思えるが、美術関係者は「美術の素人が何を言うか」と非難したそうだ。
専門家というのは、かくも阿呆なのである。ここで判定のよすがとなるのは、女体の裸を見抜く目であり、美術の目ではない。そして、女体の裸を見抜く目があれば、頭と体が別々だ、というのは一目瞭然である。
これは、別に、私が女の裸を見慣れているから言うわけではなくて、この不自然感は、私が十代のころに初めてこの絵画を見たときから感じていたことだ。(私は十代のころから女遊びをしていたわけじゃありません。)
さて。さらに私の見解を付け加えておこう。美術に関する意見であるが、医学的観点からの意見。
裸のマハでは、頭と体に肉体的な質の差があるだけでない。裸のマハでは、頭と体がうまくつながっていないのだ。どういうことかというと、首の骨が、よじれてしまっている。体につながる首の骨は / のようにかなり横に寝ているのに、頭につながる首の骨は / のように縦に近くなっている。角度が食い違っている。だから、頭と体とは、別々なのだ。もし現実に、ここまで首を傾けたら、首の骨が折れてしまっているはずだ。
で、どうしてこうなったかというと、たぶん、体は寝ている人物がモデルで、顔は座っている人物がモデルだったのだろう。そう考えれば、顔の角度に、納得が行く。
なお、作画の際は、座ったモデルを使って後から描き加えたのではなくて、もともとある座像の肖像画から、転写したにすぎないのだろう。そう考えると、不自然さが納得される。だいたい、首の付け根の位置からして、かなり食い違っているのだから。一方は高く、一方は低い。
( ※ オマケで言えば、この絵画は、一種の「アイコラ」みたいなものだ。「アイコラ」は、「アイドル画像のコラージュ」のこと。既知のヌード写真の顔の部分だけ、アイドルの顔写真とすげ替えるものなど。「裸のマハ」は、世界最初のアイコラかも。)
( ※ 「裸のマハ」の絵画史上の位置づけは、「初めてのリアリズムふうのヌード」である。それ以前は、想像された宗教画の裸体像であり、あまりリアルではなかったし、あまりエロチックでなかった。「裸のマハ」は、美術として優れているというよりは、センセーショナルな意味合いが強い。宮沢りえの写真集みたいなものだ。……なお、ゴヤの作品で言えば、もっと優れた作品はいくらでもある。……私の判断は? この女を見ると、ボディは好きだが、顔は嫌い。じゃなくて、この絵は、ボディは達筆だが、顔は下手。)
【 追記 】
裸のマハでは、なぜ、体と顔が、うまくつながっていないのか? この問題を提起して、考察したところ、次の結論を得た。
画家たる者が、わざわざ顔の配置を間違えるはずがない。顔の配置を間違えたとしたら、顔の配置を間違えざるを得なかったからだ。つまり、そこに顔を置く以外に、他の置き場所がなかったからだ。
では、なぜか? 「もう少し上」とか、「もう少し右」とかに、ずらしても良さそうだが、なぜ、ずらせなかったのか? それは、たとえそういうふうにずらしても、やはり不自然だったからである。最も不自然感のない置き場所が、そこだったのだ。
では、なぜ、どこに置いても不自然なのか? ここまで考えると、ようやく、事実が判明する。顔が体に比べて、大きすぎるのだ。この肉体から見る限り、この女性はかなり大柄である。とすれば、顔はかなり小さくて、八頭身ぐらいになっているはずだ。にもかかわらず、顔はそれよりずっと大きくなっている。顔が大きすぎるから、顔の置き場所に困ってしまったわけだ。
かくて、現在のように、不自然感の残る位置に、顔を置いてしまった。美術的な配置を優先すると、医学的に矛盾するようになってしまった。仮に、医学的に矛盾ない位置に顔を置けば、今度は絵画の構成で破綻してしまう。それは、画家の良心が、許さない。画家にとって常に心がけるべきことは、物体配置のバランス(構成)であり、医学的整合性なんか、どうでもいいのだ。だからこそ、裸のマハは、頭と体がずれているのである。
( ※ 画家にとって、頭部とは単なる球体であり、絵画の平面上に円として配置されるものであるだけだ。本当は見えないところで、頭部と胴体を接合させる頸骨がある、なんてことは、全然意識する必要がない。)
( ※ そして、この絵画と医学との矛盾をもたらしたのが、「顔が大きすぎること」なのだ。)
( ※ ここからさらに推測すれば、ボディのモデルの方は、髪部分がかなり高かったはずだ。つまり、アップのヘアスタイルになっていたはずだ。アップのヘアスタイルの顔と、アップでないヘアスタイルの顔とを、あえて高さでそろえたために、アップでないヘアスタイルの顔は、顔全体が大きくなりすぎてしまったわけだ。)
( ※ 同様の理由で、ボディのモデルの方は、細面(ほそおもて)であった、と推定される。絵の顔は、幅広の顔だが。)
【 参考 】
顔の位置の不自然さを治した画像を、今回新たに示しておく。

あまり上手なコラではないが、元の絵画の不自然さを示すには、これでも足りるだろう。
なお、これでもまだ不自然な感じがするのは、上半身と下半身のバランスが崩れているからだ。
どうも、上半身と下半身は、別々の人物を合成した感じがする。筆のタッチも異なるし。
特におかしいのは、次の二点だ。
・ 腹が異様に長くなっている。( 10センチぐらい長すぎ)
・ 上半身の向きと、下半身の向きが、異なる。
(上半身はやや上向きで、下半身はやや横向き。)

Wikipediaでは「西洋絵画の巨匠(オールドマスター)たちが凹面鏡やカメラ・オブスクラやカメラ・ルシーダなどの光学装置を使って絵を描いたという説を主張し、反響を呼んだ」と紹介されていますが、紹介されている手法もこうした技法の応用と考えると分かりやすくなります。簡単に説明するのが面倒なのでよろしければ以下のまとめなどを参照ください。
デイヴィッド・ホックニー「ルネサンスの巨匠たち写真トレスしてたと思うわー」 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/72396?page=1
→ http://j.mp/1LizQCo
→ http://j.mp/1Pju3KR
BBC David Hockneys Secret Knowledge 1of2 DivX MP3 MVGForum - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JKbFZIpNK10
BBC David Hockneys Secret Knowledge 2of2 DivX MP3 MVGForum - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MDIiVkoTik8