「暗いところで本を読むと目が悪くなる」という説がある。一方、近年、これを否定する学説も出ている。
数年前、とあるイギリスの医学会が出版している雑誌に、明かりが少なく暗い所で本を読む事と視力が低下する事には因果関係は無い、っていう記事が掲載され、大きな注目を浴びたようです。でも、なぜ因果関係が無いのか、同雑誌の要点をまとめてみましょう。
暗い所で本を読むと目が悪くなるという俗説は、おそらく不適切な照明によって焦点を合わせづらくなり、眼精疲労を引き起こす事からくるもののようですが、この効果は持続するものではないようです。
( → 該当ブログ )
まともらしい理屈が書いてあるが、「この効果は持続するものではないようです」というのは、ありえないだろう。近視になった人なら知っているはずだが、近くにある小さな文字を見続けたあとでは、しばらく近視状態が続いて、遠くのものが見にくくなる。何時間も本を読んでいれば、近視状態からは回復しにくくなる。近視効果は持続するのだ。
もっと重要なことがある。「暗いところで本を読んだせいで目が悪くなった」という実例が、非常に多くあるのだ。というか、近視になった人の大部分が、これを理由として近視になったのだ。(本ではなくてゲーム機であることも多いが。)
ともあれ、「暗いところで本を読むと目が悪くなる」という実例は多数ある。これが事実だ。
とすれば、「事実に対して、それを説明する理論を出す」というのが、科学的である。逆に、「自分の理論が正しいから、事実は間違っている」などと主張するのは、非科学的すぎる。冒頭の医学記事(学説)は、そういう非科学性に染まっている。
──
では、正しくは? 「事実に対して、それを説明する理論を出す」という方針に従って考えれば、次の説を出せる。
@ 一点だけを見るのであれば、明るくても暗くても同じである。その一点を見るようにピントは固定されたままであり、特に疲労が生じる理由はない。
A 本を読むのであれば、ピントは絶えず変化する。上や下を見るときにはピントが遠くなり、中央を見るときはピントが近くなる。右端を見るときは右目は近くなって左目は遠くなる。左端を見るときは右目は遠くなって左目は近くなる。……このように、ピントは絶えず変化する。
B 明るいときには、瞳孔が小さくなっているので、被写体深度が深くなる。ゆえに、ピントを固定したままでも、すべての文字を読める。目の筋肉が酷使されることはない。
C 暗いときには、瞳孔が大きくなっているので、被写体深度が浅くなる。ゆえに、ピントを厳密に調節する必要がある。そのせいで、目の筋肉が酷使される。(近くに合わせたり遠くに合わせたりする。それも、1行ごとに大きく変化する。特に、横書きの文字を近くで見た場合に、変化量が大きい。)
以上によって、「暗いところで本を読むと目が悪くなる」ということの原理が証明された。
要約すれば、こうだ。
「暗いところでは、瞳孔が開くので、被写体深度が浅くなる。そのせいで、ピントに微妙な調節を強いられる。そのことが絶えず繰り返されるので、目の筋肉は酷使される。その酷使による疲労から回復できなくなってしまう。(筋肉が壊れてしまうようなもの。調節機能を失う。)」
[ 付記 ]
未知の現象にぶつかったらば、その現象を「理屈から言ってあり得ない」と頭ごなしに否定するべきではない。むしろ、「その現象を説明するための理屈を考えだそう」とするべきだ。それが科学的な態度というものだ。
ただし、自惚れた人は、こう思う。
「自分は利口だ。自説に合わないが現象にぶつかったら、自分が間違っているのではなく、現実が間違っているのだ」
科学者にとって大切なのは、謙虚な態度なのだ。
そして、そういう謙虚さがないと、事実を誤認することもあるし、また、自説に合わないことを主張する人々を攻撃して、死に至らしめることもある。
心して、忘れないようにしておこう。
【 追記 】
あとで思い出したが、「近視の原因は、日光を浴びないことだ」という説がある。前に紹介したことがある。一部を再掲しよう。
