オスの存在意義は何か? 「オスはコストだ」とも言われるが。 ──
前項に続いて、話を加えよう。
Wired の記事には、次の説明がある。
オスとメスという異なる性が存在するのは、生物にとって重い「コスト」だ。
これは、しばしば語られることだ。このことについて説明しよう。
「コスト」という概念を重視するのは、次の見解を前提とするからだ。
・ 「生物の目的は自己複製することだ」
・ 「生物の目的は数を増やすことだ」
これは、ダーウィン主義の発想だ。なるほど、このような見解を前提とする限り、数を増やすことには役立たないオスは、余計なものと見なされるだろう。(種全体では余分なコストがかかると考えられる。)
しかし、それを言うなら、有性生殖そのものが余計なものだ。無性生殖ならば、100%の自己複製が可能なのに、有性生殖ならば、50%の自己複製しかできない。オマケに、個体数を増やすのに、やたらと手間と時間がかかる。無性生殖の生物とは雲泥の差だ。
仮に、上記のように、
・ 「生物の目的は自己複製することだ」
という見解を取るのであれば、生物は、無性生殖から有性生殖へ進化することで、むしろ大幅に不利な性質を獲得してしまったことになる。矛盾。
この矛盾をどう解決するか? 簡単だ。「仮定 → 矛盾」という論理が出たのだから、背理法によって、仮定を廃棄すればいい。つまり、
・ 「生物の目的は自己複製することだ」
というような原理は、もともと成立しないのである。正確に言えば、この原理は、無性生殖をする生物の原理であって、有性生殖をする生物の原理ではない。
ゆえに、無性生殖をする生物の原理を、有性生殖をする生物に適用することはできない。つまり、これを適用しようとするダーウィン主義は、誤りである。
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では、ダーウィン主義が誤りだとしたら、正しくは何か? これも論理的にすぐに得られる。
「無性生殖をする生物の原理を、有性生殖をする生物に適用することは誤りである」
ということから、
「無性生殖をする生物の原理を、有性生殖をする生物に適用してはならない」
つまり、
「無性生殖をする生物の原理と、有性生殖をする生物の原理は、別の原理である」
つまり、
「有性生殖をする生物の原理は、自己複製(数を増やすこと)とは別の原理である」
となる。
では、有性生殖をする生物の原理とは何か? それは、「数の増加」ではなく、「質の向上」である。つまり、「進化」である。
進化とは、種の個体数を増やすことではない。進化とは、種の質を向上させること(遺伝子的に高度化すること)である。
数を増やすことだけが目的であるなら、細菌のような微生物の状態であることが最適だ。しかし、進化の過程を通じて、生物は、組織的にはどんどん複雑化・高度化し、遺伝子的にもどんどん複雑化・高度化していった。と同時に、種の個体数をどんどん減らしていった。
細菌 → プランクトン → 節足動物 → 魚類 → 両生類以降
というような進化の歴史において、組織的にも遺伝子的にもどんどん複雑化・高度化していくと同時に、個体数をどんどん減らしていった。
つまり、進化とは、「質の向上」と「数の減少」と同時になすことなのだ。
( ※ これは当り前だ。哺乳類のような高度な生物が、細菌のように何千億とか何兆とかの数にまで増えてしまったら、地球からあぶれてしまう。それはありえない。)
──
結論。
無性生殖の生物と、有性生殖の生物とでは、原理が異なる。無性生殖の生物の原理は、数の増加だが、有性生殖の生物の原理は、質の向上だ。
したがって、「オスはコストである」という説は成立しない。「オスは数を増やすためには不利なのでおかしい」というのは、あくまで無性生殖の原理に立った場合の認識である。正しくは、「オスは数を増やすためにある」のではなく、「オスは質を向上させるためにある」のである。
だからこそ、有性生殖の生物は、性の誕生以後、爆発的に進化した。(カンブリア紀以後。) 一方、無性生殖の生物は、カンブリア紀以後も、ほとんど進化していない。6億年前の細菌も、現代の細菌も、たいして違いはない。その6億年の間に、変異はいっぱいあったが、それは、同一の範囲内での変異を繰り返していたに過ぎず、まったく新たな領域に飛び出したことはほとんどなかった。(あったとしても、たいして違いはないので、ほとんど無意味である。)
ダーウィン主義では、「現代の細菌は古代の細菌に比べて、ものすごく変異があるので、ものすごく進化している」というふうに見なす。「現代の細菌も、現代の哺乳類も、進化の発達のレベルは同程度だ」と見なす。次の円形の図のように。
出典
