昨日の NHK の番組を見ると、理研 CDB がやたらと予算獲得に追い込まれていたことがわかる。「成果を出せ。そのために予算を付けてやる」というわけだが、逆に言えば、「成果を出さなければ予算を出さないぞ」という脅迫だ。
このことは、「科学における成果主義」みたいな形で、しばしば発表・報道された。
研究開発分野を8分野に分け、ライフサイエンス、情報通信、環境、ナノテクノロジー・材料の4分野を特に重点を置いて優先的に資源を配分する「重点推進4分野」、エネルギー、ものづくり技術、社会基盤、フロンティアの4分野を「推進4分野」としています。各分野の中での選択と集中を徹底し、どこに集中投資するのかを明確にするため、数々の専門家も交えた作業の結果、合計273の重要な研究開発課題を選定し、それぞれの課題ごとに成果目標を設定しています。
( → 内閣府 )
ここで「選択と集中」というのは、営利企業である GE がやって成功した方法だ。儲かる特定分野に集中して、儲かりそうにない分野を切り捨てる。このことで、企業の利益体質を大幅に改善した。
では、それは、学術研究についても成立するか? 「しない」というのが、科学者の共通認識だ。科学研究というものは、「予算を集中投資すれば成果が上がる」というものではない。金よりもアイデアが大切だからだ。金を2倍かければ、成果が2倍になる、ということはない。(これが科学研究の特質だ。)
その一方で、「最低限の研究費」というものはある。別に最先端の高額な実験機器は必要なくとも、最低限のコンピュータ代とか何とかは必要だ。では、それはあるか?
「選択と集中」というのは、「予算の総額の増加」を意味しない。特定の分野ばかり優遇することだ。当然、他の分野は切り捨てられる。最低限のコンピュータ代とか何とかも与えられなくなる。要するに、「研究の切り捨て」だ。
「選択と集中」というのは、「狭く深く」であるから、「広く浅く」という科学研究とは正反対の方針である。「広く浅く」という方針のところに、「狭く深く」の方針を持ち込めば、多くの研究が切り捨てられてしまう。その結果、どうなるか? 日本の研究は、諸外国に比べて、大幅に低下した。たとえば、次のグラフがある。

図の出典
上図を見ればわかるように、日本(赤線)だけが突出して、研究成果の低下が起こっている。
この理由については、図の出典に記してある。それを引用しよう。
この図をみると、少し太めの赤線で示されている日本の論文数が、多くの国々の中で唯一異常とも感じられるカーブを描いて減少していますね。いつから減少しているかというと、国立大学が法人化された翌年の2005年から増加が鈍化して2007年から減少に転じています。他の国はすべて、右肩上がりです。
( → あまりにも異常な日本の論文数のカーブ )
国立大学が法人化されたのが原因らしい、とわかる。
さらに、似たようなグラフが、たくさんある。下記のグラフを参照。
→ 何度見ても衝撃的な日本のお家芸の論文数カーブ
日本の研究活動は、これほどにも低迷している。
それに輪をかけて、現在は「選択と集中」によって、多くの分野が切り捨てられている。(有名でないとどんどん切り捨てられる。)
では、生き残るには? 研究の重要性が大切か? いや、研究の重要性など、事前には誰もわからない。科学研究はギャンブルのようなもので、たいていは はずれて、ごく少数のものだけが生き残る。その少数のものが何であるか、あらかじめ見抜くことのできる人など、いるはずがない。
とすれば、「選択と集中」をした時点で、成功の芽の大半は摘まれてしまう、ということだ。
──
以上のような状況があった。あらゆる研究機関は追い詰められている。となると、研究機関にとって何よりも大切なのは、「生き残ること」「予算を獲得すること」となる。そして、そのためには、研究の重要性を示すのではなく、プレゼンを上手にすることが大切となる。(研究の重要性は誰にもわからないからだ。しかしプレゼンの上手下手ならば明確に差が付く。)
では、プレゼンの上手下手は、どこで差が付くか? この件は、前に述べた。
→ プレゼンの目的
ここで述べたように、プレゼンの目的は、インパクトを与えることである。逆に言えば、インパクトを与えるようなプレゼンであるべきだ。