目が悪くなる理由は、遺伝でもなく、読書やテレビゲームやパソコン作業による目の酷使でもなく、単純に日照不足であるという驚きの新研究結果が発表されました。
眼球が細長くなり目に入る光への焦点形成が歪むのを防止するドーパミンの生成が、太陽光にさらされることによって、刺激されると見られています。
詳しくは、下記項目を参照。
→ 近視と日光
もしそうだとすれば、「暗いところで本を読むのが目に悪い」のではなくて、「暗いところにいるのが悪い」ということになる。ただし、論理的には、
暗いところで本を読む ⊂ 暗いところにいる
という包含関係が成立するから、「暗いところで本を読むのが目に悪い」が間違いだとは言えない。
【 関連書籍 】
これはインチキ本(トンデモ本)ではない。原則として、
遠くのものを見る訓練をすれば、視力は向上するものだ。
当たり前ですね。上記の本は、それを効率的にやるわけ。
そんなに暗すぎる状況は、話の対象外でしょう。
> そんなに暗すぎる状況は、話の対象外でしょう。
管理人さんの話の前提は不明ながら、
>暗いとよく見えず目を近づけてしまうから
という説はかなり有力と言うか、一般化されつつある話ではないかと。
そんなことはないかと思ったけど、人それぞれだから、そういうこともあるんでしょうね。
人ごとに違う(個人差がある)ということを失念していました。
本来は、夜間の運転などで注意しなければならないことです。
生理的な状態ですから、特に視力が落ちることとは関係ありません。
暗いことが器質的な視力に影響するなら、フクロウなどの夜行生物はどうなるんでしょうね?
生物40億年の歴史を愚弄した、人間の独りよがりの考えと言うことです。
http://www.omi.gr.jp/column/column14.html
>>実際には、中心近くを通過する光線は正しい像を結んでいるので、必ずしも本当の近視のように視力が落ちるというわけではありません。
この説でまず疑わなければならないのは、
「暗いところで本を読むと目が悪くなるか」
ではなく
「目が悪くなったことは本当に暗いところで本を読んだせいか」です。
これが論理というものです。
たとえば、暗いところで本を読むような勤勉な人は、明るいところでも常に本を読んでいる。本を読むことが近視になる理由であって、明暗は関係ない
ということにまず決着をつけないと、その後の展開は仮定に仮定を重ねるだけで、リアルワールドでのをなしません。すくなくとも、現時点で暗いところでものを見ることが視力の悪化につながるという知見はありません。
> 明暗は関係ない
知見がないのなら、「わかりません」と言えばいい。「知見がないから、明暗は関係ない」というのは、論理の飛躍。
例。「宇宙人は存在するという証拠がないので、宇宙人は存在しない」
本項では「……と近視になる」に対して、論理的な説明を与えています。論理的に説明されることに対して、頭ごなしに否定するのは、非科学的です。対抗するなら、別の論理か証拠を出すべきです。「知見がないから否定する」というエセ論理を本項では否定しています。
あと、1回と一介とは区別しましょうね。
http://www.bmj.com/content/335/7633/1288.full
「現時点では、(距離が近いところで本を読むことの話はないわけではないが)暗いところで本を読んでも目が悪くならない、というのが結論である」
というほうがよいでしょうか。この中でもさらりと触れられていますが、ろうそくで本を読んでいた時代より、照明環境が明るくなった現代の方が...というのも反証の一つです。
1回は、誤変換ですがそのままにした洒落です^^;
実験してみました。
蛍光灯の照明で明るいところで、小さい字の本を見て、字が読める距離を測ります。
室内で日傘をさして薄暗くして本を開いて、その字を見ようとすると見えにくいのですが、少し近づけると字が大きくなって字が読めます。明るさが同じでも目を近づけると字の見え方は明らかに変わります。
