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( ※ 本項の実際の掲載日は 2014-06-02 です。)
よく似た質問に、次の質問がある。
「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」
これに対する解答は、簡単だ。
「勉強をしなくちゃいけない、ということはない。勉強をすることは、権利であって、義務ではない。したくなければ、しなくてもいいのだ」
たとえば、二宮尊徳の例がある。彼は子供のころ、勉強をしたくて仕方ないので、薪を背負う労働をしながらも、勉強をした。
また、寺子屋で学ぶ金がなくて、寺子屋から漏れる声を聞きながら自学した、というような話も伝えられている。これほどにも教育を望む意欲があった。
また、カンボジアでも、「小学校がないので、小学校で学びたい」という子供の声がテレビで話題になったこともある。
アフリカなどでは、今でも小学校のない国が多い。そういう国では、子供が教育を受けたがっている。しかし、彼らには教育の権利や機会が施されない。
一方、日本の子供は、教育を受ける権利を享受できる。それが不満であれば、教育を受ける必要はないのだ。
かわりに、どうするか? 一日中、遊んでいるか? いや、それでは飯を与えられないだろう。貧しい途上国では、子供は教育を受けられず、かわりに朝から晩まで働く。おしんみたいなものだ。教育を受けるかわりに、労働の義務が生じる。
今の子供は、労働を免除され(延期され)、教育を受けることができる。それがイヤならば、いくらでも拒否していい。明日から小学校に行くのをやめて、朝から晩まで汗水垂らして働けばいい。おしんみたいに。
教育を受ける権利を放棄したければ、いくらでも放棄していいのである。
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ただ、一方で、「教育の義務」も存在する。それは、子供の「教育を受ける義務」ではなくて、親の「(わが子に)教育を受けさせる義務」である。これが「義務教育」の「義務」という意味だ。
ではなぜ、このような義務が生じるのか?
それには、義務教育のある国とない国とを、比較すればいい。
義務教育のある国では、子供は一定年齢まで義務的に学ぶ。途上国では小学生ぐらいだけだが、先進国では中学生ぐらいまで。日本のような国だと、高校までが実質的に義務教育の扱いとなる。(民主党が高校の無料化という政策を取ったので。)
一方、義務教育のない国(もしくは形骸化している国)だと、教育レベルが低くて、識字率も低い。数十年前の東南アジア各国がそうだったし、今でもアフリカの一部の国ではそういう状況にある。また、インドやパキスタンでもかなり教育レベルが低い。そのせいで、「好きな男と結婚した女性が殺される」というような事件も起こる。( → 報道1 ,報道2 )
教育制度のない国には、文明はない。人と人が尊重し合うこともなく、好きな相手と結婚することもなく、暴力と殺害がまかり通る。たとえ生きながらえても、そこでは貧しくて苦しい生活があるだけだ。
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ここまで見れば、わかるだろう。人には次のように二つの可能性がある。
・ 先進国に生まれて、文明的な生活をする。
・ 後進国に生まれて、非文明的な生活をする。
ここに選択肢はない。人は、どの国に生まれるかは、自分では選ぶことができない。生まれつき、どの国に生まれたかは決まっている。
そして、日本人の場合には、運良く前者となった。つまり、「先進国に生まれて、文明的な生活をする」というふうになった。
ただし、そこでは、「義務教育」という制度が成立しているのだ。なぜなら、その制度がなければ、文明は崩壊してしまうからだ。誰もが勉強しなければ、文明社会は崩壊して、ただの未開社会に戻ってしまう。だからこそ、そこには「義務教育」という制度が成立する。
とはいえ、ここでは、制度間の移行が(半面的に)可能だ。
・ 後進国から先進国に移行することはできない。
・ 先進国から後進国に移行することはできる。
たとえば、アフリカの子供は、「日本で義務教育を受けたい」と思っても、その望みは叶わない。「日本に入りたい」と言っても、門前払いされる。
一方、日本の子供がアフリカに行きたければ、それは可能である。どこかの子供が「日本で暮らすのはイヤだ。アフリカで暮らしたい。そこでは勉強しなくてもいいのだから」と思うのであれば、アフリカに行くことは可能だ。そこで一人で勝手に生きればいい。ただし、自分で労働をしなければ、その日の食事を得ることもできない。おしんのように働く必要があるのだ。また、たとえ働いても、肉や魚を食うことはできない。たいていは穀類しか食べられない。たとえば、タロイモに塩を付けるというふうな。それでも、ときどきは、タンパク質の豊富なごちそうを食べることができる。それは、虫である。次のような。
→ 国連機関が昆虫食のススメ
というわけで、勉強したくなければ、「義務教育」のある日本を脱して、アフリカで暮らせばいいのだ。そこでは、教育を受けるかわりに、労働をして生きることができる。そしてまた、肉や魚を食べる文明生活を送るかわりに、タロイモや昆虫を食う非文明生活を送ることができる。そうしたければ、そうしてもいいのだ。その選択肢はある。
「勉強しない自由」は、たしかにあるのだ。だから、その選択肢を取りたければ、取っていいのだ。