ここから、STAP細胞の研究は生じた。なぜか? 地味ではなくて、インパクトがあるからだ。他の研究のほとんどは、専門家でなくてはわからないような、高度な研究だ。(たとえば笹井さんの研究は、高度なので、ほとんどの人は知らない。今回の大事件があっても、笹井さんの研究を知らない人がほとんどだ。 → 笹井さんの研究:眼の形成 )
結局、政府が「選択と集中」という間違った科学政策を取るがゆえに、研究機関は「生き残るためと」「予算を獲得するため」に、必死の努力をする。その必死の努力とは、立派な研究をすることではなくて、予算獲得のための努力である。それは、プレゼンで決まる。つまり、研究のインパクトで決まる。
かくて、理研 CDB では STAP細胞の研究という派手な名目を掲げるようになったのだ。
要するに、STAP細胞の問題が起こったのは、国の科学研究の方針が根本的に間違っているからだ。そのせいで、「広く薄く」という正しい方針は捨てられ、多くの重要な基礎研究が討ち死にしつつある。(というか、餓死しつつある。)
こういう状況で、何とかして生き延びようとして努力した末の徒花(あだばな)が、STAP細胞事件だったのだ。
──
STAP細胞事件というは、小保方さん一人のミスまたは悪意から生まれた事件ではない。それは、「国の科学政策が根本的に狂っている」という土壌の上に生じた、一つの典型的な失敗例なのである。
この事件を見たら、「不正をなくす(悪を根絶する)ように、制度を整備すればいい」というような方針を唱える人もいる。(昨日の NHK の番組がそうだ。)
しかし、そんなことをいくらやっても無駄なのだ。それよりはむしろ、国の科学政策そのものを根本的に改める必要があるのだ。「選択と集中」という経営の方針を持ち込むかわりに、「多くの可能性を試行錯誤する」という科学の方針を持ち込むべきなのだ。
STAP細胞の事件は、国の科学政策が根本的に間違っているということを教える。この事件で反省するならば、正しい対策を取るべきだ。正しい対策とは? 一人の女性を解雇などで処分することか? 「そうだ」と多くの人は言う。しかし、そうではないのだ。なすべきことは、国の科学政策を根本的に変えることなのだ。
すなわち、国は今、「選択と集中」という従来の科学政策を廃棄するべきなのだ。
【 関連サイト 】
→ 科学技術イノベーション 「選択と集中」 - Google 検索
政府が「選択と集中」という方針を取っている、ということがここでわかる。
たとえば、STАP細胞について考えるとき、普通の人は「善か悪か」ということばかりを考えるが、私は「国の科学政策と結びつける」というようなことまで考える。遠い異質なものとの共通性を考える。
そして、このような広い範囲の発想から、独創的な発想が生まれることが多い。(政府ならば、「大金をかければ独創的な発想が生じるはずだ」と思うだろうが、そんなことはありません。アイデアには金はかかりません。)
GEだけではなくGoogleやAmazon、Appleなどが大きく伸びたけど、国内企業は研究開発も事業も彼等に太刀打ち出来ず、半導体やディスプレイなどの事業も凋落した事例と、限られた人材と金の配分を考えたのでしょうね。
これは企業のやり方です。
国家は浅く広く、成果を海外からライセンスなどで得る。という仕組みを作り、研究開発は投機に近い投資だというコンセンサスを根付かせる努力が必要ですね。
理研は創業精神に立ち返れば、国家戦略なんざ無視して研究開発と事業を進めそうなんですけどね。
今、日本はとんでもない状況になりつつあるようで、背筋がぞーっとしました。国際収支が、貿易収支の赤字が拡大し、所得収支も減少して0を通り越して赤字になって、経常収支が大幅に赤字になるというシナリオを思い浮かべてしまいました。
今までに稼いだ分の対外資産があるのですぐに債務国になってしまうわけでは無いそうですが、日本の将来は暗そうです。
何か、自分にできることはあるのか、考えたいと思います。
→ http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140725/k10013289011000.html
大騒ぎが起こったあとで、「関係者を処分するのが最重要のことだ」という判断。呆れる。そんな下らないことは、学術会議の仕事ではないだろう。学術会議の仕事は、一国全体の科学政策の是非だ。なのに、その肝心な点をほったらかしておいて、どうでもいいようなワイドショーみたいな話題ばかりに熱中している。彼らの頭はそんなことにしか向かわないのか? その程度の頭しかないのか?