小さな字の本を読むときは、明るいところで読める距離より暗いときに読める距離は短いようです。背表紙のような大きな字の場合は手にもつような範囲では見え方にあまり差がないようです。
暗いところで本を読む習慣があれば、目を知らず知らずのうちに近づけていて、近視になるのは十分に考えられると思います。
本を読むにはふつう暗すぎるような明るさの場合でも、遠近調節の能力が高い人や近視の人は目を近づけることによって本が読めるわけです。老眼の人の場合、裸眼では暗いところでは割と大きい字でも読みにくいです。目を近づけるとピントを合わせられないからです。
近視とは、目が悪くなった状態ではなく、近いところを見やすいように目が変化・適応した状態と言えるでしょう。遠くを見るには悪い目ですが、近くを見るには普通の目よりも良い目です。例えば、ゾウリムシやアメーバを裸眼で探すときには便利です。
老眼は、遠近調節の能力が低下していますから、はっきり目が悪くなったと言えます。
→「暗いところで本を読むと目が近視になる」
暗いところで本を読む人と、明るいところで本を読む人の、本と目の距離が同じであれば、近視になる程度はあまり変わらないと予測します。
厳密に言えば、「暗いところで本を読むと、読みやすいように目を近づけることが多いので、近視になりやすい」が正しいのだと思います。
でも、こういうのは、「暗いところで本を読むと目が悪くなる」と言っていいと思います。
眼精疲労についてはよく分かりません。
近視でない人が本に目(裸眼)を近づけて読むと目が疲れます。
しかし、近視になってしまった人は目(裸眼)を近づけて読んだ方が疲れません。無理して遠ざけて読むとぼやけて読みにくくて疲れます。(目よりも頭が疲れるのだと思いますが。)
> 「現時点では、(距離が近いところで本を読むことの話はないわけではないが)暗いところで本を読んでも目が悪くならない、というのが結論である」
ご紹介のリンクは英文ですが、翻訳が下記にあります。
→ http://book.asahi.com/news/TKY200712240119.html
上記見解の根拠は「医学的な裏付けは見つからず」です。つまり、「肯定の証拠がないから否定する」ということ。「宇宙人〜」の比喩と同様で、論理の飛躍。私が先に述べたとおり。
> ろうそくで本を読んでいた時代より、照明環境が明るくなった現代の方が...
これは
「本を読む機会も少なかった貧しい時代よりも、誰もが本を購入できて勉強できる時代の方が...」
と言い換えるべきでしょう。
子供が野山で遊んでいた時代よりは、ゲーム機や書籍がふんだんにある時代の方が、目を悪くするのは当然。
一般に、時代による比較は、多くの要因が絡み合うので、統計的な比較にはなじみません。こんな比較をする人は、統計のもぐりだ。インチキ統計。
→ http://openblog.meblog.biz/article/17780599.html
要するに、インディアナ大の研究は、論理にもなっていないしか額にもなっていない。ただの論理の飛躍によって結論を出しているだけだ。「間違い論理の見本」みたいなものだ。非科学的。一言でいえば、ただのデタラメ。
こんなデタラメのかわりに、本項ではきちんとした科学的な仮説を述べています。論拠はたっぷり。
経験則 + 科学的な論拠のある仮説 > 論理の飛躍によるデタラメ
※ 経験則に当てはまる例はかなりあります。
オランダの暗いところで目を悪くした本田圭佑もそう。
理由はこれ。
→ http://d.hatena.ne.jp/paco_q/20091018/1255844525
(ドイツの例。デスクライトもない。)
眼精疲労が近視の主因だ、というのが本項の説です。単に近距離を見ていることだけが問題なんじゃない。ただの固定状態ならば、筋肉の酷使はないので、眼精疲労は生じないでしょう。
眼精疲労についてはよく分かりません、というのは、「近視の理由についてはよく分かりません」というのと同じ。
神が存在するかどうかわからないのに、なぜ神が存在するのかを説明しても意味がないのと同じでは?