ただし、その際、勘違いしてはならない。「勉強しない自由」とは、「遊んで生きていける自由」ではない。「働いて生きる」か、「働かないで餓死する」か、そのいずれかである。
「遊んで生きていける自由」なんてものは、存在しない。そんなユートピアは、人類が始まって以来、一度も実現していない。そこを勘違いしてはならないのだ。
ただ、子供に限っては、「遊んで生きていける自由」が幼少時代には成立するように見える。とはいえ、それが成立するように見えるのは、親が養ってくれるからだ。つまり、親の愛情があるからだ。
もし親がいなければ? その場合は、児童養護施設で暮らすしかない。すると、高校までなら何とかなるとしても、大学には進学できない。どうしても進学したければ、奨学金を受けるしかないが、結果的には、大学卒業時には莫大な借金を背負うことになる。
→ 奨学金で大卒時には582万円の借金
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ここまで理解すれば、「教育を受けること」が、どれほどすばらしいことであるかわかるだろう。もし先進国に生まれなければ、教育は受けられなかった。また、先進国に生まれても、親がいなければ、大学には進学しにくい。たいていの子供が、勉強すれば大学まで行くことができるのは、とてもすばらしい幸運であるのだ。そして、その幸運を理解できないのであれば、さっさと幸運を手放して、不幸な人生を送ることもできる。……おしんのような。
ただ、以上のことは、馬鹿に教えても、馬鹿は理解できないだろう。それでも、教育を受けた人ならば、以上の話を理解できるだろう。
つまり、教育を受けることの効果は、教育を受けることのすばらしさを理解できることなのだ。馬鹿は自分が何を受け取ったかも理解できない。しかし賢者は自分が何を受け取ったかを理解できる。特に、教育というものが素晴らしい宝であることを理解できる。
そしてまた、それを得ることができるのは、他者のおかげだということもわかる。日本という国を構築してくれた、歴史上の先人たち。今の日本を支えてくれる、多数の労働者たち。赤ん坊時代から今日まで、その子供自身(自分自身)を育ててくれた、父と母。……これらの人々のおかげで、自分は今きちんと学ぶことができるのだ。
教育を受けることの最大の効果は、教育を受けることのすばらしさを理解できることだ。
教育の効果は、文明社会の一員となることだ。全体の一部になることだ。それは、「子供のころには社会から多大なものを受け取り、大人になってからは社会のために貢献する」ということだ。つまり、「贈られたものを返す」ということだ。
これは、文明社会の原理であるが、同時に、生物の原理でもある。
文明人としての人は、幼いときに社会から受け取ったものを、成長してから社会に返す。
生物としての人は、幼いときに前世代から受け取ったものを、成長してから次世代に返す。(親に育ててもらったあとで、自分の子を育てる。詳しくは → 利全主義と系統 (生命の本質): Open ブログ )
これは、「共助の原理」と言ってもいいし、「ギブ・アンド・テークの原理」と言ってもいい。(ただし、ギブした相手からテークするのではない。相手は別々だ。)
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なお、ここでは、「自分の利益を増すため」というような原理は一切成立していない。このことに注意しよう。
教育は、自分の利益を増すためになすのではない。「共助の原理」において、自分も社会もいっしょに利益を増すためにあるのだ。だから、「勉強すると、自分にとってどんな利益があるの?」というような質問は、最初から間違っているわけだ。また、親が「あなたにとってこのように利益がありますよ」というふうに利益主義で答えることも間違っているわけだ。
教育の効果は、金儲けでもないし、出世でもない。「自分自身にとってどれほど有利になるか」という利益獲得のためではない。
しいて言えば、「将来の選択肢を増やすため」と言えそうだ。だが、別に、将来の選択肢がすでに一つしかないような人(スポーツマンや特定専門職になることが決まっている人)なら、教育を受けなくてもいいかというと、そうでもない。将来の自由度と、教育とは、特に関係はない。(かなり役立つことが多い、という程度だ。)
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教育は、何らかの目的のためになすのではない。では、どうしてか? それを理解するには、生物の原理と比較するといい。
生物では、親が子を育てる。しかし、親が子を育てるのは、何らかの目的のためではない。
親が子を育てるのは、なぜか? 何らかの目的や理由があるわけではない。「親が子を育てる」という原理のない生物は、滅びてしまうのである。特に、哺乳類はそうだ。
それと同様に、「教育のない文明」というものは、文明が崩壊して滅びてしまうのである。特に、先進国はそうだ。
換言すれば、こうだ。子供が「何で勉強をする必要があるの?」と問うことができるのは、先人がいずれも教育を受けて文明を構築してきたからだ。一方、未開国の子供は、「何で勉強をする必要があるの?」というような質問を発することはない。朝から晩まで、汗水垂らして働くだけだ。
「何で勉強をする必要があるの?」と子供が疑問を出したならば、「なぜそういう疑問を出せるのだろう?」と問い返すといいだろう。そして、そういう疑問を出せないアフリカの子供との比較を促すといいだろう。
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最後に、比喩的に述べよう。
