小保方さんの会見のあとで、画像の加工や取り違えについて、「捏造の有無」が論議されている。新聞やテレビでも大騒ぎが続いている。
私としては、STAP細胞についてはもはや関わるつもりはなかったが、STAP細胞から離れて、「科学的論議のなし方」という観点から、考察を加えてみる。
──
「捏造の有無」が論議されているが、見当違いすぎる。この論議はすべて無駄である。なぜか? 捏造の有無を言うなら、それは単に定義の問題であるにすぎないからだ。
つまり、「捏造」の定義が次のいずれかによる。
・ 故意の捏造のみに限定する。
・ 過失の捏造も含める。
「捏造」を、故意の捏造のみに限定するのであれば、今回の例は「ミス」「過失」「愚かさ」に帰因するものであるであるから、「捏造」とは言いがたい。少なくとも「意図的な(故意の)捏造」とは言いがたい。やったこと自体は意図的だが、それが不正に当たると気づかなかったからだ。
別項コメント欄(非表示)で示された例で言うと、次のようなものだ。
「右折禁止であるということに気づかないまま、右折してしまったことは、違法行為である。しかしそれは、意図的な違法行為ではない」
この例では、右折したこと自体は意図的な行為であるが、右折禁止であると気づかなかったのだから、故意の違法行為ではない。ただの過失である。つまり、違法性はあるが、悪質さはない。(小保方さんの例では「悪意がない」という言葉が使われるが、むしろ「悪質さがない」と言うべきだろう。)
ともあれ、「意図的であるか/意図的でないか」によって、「過失ではない/過失である」というふうに区別される。この二つは別々のことだ。
そして、画像の加工や取り違えについて、「過失によるもの」を「捏造」と呼ぶか否かで、「捏造であるか否か」は決まる。……これは単に、言葉の定義の問題であるにすぎない。
したがって、ここから先は、ただの用語の問題であるにすぎない。用語の定義しだいで、どうにでも結論は変わる。
一部の人は次のように主張する。
「日常用語では捏造には当たらないだろうが、科学の世界では過失によるものでも捏造に当たる。ゆえに今回の例は捏造である!」
こんなことを主張する人は、頭があまりにも非科学的すぎる。
言葉については、「科学の世界の言葉だけが真実であり、日常用語の世界の言葉は真実ではない」ということはない。それはただの思い上がりである。それは「言葉は定義しだいだ」ということを理解できていない、唯我独尊の発送だ。
実は、これと似たことを主張する人は、ときどきいる。
「生物種は学名で呼ぶのが正しい。日常用語で呼ぶのは間違っている!」
これによって、次のように主張する。
・ 「桜」は「サクラ」とカタカナで書くべきだ。
・ 「虎」は「トラ」とカタカナで書くべきだ。
しかし、このような主張は馬鹿げている。日常用語では日常用語として漢字を使うことに何の差し支えもない。学名がカタカナだからといって、「カタカナだけが正しい」ということにはならない。
要するに、「学者の正式の用語だけが真実だ」ということはない。そんな主張は、学者の思い上がりだ。
「捏造」という用語もまたしかり。言葉の意味は定義しだいでどうにでもなるのだから、一方の定義だけが正しくて他方の定義は間違っている、というようなことはない。「自分の使っている用語法だけが正しい」なんて思うのは、あまりにも非科学的だ。
はっきり言おう。真実というものは、人間の言葉遣いとしての用語の定義によって決まるものではない。この世界の内部で、人間意識とは無関係に決まっているものだけが、自然科学の世界における真実である。このことを忘れてはならない。
──
では、今回の例で言えば、どうか? 本質的なのは、次のことだ。
「画像の加工などがあったとして、原本となる真正の画像は存在したか?」
これがポイントとなる。
(1) 過去の例
過去の捏造の例では、原本となる真正の画像は存在しなかった。
たとえば、 ES細胞の例では、捏造画像の原本となる真正の画像は存在しなかった。超伝導の例では、捏造データの原本となる真正のデータは存在しなかった。
いずれの例でも、捏造されたものだけがあり、真正のものは存在しなかった。
(2) 批判者の主張
批判者の主張は、こうだった。
「STAP細胞の画像は、捏造されたものだ。ゆえに、真正の画像は存在しない。
切り貼りの画像の例では、切り貼りされる前のデータは、STAP細胞の存在を示すものではなかったはずだ。また、テラトーマの画像では、テラトーマは存在しなかったはずだ」
(3) 現実
現実には、(2) の主張は覆された。小保方さんの主張によれば、こうなる。
「STAP細胞の画像は、加工や取り違えがあった。そこにはミスがあった。しかしながら、真正の画像は存在する。
切り貼りの画像の例では、切り貼りされる前のデータは、STAP細胞の存在を示すものであった。(加工される前のデータは真正のものだった。)
テラトーマの画像では、画像は間違えたが、別途、テラトーマは存在した。(だからテラトーマの画像は別に存在した。)」」
以上を整理すれば、こうなる。
批判論者は、「証拠がデタラメだから、証拠の示す真実は存在しない」と主張した。