しかしながら、「現代の細菌も、現代の哺乳類も、進化の発達のレベルは同程度だ」と見なすのであれば、それはもはや、「進化」という概念の否定である。進化とは、
細菌 → プランクトン → 節足動物 → 魚類 → 両生類以降
という生物の時間的発展の歴史そのものであったはずだ。なのに、
「細菌も、プランクトンも、節足動物も、魚類も、両生類以降も、いずれも同程度に進化した生物だ」
ということであれば、もはや、「進化」という概念そのものが破綻してしまう。
ダーウィン主義は、「進化」の概念を説明しようとしたあげく、逆に、「進化」という概念そのものを崩壊させてしまった。一種の自己矛盾だ。
ではなぜ、そんなおかしなことになったのか? それは、ダーウィン主義の原理そのものによる。つまり、
「無性生殖をする生物の原理を、有性生殖をする生物に適用する」
という奇妙なことをしたことによる。
だから、そういう馬鹿げたことをやめて、
「無性生殖をする生物の原理と、有性生殖をする生物の原理とは、別のものだ」
というふうに考えるべきだ。つまり、
「無性生殖をする生物の原理は、数の増大だが、有性生殖をする生物の原理は、質の向上だ」
と理解するべきだ。そして、そうすれば、
「オスはコストである」(数の増大には不利だ)
という認識にはならず、
「オスは必要不可欠のものだ」(質の向上には必要だ)
という認識になるはずだ。そして、それが真実なのである。
[ 付記1 ]
ここで、生物の目的を考えよう。
有性生殖をする生物の目的は、数を増やすことではない。その系統を存続させることだ。つまり、「系統が滅びないこと」だ。
鳥であれ、哺乳類であれ、人間であれ、それらの生物が有性生殖をする(交尾する)のは、「自己の子孫を増やすため」「自分の遺伝子を増やすため」ではない。「自己の子孫を絶やさないため」「自己の系統を絶やさないため」である。絶やさないことだけが大切なのであって、増やすことは二の次なのだ。
この件は、別項で詳しく論じた。
→ 利全主義と系統 (生命の本質)
→ 数の増加(生命の本質)
なお、円形の図に関して、進化の量と分岐の量については、下記項目で論じた。
→ 進化の量と分岐の量
※ 数を増やすことが大切なのは、無性生殖の生物だけだ。その原理を、有性生殖の生物に適用することはできない。ここに注意。ここを勘違いしたのが、ダーウィン主義だ。
[ 付記2 ]
ダーウィン主義をひとことでいえば、こうだ。
「生物は数を増やすことを目的として、競争をなす。その競争で勝ったものが生き延びて、負けたものが滅びる」
なるほど、これは無性生殖の生物では成立するだろう。しかしながら、有性生殖の生物では、そのまますんなりとは成立しない。なぜなら、どの有性生殖の生物も、数はたいして多くはないからだ。節足動物みたいな下等な動物ならばまだしも、魚類以上の動物となると、数はたいして多くはない。哺乳類に至っては、多くが絶滅の危機にあるほどだ。人類の誕生以前に限っても、数はたいして多くはなかった。
では、有性生殖の目的は何か? それは、すぐ上で述べたとおりだ。つまり、「滅びないこと」だ。それに耐えたものだけが、かなりの長期間にわたって存続した。しかしながら、ほとんどすべては、このフルイ(filter)に耐えられなかった。たいていの動物は、一定期間だけ繁栄したあとで、絶滅した。
[ 付記3 ]
ダーウィン主義はこう考える。
「突然変異が起こって、有利な形質を獲得したものだけが増える」
しかしそんなことで起こるのは小進化だけである。種の誕生をともなう大進化では、そんなことは起こらない。そもそも、「旧種から新種へ」という交替も起こらない。(たいていは並存期間が長くある。)
では、大進化で起こるのは、何か? こうだ。
「クラス交差によって新種が誕生したあと、しばらくたってから、環境に適さなくなった旧種が絶滅する」
たとえば、20万年ほど前に、ホモ・サピエンスが誕生した。その後、3万年ほど前に、ネアンデルタール人が絶滅した。その間の期間には、両方が並存した。
こういう形で種の誕生と絶滅が起こる。それは決してなだらかな変化ではない。新種の誕生と旧種の絶滅は、まったく別の時期に、別個に起こるのである。
→ 断続進化 (断続平衡説)
その意味で、「数の増加」を原理とするダーウィン主義は、有性生殖の生物においては、まったく成立しない原理だと言える。有性生殖の生物においては、「性による交配」を原理とするクラス交差こそが、進化の源泉なのである。
→ クラス交差 - Google 検索
→ クラス交差 (クラス進化論)
→ 小進化と大進化(原理)
そしてまた、「種の絶滅」は、進化とはまったく別の理由で発生する。(優勝劣敗で負けたからではない。)
→ 種の絶滅と環境
→ 種の絶滅は不適者絶滅(適者生存)?