最高裁判決は、ボールを蹴った子供の親には責任がない、とするものだった。その結論自体はいい。しかし、その結論に至る論理がおかしい。
両親が普通のしつけをしていたことなども考慮し、今回の事故を「予測できたとはいえない」として、監督義務を尽くしており、賠償責任は負わないと判断した。
( → 産経ニュース )
「日常的な行為のなかで起きた、予想できない事故については賠償責任はない」との初の判断を示した。
( → 朝日新聞 )
両親が直接目の届かない状況でこうした事故は予測できず「監督義務を怠ったとはいえない」と判断した。
( → 中日新聞 )
通常は危険が及ばない行為で、たまたま損害を生じさせた場合は、具体的に予見可能だったなどの特別な事情が認められない限り、監督義務を尽くさなかったとすべきではない
( → 読売新聞 )
いずれも「予想できなかった」「予測できなかった」というふうに理由を示している。このことが罪を免責される理由となっている。
しかし、このような「予測不可能性」は、まったくおかしい。「予測できない」というのは、「故意ではない」「過失である」程度のことしか意味しない。このくらいのことで無罪になるのであれば、この世における過失犯というのはほとんどが無罪になってしまう。同時に、過失による損害賠償も認められなくなってしまう。ゆえに、「予測不可能性」は、「無罪」(無過失・無責任)の根拠とはならない。
「予測可能性」があった場合には、「有罪」「有責」と言えるだろうが、「予測可能性」がなかった場合には、「重過失」ということも考えられるので、「無罪」「無責任」とは言えないのだ。論理としては弱い。
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だが、もっと問題なのがある。ここでは、次のことが成立するのだ。
現場は、この図のようであった。
→ 朝日新聞
→ 中日新聞
この図からわかるように、事故については、学校側は十分予想できた。
・ サッカーをすれば、ボールがゴールをはずれるのは想定内だ。
・ 道路のそばにゴールを置けば、はずれたボールが道路に出るのも想定内だ。
・ ボールが道路に出れば、事故が起こるのも想定内だ。
ゆえに、すべては予想可能であり、この事故は起こるべくして起こった事故だと言える。
実際、学校側も、それを認識していた。だから、事故が起こったあとで、学校側はゴールの位置を変えた。
学校では事故後、ゴールの位置を動かすなどした
( → 読売新聞・朝刊・社会面 2015-04-11 )
このように、学校側では、あとになって自らの責任をきちんと理解するようになったと言える。
要するに、最高裁は「事故を予測できなかった」といって親を免責しているが、実は、親は事故を予測できなかったが、学校は事故を予測できたのである。
とすれば、事故の責任は学校側にあったことになる。
以上のことをまとめれば、法的には、こうなる。
親には責任がないが、それは、「親には予測ができなかったから」ではなくて、「学校には予測ができたから」である。つまり、「責任は学校側にあるから、責任は親にはない」のである。これが法的に正しい論理だ。
比喩的に言おう。あなたが道を歩いていたら、後ろから誰かがあなたを押した。そのせいで、あなたは前にいる人を押した。その人は、あなたに押されたせいで、転んで、ケガをした。
ここで、あなたが訴えられたとする。その場合、あなたには責任がないが、その理由は、あなたがケガの予測が不可能だったからではない。後ろからあなたを押した人が真犯人であるからだ。真犯人が別にいるから、あなたは責任がないのだ。
今回も同様だ。子供の親には責任がないが、それは、予測不可能だったからではない。真犯人が別にいるからだ。
なのに、真犯人の指摘をしないで、「予測不可能だから」という理屈にもならない理屈を持ち出すと、あまりにも法的に非論理となる。
このような法的な非論理性は、弊害をもたらす。
(1) 単に予測が不可能だったというだけのことで、多くの過失事故で被害者の救済が不可能となる。
(2) 真犯人が見逃されることで、同種の問題が放置される。
特に (2) が重要だ。最高裁判決の前までは、学校側は「自分こそが真犯人だ」と理解したので、ゴールの位置を変えた。これによって事故の再発が起こらないように、安全対策がなされた。
しかるに、最高裁の判決が確定したとなると、学校側の責任は見逃される。すると、学校側は、またしても危険な位置にゴールを戻すかもしれない。そのせいで、ゴールからはみ出たボールが何度も道路に出て、何度も事故を起こすかもしれない。
また、この学校だけでなく、全国各地で、危険な状況が放置されかねない。
最高裁の判決は、それほどにも歪んでいるのである。法的に歪んだ(非論理的な)判決を下すから、そのせいで、社会が歪んでしまうのだ。
※ 学校側には、「予測可能であった」ことのほか、「管理者責任」というものがある。これが重要。
[ 付記 ]
ま、元はと言えば、遺族が悪い。遺族が学校側を訴えれば、こういう馬鹿げた問題は起こらなかったはずだ。
ではなぜ、遺族は学校側を訴えなかったか?