「人はなぜ生きるの?」
「人はなんのために生きるの?」
と子供は問うかもしれない。そのとき、親はうまく正解を出すことはできないだろう。
「これこれのため」
というふうに、目的を示すことはできないだろうし、また、理由を示すこともできないだろう。
むしろ、次のように答える方がいい。
「おまえがそういう質問ができるのは、おまえが今まさしく生きているからなんだ」
そう聞いたとき、子供は何らかの真実を知ったと感じるだろう。
教育もまた同じ。
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《 オマケ 》
上記を読んだだけでは、「質問に対する回答がない」と感じる人もいるかもしれない。回答はすでに書かれているのだが、ろくに勉強をしてこなかった人は、読解力がないので、話を読んでも理解できないかもしれない。
そこで勉強をしてこなかった人のために、わかりやすく書こう。蛇足ふうに。
「何のために勉強をするの?」
という質問には、
「何のためでもない。目的などはない」
というのが正解だ。
「なぜ勉強するの?」
という質問への回答は、こうだ。
「勉強をする権利が(日本の)法律で認められているから、勉強をすることができる」
ここでは、勉強は、権利ゆえに「することができる」だけだ。義務などはない。勉強をするのがイヤなら、勉強をしなくてもいい。ただし、遊ぶことは許されない。かわりに、さっさと働け。おしんのように。
働きたくなければ? 飯はもらえない。「働かざる者食うべからず」だ。……ただし、働かなくても、当面は親に養われて、飯を食うことはできる。とはいえ、それは親が養ってくれるからだ。当面は飯を食えるが、将来的には、親がいなくなる。そうなれば、飯を食えなくなる。勉強をしてこなければ、まともな職に就けないからだ。
ま、奴隷になりたいのであれば、話は別だ。朝から晩まで必死に働いて、最低限の給料しかもらえない、という奴隷待遇でも良ければ、遊んでいろ。今遊んで、将来は奴隷になる。そうしたければ、そうしてもいいのだ。
ただし、親が子供を真に愛しているならば、「勉強をしなくてもいい」とは言わないだろう。かわりに、厳しく躾けて、「勉強をすることの大切さ」を教えてくれるだろう。
子供が勉強をすることができるとしたら、それは、親の愛ゆえなのだ。親の愛を受けない子供は、ろくに勉強をする機会も与えられない。大学にも行けず、能力を発揮することもできず、奴隷に似た境遇になることが多い。
子供が勉強をすることができるとしたら、それは、親の愛のおかげなのだ。
( ※ ただし、たとえ親に愛があったとしても、親が極度に貧しければ、子供を養うことができない。となると、子供は自分の食い扶持を得るために働きに出るしかない。その例が、おしんだ。おしんは、ろくに学校に行くこともできなかった。 → あらすじ )
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なお、どうしても「何のため?」という形での質問に答えてほしいのであれば、次のように答えることができる。
何のために勉強するか? 金や富などを得るためではない。勉強をするのは、勉強をすること自体のためだ。それはつまり、「成長するためだ」と言える。
人は努力しなければ、成長することはできない。スポーツで練習をするのも、学校で勉強をするのも、成長するためだ。
つまり、子供が勉強をするのは、子供ではなくなるためだ。
そして、その努力を怠った子供は、いつまでも子供のまま大人となる。それは社会的にはゴミと同じである。体が大人で頭が子供の大人などは、存在価値はない。ただの奴隷となるしかない。
子供が勉強をするのは、子供ではなくなるためなのだ。そして、そのことが理解できないのは、子供がいまだに子供だからだ。「何のために勉強するの?」と子供が疑問を発するのは、その回答を理解できないほど子供が愚かだからだ。
小学生や中学生のころには、その疑問を発することもあるだろう。しかし高校生になれば、自分がなぜ勉強をするのかは、自分でわかるようになる。「自分が勉強をするという道を選択したからだ」と。
[ 付記1 ]
ともあれ、教育を受ければ、いろいろと疑問を出して考えることができる。一方、教育受けられなければ、人間よりは犬のように汗水垂らして働くしかないのである。奴隷のように。
そして、奴隷になりたいのであれば、勉強をする必要はない。そう教えて上げるといいだろう。
実際、子供時代にろくに勉強をしなかった人たちは、大人になっても、非正規労働者となって、奴隷のように働くしかない。奴隷になりたければ、勉強をしないで遊んでいればいいのだ。そうすれば、望み通り、奴隷になれる。実際、今の日本には、奴隷のような大人があふれている。
[ 付記2 ]
ついでに言えば、政府もまた、奴隷を歓迎している。
「残業手当をゼロにして労働者をこき使いたい」
という方向で政府は国を動かそうとしている。日本は奴隷を必要としているのだ。だから、勉強したくなければ、しないでいいのだ。そうすれば、大人になったとき、奴隷になれる。つまり、非正規労働者になれる。……そうなりたければ、なっていいのだ。首相がその方針を推進しているのだから。
[ 補足 ]
「何のために勉強するの?」
という疑問が無意味であることは、次の疑問と比較するといい。
「何のために走るの?」
「なぜ走るの?」
たとえば、野球選手やサッカー選手は、練習でしきりに走る。では、何のために走るのか? どこか目的地に到達するためか? そういう目的地があるのか?