いいえ。
それが事実であると見なして(仮定して)説明する仮説
です。
仮説が正しいかどうかは、また別の問題です。とりあえずは仮説を出しただけです。
次コメントを参照。
「近視の原因は、日光を浴びないことだ」という説の紹介。(別項で述べたこと。)
「眼精疲労が近視の主因だ」という説には賛成します。十分あり得ると思います。
「単に近距離を見ていることだけが問題なんじゃない。ただの固定状態ならば、筋肉の酷使はないので、眼精疲労は生じないでしょう。」
これには反対します。
近いところをずっと見る固定状態なら、毛様筋(環状筋)は酷使されていると考えたからです。重量挙げでバーベルを上げた状態を続けていると、筋肉を動かさなくても疲れます。
ピントを近くに合わせたり遠くに合わせたりすると、毛様筋の力を入れたり抜いたりする運動なので、近くにピントを合わせ続けるよりも、毛様筋の疲労は少ないと思います。
「ピントを近くに合わせ続けること、近くばっかり見ている時間が長く続くことが、眼精疲労の原因であり、ひいては近視の原因の一つである。
暗いところで本を読むと、眼を近づけると暗くても字が見えやすいので、知らず知らずのうちに眼を近づけて読んでしまう。従って、近視になりやすい。」というのが、管理人さんの指摘を基に考えた、現時点での私の意見(仮説)です。
たとえば、次の比較
・ 手提げ袋の ∩ をずっと握っている
・ 手提げ袋の ∩ を握ったり緩めたりする握力運動
どっちが疲れないか? 前者は1時間ぐらいは大丈夫。後者は3分でギブアップ。
──
ただ、原因としては、両方成立するかもね。(近くを見るのと、近くでピントの変動があるのと。双方。)
あと、【 追記 】にあるように、日光の不足。ドーパミンの不足。
・ 手提げ袋の ∩ をずっと握っている
・ 手提げ袋の ∩ を握ったり緩めたりする握力運動
どっちが疲れないか? 前者は1時間ぐらいは大丈夫。後者は3分でギブアップ。
この例は目の遠近調節とは違うと思います。
握ったり緩めたりする握力運動でたとえるならば、手提げ袋よりも握力を鍛えるためのばねのついた器具の方が目の毛様筋の運動に近いと思います。
近くを見続ける
→器具を握り続ける。当然疲れる
近くを見たり遠くを見たりを繰り返す
→器具を握ったり緩めたりする。それほど疲れない。放した時に回復するから。
例えば特殊な腕立てや腹筋、スクワットのトレーニングとして、一番負荷が掛かる位置で固定して維持するというものがあります。
腕を伸ばし切った瞬間や、身体を完全に折り曲げた瞬間は休息だから、それを除くという発想。
かなりきついトレーニングですが、ちょっとポイントをずらしてやれば楽々です。
目も同じことで、ある程度以上に近ければピントを合わせる動作が無くてもそれ以上に疲労するでしょう。
また目はカメラレンズで言うところの焦点深度が結構深いはずなので、固定した本を読む分にはほとんどピント調整は必要ないと思われるので、暗い所で本を読んで目が悪くなる理由としては、ishiさんの考えの方が正解に近そいように思えます。
これは「犯罪者が犯行前にパンを食べていた実例は多数ある」と言ってパンと犯罪を結びつける理論を提唱することと何が異なるのでしょうか?
>「この効果は持続するものではないようです」というのは、ありえないだろう。
眼精疲労から来る短期的で可逆的な近視状態と、長期的で不可逆的な近視を区別しているのでは?両者の生理学的な性質を元に議論しない限り的をついた議論にはならないように感じます。
「パンを食べていない人」の比較。
「暗いところで本を読まないと目が悪くならない」という人との比較。
そんなこと、誰でもわかるだろうに。
──
そもそもこれは、仮説です。実証までは行っていません。
「暗いところで本を読まないと目が悪くならない」という人との比較。
そんなこと、誰でもわかるだろうに。
「多くの犯罪者が犯行前にパンを食べていた」というのは事実では?
