2014年08月14日

◆ 人は死にたくて死ぬのか?(STAP)

 自殺した人は、死にたくて死んだのか? まさか。死にたい人などいるはずがない。なのに「死にたくて死んだ」と見なす人々がいる。 ──

 笹井さんの遺書には、「不当なバッシングに疲れた」という記述があった。
 自ら命を絶つことになった理由については、マスコミ等からの不当なバッシング、理研やラボへの責任から、疲れ切ってしまったということが記されていました。
( → 産経 2014-08-12

 読めばわかるとおり、笹井さんは死にたくて死んだわけではない。マスコミなどの不当なバッシングのせいで、死に追い込まれてしまったのだ。当然、彼を死に追い込むような攻撃がなければ、彼は「疲れ切って」死を選ぶようなことはなかったはずだ。

 ところが、「死にたくて死んだのだ」と見なす人々がいる。
 たとえば、この人だ。
 僕は笹井さんに同情しない。笹井さんはやらなければいけないことが沢山あった。そこから逃げ出して、周りを、笹井さんを大切に思う何人もの人を傷つけた笹井さんの行為を、僕は絶対認める気はない。
 自殺は殺人です。殺人行為は認めません。
( → BLOGOS

 明言してはいないが、この人は笹井さんについて、「自分で積極的に死を選んだのだ」と思っているのだろう。「マスコミなどのせいで死に追い込まれたのだ」とは思っていないのだろう。
 こういうふうに「笹井さんは自ら積極的に死を選んだのだ」と思う人がいる。

 もう一人、別の人がいる。



 この人は、「笹井さんは自ら積極的に死を選んだのだ」と思っているのだろう。だから、上の発言になるわけだ。
 実際、そのあとで、こう述べている。



 「責任を感じた」というのは、「不正の責任を感じた」ということだろう。つまり、「捏造したから、捏造の責任を取って死んだ」と言いたいのだろう。

 しかしながら、実際にはそうではなかった、とすでに判明している。「マスコミなどの不当なバッシングに疲れた」のが死の理由なのだ。
 つまり、死にたくて死んだのではなくて、(マスコミなどのせいで)生きる力を奪われたから、生きることができなくなったのだ。
 つまり、生きることは針のむしろだから、針のむしろから逃れようとしたのだ。別に、「死はこのうえなく甘美な幸福だ」と思ったわけではないのだ。なのに、片瀬さんの発想では、そういう形で死を積極的に選んだのだろうということになる。

 ──

 笹井さんの死を見たら、「彼は死に追い込まれたのだ」と見るのが正しい。彼は自殺したかったのではない。自殺したくなかったのに、自殺するしかなくなったのだ。

 ここから、次の重要な結論が得られる。
 「笹井さんが捏造をしたのだとすれば、捏造の告白をするかわりに、死を選んだことになる。捏造の告白をすれば、生きることができるのに、捏造の告白をするかわりに、死を選んだ。しかしそれは、あり得ない」
 かくて、「笹井さんが捏造をしたのだとすれば」という仮定は成立しないとわかる。ゆえに、「笹井さんは捏造をしなかった」と証明された。
( ※ 背理法である。「 A ならば 矛盾」が成立する。ゆえに、「 A 」という仮定は成立しない。)

 ──

 片瀬さんは「笹井さん、自殺することなんてないのに」とツイートした。それは、「捏造ぐらいで自殺することはないのに」という意味だろう。そして、それはまさしく正しい。つまり、捏造ぐらいで自殺することはないのだ。
 彼が自殺したのは、捏造したからではなくて、片瀬さんたちが不当なバッシングをしたからだ。そのことを、片瀬さんは自分のツイートで告白しているのだ。ちょうど、真犯人が、思わぬ形で自白するように。 ……

 笹井さんは狂人ではない。捏造をしたぐらいで死ぬことなどはあり得ない。嘘をついたぐらいで死ぬことなどはあり得ない。嘘つきの罪は決して死刑ではないからだ。
 なのに、笹井さんが死んだとしたら、それは、捏造をしたからではない。他人に(実質的に)殺されたからだ。……そのことが、論理的にわかる。
 片瀬さんは、自分自身のツイートの意味を理解する方がいい。そうすれば、せめて、「自分の罪を詫びる」というだけの反省が生じるだろう。そして、それは、「自分がしたことのない罪への懺悔」とは異なる。笹井さんの場合には、捏造をしたこともないのに、「捏造したと告白しろ」と責められた。しかし、片瀬さんは違う。本人は「殺したわけじゃない」と思うだろうが、それは「殺そうと思ったわけじゃない」「殺そうという意思があったわけじゃない」というだけのことだ。殺そうという意思はともかく、「小保方さんを傷つけよう」という意思は明白にあった。つまり、「処分せよ」という言葉をまさしく記した。そして、そういう攻撃の意思が、目標を誤る形で、笹井さんに向かって、笹井さんに死をもたらしたのだ。……一種の誤爆の形で。
 片瀬さんは、「誤爆でした」というふうに弁解することはできる。しかし、「自分が死なせたのではない」という弁解は通らない。誤爆であろうと何であろうと、自分の投じた攻撃が人を死なせたからだ。ゆえに、せめて、お詫びするべきだ。
 そのことが、彼女自身を救うことにもなるはずだ。世間から責められることもなくなるだろうから。