あるいは、何らかの理由ゆえに、走ることを強いられているのか?
いや、どちらでもない。スポーツマンが練習でしきりに走るのは、走ること自体が大切だからだ。彼らが走るときには、目的地もないし、理由もない。彼らはただ走るために走る。走ることが大切だと知っているからだ。
それは、生きることと同様である。生きることが大切だと知っている人は、より良く生きるために、懸命に努力して生きる。
勉強もまた同じ。それは、どこかの目的地(到達点)をめざしているからではないし、何らかの理由(原因)があるからでもない。勉強をするのは、勉強をすることが大切だと知っているからだ。
途上国の子供は、それをよく知っている。ところが先進国の子供は、それをよく知っていないのだ。あまりにも恵まれているがゆえに、学ぶことの大切さという肝心のことを知りえないのだ。
先進国の子供にそれを理解させるには、途上国の子供の姿を教えるといいかもしれない。
- ( ※ あるいは、先進国の子供たちを、何らかの「知的な飢餓状態」に置くことが有効かもしれない。たとえば、無人島のサバイバル訓練をさせるとか。参考としては、こんなサイトもある。 → サバイバル ヤルオ [超長編])
【 関連項目 】
勉強なさい、勉強なさい〜
大人は子供に命令するよ、勉強なさい〜
偉くなるために、お金持ちになるために
ひょっこりひょうたん島から。詳しくは下記で。
→ 勉強なさい 〜 偉くなるために
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生物の原理については、下記を参照。
→ 利全主義と系統 (生命の本質)
※ 生物の原理は利己主義ではない、ということを示す。
「金儲けが目的だ」「自分の利益が目的だ」ということはない。
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本項には続編があります。
→ (続)何のために勉強するの? (次項)
インド人だけじゃない。東南アジアの人たちも激烈なほど向学心、向上心が高い。
一方でカリフォルニアで白人のエンジニアはコア開発かマネージャくらいなもので、ほとんど見ることがない。フードコートで働く白人の多さばかり印象に残る。その中の一人「エンリケ」と名札に書かれた大男は眠そうな目でボケーっとしているのがまだ忘れられない。
たしかに勉強する・しないは自由だ。が、勉強するにはこれほど恵まれた環境は世界中であまりないとも思う。そもそも専門書の入門編くらいなら母国語で読めるなんて奇跡のように感じる。
ソウルの書店なぞではプログラミング言語C#の入門書ですら英語の輸入物だった。(探し方が悪いのかも。でもComputerコーナーに目につくように置いてあったのは事実)
人は失ってみないとそのありがたみを理解できないものだとしたら、あまりにももったいない話だと思います。
乱文お許しください。
その『やる気』が無い、という学生・生徒が多いのは、先進国病なのか、日本病なのか。
政府は、ある程度の学力と知識を持った、しかし知恵と思考力はあまり持たない、そういう学生を量産することを目指しているかのようです。
まさに今の教育はその方針でなされている気がします。それが本当に目指していることであれば、日本の教育は大成功と言えるでしょう。
日本の教育は全くダメ、という意識を文科省関係者が全く持っていないのは、教育に対する意識の違いが根本原因だと思えます。
まぁ世界で相対的に考えれば日本の教育制度はそれほど悪くないと思いますが、根本的な欠陥(論理的な思考力を鍛えるカリキュラムが無い)を直さないと、日本はどんどん悪くなっていく気がしてなりません。