「暗いところで本を読む」と「目が悪くなる」という2者の間に因果関係があるとし、それを説明できる理論を提唱されているのでしょうが、2者の因果関係があるということが非常に非科学的に決められているので、犯罪者とパンの例を出したまでです。
2者の因果関係があるかどうかは、管理人さんの説明でもishiの説明でも、全く明らかではありません。2者の因果関係があるかどうかを明らかにしようとする議論ではなく、2者の因果関係があり得るかどうかを考える議論だからです。
数年前、とあるイギリスの医学会が出版した雑誌の記事の、「明かりが少なく暗い所で本を読む事と視力が低下する事には因果関係は無い」という考えは間違っているではないか。2者の因果関係があるのではないか、と疑っているわけです。
2者の因果関係はあったとしたら、その原因は理屈で説明できるかな?と考えているわけです。
因果関係を決定するためには、大規模で精密な調査か実験が必要です。
「犯罪者が犯行前にパンを食べていた実例は多数ある」と言ってパンと犯罪を結びつける理論は、理屈で考えても明らかにおかしいですから、例として比べることはできないと思います。しかし、考え方によってはこの理論は正しいですね。よくパンを食べるのは人間だし、犯罪を行うのも人間だから、因果関係はありませんが、パンと犯罪は人間を介して結びついています。
>「この効果は持続するものではないようです」というのは、ありえないだろう。
mizuさんの
>眼精疲労から来る短期的で可逆的な近視状態と、長期的で不可逆的な近視を区別しているのでは?両者の生理学的な性質を元に議論しない限り的をついた議論にはならないように感じます。
管理人さんの意見はたんなる素直な想像だと思います。根拠はないが、ありそうな理屈です。
mizuさんのものは、的をついていると思います。
短期的で可逆的な近視状態がそのまま長期的で不可逆的な近視につながるとはいえない。つながるという調査結果は見られない、と言うことだと思います。
従って、現時点では、眼精疲労が不可逆的な近視につながるという証拠はないのだと思います。
上記主張は、日本語として、「暗いところで本を読むことと、近視になることとの間には因果関係がある」という趣旨であるとしか読めません。
因果関係があるかどうか不明であるが、もしあるとすれば、それはどういうメカニズムであるかを解明する、というスタンスではないでしょう。
原因と結果の関係を示すある現象がある、だから私はそれを説明する、
科学者は事実の前に謙虚であるべき、というのが本稿の言わんとするところだと思います。
まあ、写真が趣味でも無ければ、これからの人生で使う機会もあまり無いとは思いますが(笑)
一応指摘させて頂きました
そうですね。ご指摘ありがとうございました。
経験則と述べているとおり。経験則は科学ではありません。当り前。それに難癖を付けるのは筋違い。
この分野はそもそも科学的研究はほとんどなされていません。そこに私見を述べたからといって、「非科学的」と文句を付けるのは変でしょ。文句を付けたければ、自分で科学的な証拠を出せばいい。
そもそも本項は「論理的な仮説」を出すだけです。実証にまでは踏み込んでいません。何度も述べた通り。「実証されていないことを書くのは非科学的」と言うのは、お門違い。
少なくとも、非論理的なことを書く専門家よりはマシです。経験則は「当たらずと言えども遠からず」程度で十分。
経験則 (けいけんそく、empirical rule) は、
観測、実験などの経験の蓄積により得られた法則を言う。
次のような法則は経験則である。
水は100度で沸騰する
水は0度で凍る
地球は24時間で1回自転する
太陽系の惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は、一定である(ケプラーの法則、面積速度一定の法則)
反応の前後で、質量の総和は変化しない(質量保存の法則)
ご指摘のコメントは、難癖ではないと思います。
私が非科学的という言葉を使ったのは本文中で
>とすれば、「事実に対して、それを説明する理論を出す」というのが、科学的である。逆に、「自分の理論が正しいから、事実は間違っている」などと主張するのは、非科学的すぎる。冒頭の医学記事(学説)は、そういう非科学性に染まっている。
と科学のあるべき姿を語っているので、理論を提唱する前提条件の決定がそもそも非科学的だったのに違和感を覚えたからです。たまたま立ち寄った先での難癖、失礼いたしました。
仮説はあくまで仮説だ、というふうに理解すれば、騒ぐようなことじゃない。
また、「暗いところで本を読むと目が悪くなる」というのを「確からしい」前提として受け入れるというだけであり、それを実証しているわけではありません。仮説の前提にしているだけ。
そこを問題視するのは、変でしょう?