( ※ そもそも、彼女はすでに自分のツイートで、実質的には「自分が死なせた」と告白しているのも同然なのだ。前述 の箇所。)



 【 追記 】
 片瀬さんの最新のツイート。



 これで自己正当化をしているつもりなんだろうが、逆である。なぜなら、この論理に従って、次のことが成立してしまうからだ。
 “ 故意でなくても「常識人としてわきまえるべき基本的な注意義務」を怠って死なせた場合は、(意図的な)殺人と判断する。
 
 片瀬さんが笹井さんを死なせたのは、意図的なものではなくて、錯誤によるものだろう。しかし、片瀬さんがあえて自分勝手な理屈で強弁するのであれば、片瀬さんの行為自体を「殺人」と認定するしかなくなるのだ。(ブーメランですね。)

 なお、片瀬さんの理屈のどこがおかしいかというと、こうだ。
 “ 上記のツイートの内容は、単に「不正」という用語の定義をしただけにすぎない。そこでは、通常は不正とは見なされないものが、便宜上、不正と呼ばれるだけだ。そこにある不正という用語には、悪質という意味はなく、ただの注意義務不足も含まれる。にもかかわらず、片瀬さんは、ただの注意義務を「不正」と呼ぶことから、「不正なことは悪質だ」というふうに論理を飛躍させ、「不正をしたから処分せよ」と結論する。こうして、成立しない論理を強引に成立させて、悪質性のない注意義務違反を、ひどい処分の対象にしようとした。
 ここには、「論理のすり替え」という論理的ペテンがある。この論理的ペテンが、笹井さんに死をもたらしたのだ。
 その意味で、上記のツイートを何度も繰り返して主張している片瀬さんは、笹井さんの死の首謀者といってもいいだろう。特に、今なお同じことを主張していることからして、殺意の悪質性は極めて高いと言える。たぶん、「自分が勝手に悪質な不正をしたのだから、死んだのは当然だ」と思っているのだろう。
 自己の殺人行為について、反省のかけらも見られない。というか、悲しみの色さえ、まったく窺えない。「天罰だ」とでも思っているのだろう。

( ※ この点では、発言を控え目にしている大隅さんには、反省の意がいくらか見られるだけ、悪質性は少ない。)
( ※ 片瀬さんがこういう性格であることは、片瀬さんがトンデモマニアであることに由来する。常日頃から、頭の弱い人を「トンデモだ」と攻撃することに快感を覚えて、弱者いじめばかりしているから、自分よりもはるかに頭のいい天才的学者がたまたま転んだのを見て、ここぞとばかり蹴飛ばそうとするのだ。……トンデモマニアというのは、もともとそういう性格なんだから、仕方ないのかもね。人が呼吸するように、ごくごく自然に、他人を蹴飛ばす。)



 【 関連項目 】

 本項と似た趣旨は、下記にもある。「彼の死は、捏造はなかったと教える」という趣旨。

  → 彼の死が教えること(STAP)
posted by 管理人 at 16:54| Comment(2) |  STAP細胞 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
最後のあたりに、 <FONT COLOR="#dd0000">【 追記 】</FONT> を加筆しました。
 タイムスタンプは 下記 ↓
Posted by 管理人 at 2014年08月14日 22:31
その対象者が自分の家族であっても同じようにするだろうか?
人を追い詰めて楽しいと感じるのなら自分の良心を殺すのに等しい。必死に堪えている者を公衆の面前で引きずり廻すのが楽しくて仕方ないらしい発言がネット上で沢山あります。同情はしないと言うけれど、正論ばかりで共感力を失えばさらに殺伐とした社会になるしかない。
そして思いますにマスコミや抗議学会の暴走を許したのは、悪を断罪するという我々の正義感(の様なもの=実は似て非なるもの)ではなかったのかだろうかと。

ここが問題で、そもそも内面に於いて、血に飢えた欲求を正当化する詭弁化が起こっている。それが目を曇らせてしまう。難解な哲学を引用・援用しようと不純な動機は変わらないのです。そこから如何に正論を積み上げてみても暗い動機に変わりはない。獲物が消えればまた次の獲物を探し廻るはず。動機が消えていないのだから。
自分で気がついてプログラム修正しない限り終わることはないだろうと。でももし仮にそのようにして良心に立ち返った時には、激しい後悔に襲われるのではないだろうか。一つの命に責任があるという現実は、一人で背負うには重すぎる十字架ではないかと思われます。

全体の問題として取り組むべきなのです。学会全体の問題として扱えばよかった。個人の処分を要求するような案件ではなかったはずです。また<不正>という単語。注意義務不足であっても<不正>という言葉を用いるのならば、世間一般では<=悪質>と混同されてしまう。ならば研究者が不利益を被らないように、学会全体で表現を改めればよいのにと。

自分の身内や、自分事として扱う気持ちがあれば、過剰な処分の要求や徒に人格攻撃に走ることなく、事を荒立てずに対処できるのではないかと思う次第です。
Posted by 小平の義太郎 at 2014年08月16日 18:26
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