>今、日本はとんでもない状況になりつつあるようで、背筋がぞーっとしました。
私は工業技術が専門のくせに貿易経済学みたいなこともある程度は齧ってしまうのですが、先進国と発展途上国が貿易を行う時に、どっちの国内がよりハッピーになるかというと、実は発展途上国側なんです。先進国側は貿易をすればするほど国内に解決すべき問題がたまってしまう傾向があります。少しそのことを説明します。
多くの日本人が理解していないのは「輸出輸入は均衡する」という原則です。もちろん短期的には輸出超過(貿易黒字)や輸入超過(貿易赤字)になりますが、永久に貿易黒字を溜めこみ続けることは不可能ですし、貿易赤字を溜めこみ続けることも不可能です。日本人は「赤字はやがて他国が許さなくなるので不可能だか、黒字はいくらでも溜め込める」と信じているように見えます。ところが、それを許さなくするのが為替変動になります。
リカードの比較優位論の時代から分かっていることとして、輸出超過が起きるとその国の貨幣は国際的に高値になります。輸出というのが物やサービスを国外に出し、国外に出ているその国の貨幣を国内に戻すことになるため、国際貨幣市場でその国の貨幣が品薄になり高値となる訳です。
その結果として輸出は起こりにくく輸入は起こりやすくなります。つまり自然に輸出入をバランスさせようとする動きが為替レートに現れます。日本人は1985年のプラザ合意以降、この自然な流れと闘ってきた面があります。輸出超過を起こしながら、その結果として起きる円高を生産価格を引き下げることで対応しようとしてきたわけです。先進国になるほど生産価格に占める人件費の割合が高くなりますから、要は労働者の賃金を下げる形で輸出超過によって起きる円高と闘ってきたわけです。
ストルパー・サミエルソンの定理と言われるものがありますが、先進国と発展途上国が貿易をした場合に、発展途上国では労働集約型産業が隆盛しその賃金が上昇し代わりに専門性産業の賃金は低下する傾向が生じます。先進国でこの逆に専門性産業が隆盛し労働集約型産業が沈滞する現象が生じます。これは、一般に先進国の輸出品が専門性の高い電気・電子製品や自動車であり、発展途上国の輸出品が農産物、衣料品、日用品など労働集約性が高いことから起きる現象です。
問題は、一国の中でそれぞれの仕事に従事する労働者数が異なるということです。かなりいい加減な推定ですが、例えば自動車を10兆円分輸出するとします。その自動車生産に関わって雇用される労働者は80万人くらいだろうと考えています。しかし、輸出だけの貿易はありませんから、10兆円売ったら何かを10兆円購入することになります。国内でも生産できていた農産物を10兆円輸入すると、国内の農業はその分打撃を受ける訳ですが、その結果として農業で必要でなくなる労働力は150万人程度になると考えています。農産物でなく衣料品とすると120万人くらいの失業となるだろうと考えます。何が言いたいかというと、先進国は発展途上国と貿易するほど国内の失業問題と向き合うことが必要となるということです。
日本は1970年くらいまで発展途上国型の貿易を行ってきました。つまり労働集約型の産物の輸出国であったのです。その時代には国民の所得が伸び国内消費も活発となり好景気が続くということが起こりました。その時に日本人に信念が植え付けられました「貿易すれば日本はハッピーになる」です。そして10年程度の中間時期を挟んで1980年代からは先進国型産物の輸出国となったわけです。すると日本人の抜きがたい信念に反することが起き始めます。農業が打撃を受けたり、衣料品や日用品などの会社が廃業に追い込まれたりするようになった訳です。
本来は、適当な貿易コントロールを行った方が良いと私などは思うのですが、日本人の抜きがたい信念は「貿易すればするほど我が国はハッピーになるはずだから、これで良い」と先進国型貿易を「国内に無理をかけても続ける」をやっているわけです。
とまあ、貿易経済学を少しだけ齧った技術者のたわごとです、読み流してください(笑)。
昔の中国には洞察力のある賢人がいた(今の中国にはいない)。
「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」と喝破した人は凄い。
名馬はいつでもいるけれど、それを見抜く人はいつもいるとは限らないという趣旨。
だから、たとえ名馬がいても、見抜く人がいなければ、つまらない者にこき使われて、
飼い葉桶に首を並べて死んでしまう。千里も走る名馬とはいわれないままで終わる。
山中伸哉氏の例では、何人かの伯楽に救われている。
1)大阪市立大学大学院(薬理学)の入試面接で、落ちかけていた山中氏の意欲を
買った先生。
2)公募に応募した山中氏を採用したグラッドストーン研究所の先生。
3)奈良先端大の募集広告に応募した山中氏を採用した先生。
4)科学技術振興機構の研究費に応募した山中氏を応援した先生。
審査担当だった岸本忠三・元大阪大学長は、
「イラストを使った説明には説得力があった。(iPS細胞は)できるわけがないと思ったが、
『百に一つも当たればいい。こういう人から何か出てくるかもしれん。よし、応援したれ』
という気になった」と 述懐。山中氏の人間力が発する磁力に感応されたのかも。
日本の科学技術政策や研究審査などは、眼識のある先生方が必要不可欠でしょう。
若い使命感を持った「馬の骨たち」に機会を与えることが、新しい芽を生む。研究資金
を広く薄く撒くことは、大地を耕すに似ている。
有り余る資金と評価制度は、「使い切る」という悩みと物品情報と伝票の洪水整理、
ありばい用の余計な研究と研究成果報告資料作成などで疲弊する。
選択と集中は、管理人さんが指摘されるように、投下資金量と成果は比例しない。
選択と集中は、下手すると「1将も功ならずして、万骨枯れる」。資金を断たれた研究
は枯死する。資金を集中された研究は「失敗しました」といえないので、後追い研究に
軸足を移すようになる。
独創研究は大概は失敗する。それも成果と認める文化が必要。
天下三分の計などどうだろうか。Aは、文科系官僚が良いと思う制度づくり、Bは、
後追い研究型の先生方が良いと思う制度づくり、Cは、独創的研究で成果をあげて
こられた先生方が良いと思う制度づくり。世渡り力の研究者はAへ、学校秀才型の
研究者はBへ、研究に使命感と夢を抱く研究者はCへ吸い寄せられるだろう。
一種の棲見分け論である。理研はCで行くのが良いのではないだろうか。