例。「軽いものも思いものも同じように落下する」という経験則から、ニュートンの法則を導くことができる。
ここで、その経験則が不正確だから、というような理屈で、ニュートンの法則を否定するのは、変でしょう?
仮説を提出するためには、経験則の部分が正確に成立する必要はありません。
それらは、精度を低くした範囲内では、科学的に実証されているので、経験則ではなくて、科学です。
本項で言う経験則は、いまだ科学にはなっていないもの(未証明のもの)のことです。
これを根拠に、暗い所で本を読むことと近視になることとの間に因果関係はない、と結論することには論理の飛躍がある、というのは仰る通りです。
しかし、上記の資料があるのに、暗い所で本を読むことと近視になることとの間に因果関係があることは確からしい、という前提をとって、それを説明する仮説を唱えることに対して、疑問を呈してます。
根本的な議論だと思いますけど。
上記の資料は、「わからない」ということを意味するだけです。したがって上記の資料があってもなくても、何も意味しません。
ついでに言うと、
「暗い所で本を読むと近視にならない、ことを裏付ける医学的証拠はない」
という説も成立しますよ。単にわからないだけなんだから。
あと、仮説を立てるためには、論拠は特に必要ありません。仮説の正しさ(信頼度)に少し影響するだけであり、仮説を立てること自体は何にも制約されません。
信頼度は、読者の一人一人が決めればいいことで、仮説を立てる人は独身ライドからは自由です。
例。「宇宙人は存在する」
この仮説を立てることは自由です。根拠不要。ただし信頼度はいろいろ。
それは違うでしょう。
現代でもまだ医学的証拠が見つからないんだから、断定は出来ないけど、因果関係はなさそうだ、とは言える。
だから、因果関係があることを前提とする仮説の信頼度は、とても低いと言わざるを得ない。
でも、ツチノコは冬になると毛が白くなることを説明する理論の信頼度は、とても低い。
仮説の信頼度なんかどうだっていいんです。最終的に真偽が証明されるときまでは、どうでもいい。
仮説というのはあくまで実証の前の段階にあるのであって、仮説それ自体に意味があるわけではありません。仮説を信じる必要はさらさらない。将来的に実証される(または否定される)ための準備をするだけです。
本項は「これを信じろ」と言うためにあるわけじゃない。真実に到達するための多くの道筋のうちの一つを提供するだけだ。当たるかどうかは私にもわからないし、私は「これが正しい」と主張しているわけでもない。可能性を提示しているだけ。
仮説とは何か、をあなたはたぶん勘違いしていると思う。
──
あと、「暗いところで〜」という経験則は、「近くで見るから」という説にも共通するから、私の説だけの話ではない。
ユニコーンは存在する、という仮説を立てることは自由ですけど、誰も実証しようとは思わないでしょうね。
私は、仮説の信頼度はどうでもいいわけではない、人生は短い、という立場です。
現在、ユニコーンを探しているという人は知りませんが、雪男(野人、イエティ、ビッグフットなど)を探してい人はいるようです。
仮説の信頼度がかなり低そうでも構わないと思います。
ただし、他の人をだましたり、ミスリードしたりすることになれば問題でしょう。
科学的思考さんの言わんとすることは、
このブログは読んでいる人も多く、影響力がありそうなので、信頼度の低い仮説の正しさ(正しそうに見えるところ)を論じることによって、結果的に読者をだましたり、ミスリードしたりしてほしくないという意味だと、受け取りました。
http://blog.livedoor.jp/moriyaganka/archives/cat_1144436.htmll
アトロピンは副作用があるようですが、近視治療(進行の抑制)も進んでいるのですね。
これによると、毛様体の疲労と近視の進行の因果関係(少なくとも相関関係)は、信頼度が低くないと思います。