遺族は「小学校を設置する愛媛県今治市を相手に争うと時間がかかる」として、サッカーボールを蹴った男児の両親だけを訴えていた。
( → 読売新聞・朝刊・社会面 2015-04-11 )
とのことだ。これが理由らしい。よほどせっかちだったのだろうか。
しかし、せっかちを理由として、真犯人とは別の人に賠償金を請求するというのは、道理が通らない。こういう馬鹿げた訴訟をした弁護士(遺族側の弁護士)こそが、最悪の間抜けと言えるだろう。
なお、過去の判例では、加害者個人に賠償責任があることがほぼ確実で、行政組織には賠償責任がないことが多い。だから、個人に請求してしまえ、と思ったのだろう。(弁護士は。)
だが、そういうふうに判例ばかり重視すると、「真犯人は誰か」という物事の本質を見失う。かくて、依頼人に大迷惑を掛ける結果となる。……法律馬鹿というのは、こういうふうに、法律ばかりにとらわれて、物事の本質を見失うものだ。
ただし、それを言うなら、最高裁だって同様だ。「原告が訴えたのは個人だけであって、原告は学校側を訴えなかった。ゆえに学校側の法的責任を問わない」というふうに考えた。
ま、学校側の法的責任を問わないのはいい。しかし、そのせいで「真犯人は誰か」という物事の本質を見失って、「犯人は誰もいない」というふうに論理を組み立ててしまった。
かくて、現実を無視した、机上の空論みたいな、インチキ判決が出たわけだ。
遺族の弁護士も、最高裁も、いずれも法律ばかりにとらわれて、物事の本質や真実を見失う。そういう馬鹿げた例が、今回の判決だった、と言えるだろう。

免許保持者は免許更新時に、自らが加害者にならないように、学校や公園のそばではボールや子供が飛び出す事を予見すべきだ。というビデオ講習を受講しています。よって過失割合による相殺を考えると、この請求そのものがふっかけだったと思います。
なんとも銭ゲバな上に馬鹿正直な遺族だこと。
「亡くなった方の無念云々は一切関係なく、金を取れるところから取ります」って自分が曝露してることに気が付いていないんだろうか。
これには思うところがありました。個人賠償責任保険は火災保険に入る人はほぼ100%ついてきます。賃貸ならほぼ強制的に入れられるので、今度の被告は持ち家でかつ火災保険に入っていなかったのですかね。
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この裁判は、実質、原告弁護士vs保険会社。
親が、「賠償責任保障」入っていたので、そこから、事故当時も責任10割で医療費や慰謝料も
支払われてるんだよ。
その後、亡くなった事で、5000万円の賠償要求。
学校より、保険会社の方が取りやすいと考えたから示談も提示されたが、応じず裁判泥沼化。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1428573320/l50
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示談を受け入れていれば、1000万円かそこらはもらえたようですが、5000万円を要求したせいで裁判となり、1円ももらえなくなりました。