また、仮説によるミスリードを防止したいのであれば、それを述べるだけで良く、管理人の仮説を自説に迎合する様に修正指導する事は検閲に近く、言論の自由に反していると感じます。
様々な仮説が林立後に、それらを実証、検証する段階において、実験法、データの解釈、齟齬の指摘は有用ですがそれ以前の段階では、仮説として置いておけば良いと思います。
私自身は漠然と考えてきたことがクリアになりましたので、管理人さんには感謝しています。
これこそ言論の自由の賜物だと思います。
「 アトロピン 近視予防 」で検索すれば、出てきます。
なぜアトロピンが効くのか、現時点では不明です。以前は調節麻痺作用を介して効くと考えていましたが、極端な低濃度でも効くことを考えると否定的です。今では眼軸長(目の奥行きの長さ)を伸展させる働きのあるムスカリン受容体をアトロピンが直接ブロックしているのではないかと言われています。
調節麻痺作用を介して効く→眼精疲労が近視を進める
とは、いえないようです。
別の記事には、こんな記述がありました。
近視の原因
小児の近視が進行する原因は何でしょうか。近視の進行は、眼球が成長する時期に網膜の周辺部に遠視性の焦点のずれ(網膜の後方に結像)があることが原因ということが最近の研究によりわかってきています。
眼精疲労ではなく、網膜中央と周辺でのピントのずれが原因との説です。
インターネットで調べただけでも、いろいろ分かることもあるわけですね。
上記のことが本当に正しいのかどうかは分かりませんが、管理人さんや私の仮説の、眼精疲労(目の毛様筋疲労)が近視を進めるという部分の信頼度はかなり低下したと思います。
しかし、「暗いところで本を読むと近視が進む」という仮説の信頼度が著しく下がったとまでは思いません。
毛様体の異常を含めた水晶体の屈折異常が近視の原因というのが、水晶体の厚さでピントを調節することから理解し易いけど、長軸が長くなってしまった(網膜が後ろ過ぎる)というのが一番ありそうな原因だと思っています。
証拠やこのようなことを言っている論文を知らないから、妄想といわれたらそれまでだけどね。
だったら、各民族や各環境で同等に近視が発生しているはずですが、現実にはそうではないでしょう。アフリカあたりで近視が大量に発生しているとは聞いたことがありません。
というか、長軸方向により大きく成長は当り前であり、当たり前のことに対処できないような生物種が存在できるとは思えません。
要因がいろいろ考えられるので、整理して考えないと話がかみ合わなくなると思います。
近視の主な理由は成長期に眼球が長軸方向により大きく成長したためであり、長軸方向への成長の程度の差が遺伝的要因による部分が大きいことは分かっているようです。ただし、環境的要因が否定されているわけではありません。
近視の主ではない理由として毛様筋による水晶体の厚さ調節の異常が考えられており、この原因による近視は訓練によって治るらしいです。
眼球が長軸方向により大きく成長したための近視において、眼球を長軸方向により大きく成長させる原因として、網膜中央と周辺でのピントのずれが疑われているようです。
近視の原因として、眼球が長軸方向により大きく成長することと、毛様体の異常を含めた水晶体の屈折異常の両方が考えられています。
また、眼球成長の異常と屈折異常の両方に、遺伝的要因と環境要因が関係すると考えられます。
近視の原因
遺伝的要因による眼球成長の異常 原因は? 遺伝子が特定されれば分かってくるでしょう。
環境要因による眼球成長の異常 網膜中央と周辺でのピントのずれが原因? サルを使った動物実験で明らかになると思います。また、網膜で働く遺伝子とタンパク質がもっと詳しくわかれば、明らかになると思われます。
遺伝的要因による屈折異常 原因は? ???
環境要因による屈折異常 毛様筋の疲労が原因と考えられます。なぜ屈折異常が長く続くのか、訓練したらなぜ治るのか?
また、個人によって、どれが強く影響しているのかちがうと思います。