しかしながら、そこには論理の飛躍がある。「証拠がデタラメだ」ということは、「証拠が示すことは真実だとは言えない」と結論できるだけであり、「証拠が示すことは虚偽だ」とまでは結論できないのだ。(「白ではない」と言えるが、「黒だ」とまでは言えない。「灰色だ」=「過失だ」という可能性がある。)
端的に言えば、論文のデータがデタラメだらけであることは、「STAP細胞は存在する」とは言えないが、「STAP細胞は存在しない」とまでは言えないのだ。
なのに、批判者はそこを勘違いしている。
「STAP細胞の論文がデタラメだから、STAP細胞は存在しない!」
「画像の加工は捏造だから、加工の前の画像は存在しない!」
「画像の取り違えは捏造だから、取り違えをしていない画像は存在しない!」
これはあまりにもひどい論理の飛躍だ。非科学的すぎる。たとえれば、こういう感じだ。
「あいつは嘘つきだ。ゆえに、あいつの語ることのすべてについて、その逆が真実だ! あいつが『地球は丸い』と主張したなら、『地球は平らだ』というのが真実なのだ!」
馬鹿馬鹿しすぎる。気違いじみている。
とにかく、次の二つはまったく異なるのだ。
「それが真実だとは言えない」
「それは虚偽である」(= それの否定が真実である)
なのに、この二つを混同しているのが、批判者だ。
──
結論。
なるほど、小保方さんのやったことは、妥当ではない。しかし、そのことが「意図的なものかどうか」に着目すれば、「捏造かどうか」はただの言葉の定義の問題にすぎないとわかる。定義しだいでどうにでもなるのだ。
なのに、科学の世界の狭い定義に従って、「こいつは捏造だ」と決めつけると、真実を見抜けなくなる。
「科学の世界の定義では、意図的でなくても捏造だ。ゆえにこれは捏造だ。一方、これは捏造だから、意図的にやったのに決まっている」
このような主張は、もはや自己矛盾をしている。そして、その自己矛盾した主張に基づいて、次のように結論する。
「画像の操作が意図的だったとすれば、真正となる画像は存在しなかったのに決まっている。つまり、画像が主張しようとしたこととは逆のことが真実である。つまり、TCR再構成はなかったのだ」
ところが、現実には、その主張とは逆のことが真実だったと判明した。つまり、加工される前の画像は、「TCR再構成はあった」ということが示されているのだ! つまり、この画像については、真正の画像が存在したのだ。
→ 前出項目の (1)
また、テラトーマの画像にしても、真正の画像が存在することから、「テラトーマはまさしく存在した」ということが結論されるのだ。
→ 前出項目の (3)
こうして、批判者の主張は完全に崩壊する。
──
批判者の主張は完全な間違いだ。それは論理的な飛躍に基づく、あまりにも非科学的な主張であるからだ。
このことを、人々は理解するべきだ。今のマスコミでは、「捏造か否か」を巡って、まったく無駄な馬鹿げた論議をしている。しかし、そのすべては、非科学的な無駄論議なのである。そこには科学のかけらもない。ただの無知蒙昧による「砂上の楼閣」みたいなものであるにすぎない。そこでいくら議論を重ねても、どのような真実も得られないのである。
( ※ その理由は、「白でないから黒だ」というデタラメ論理。狂気の論理。)
[ 付記 ]
誤解を招きやすいので、注釈しておこう。
「捏造論者の意見はまったくの間違いである」とは言えるが、「捏造論者の意見の逆が正しい」と結論されるわけでもない。ではどういうことかというと、「ここにはどんな真実もない」というのが正しい。
実を言うと、今回の二つの画像では、小保方さんの示した画像が真正の画像であったとしても、それはまったく無意味である。なぜなら、その画像が真性であったとしても、実験が真正でないからだ。というのは、その実験は、コンタミによるデタラメ実験であるはずだからだ。
・ TCR再構成の実験
・ テラトーマの実験
この二つの実験のいずれも、「 ES細胞のコンタミ」である可能性が極めて高い。つまり、そこで示されたデータは、「 STAP細胞に関する真正のデータ」ではなくて、「ES細胞に関する真正のデータ」なのである。
とすれば、ここで「真正のデータが存在するか否か」を議論しても、まったく無意味である。なぜなら、「 ES細胞についての真正のデータである」ことを証明しても、「 STAP細胞についての真正のデータである」ことは証明されないからだ。
結局、ここで示されるのは、「悪質な意図的な捏造ではなかったこと」つまり「デタラメさによる実験ミスであった」ことだけである。何らかの真実が示されるわけではない。
その意味で、ここで「捏造があったか否か」をいくら論議しても、何らかの真実が判明するわけではない。すべての論議は砂上の楼閣のような無駄論議である。世間の人々が騒いでいるのは、ただの壮大な無駄なのである。
だから、本項の結論は、冒頭に述べた通りだ。
「 STAP細胞の論文の画像に関して、捏造の有無について論議がなされている。だが、あまりにも馬鹿げている」
世間の論議のすべては、ただの無駄論議である。── このことに気づくべきだ。このことだけが、本当の真実である。
[ 余談 ]
今回の例から教訓を得るとすれば、こうなる。
「他人を攻撃することばかりに熱中すると、目をふさがれる。自分好みの面だけを見るようになり、真実を見ることができなくなる。そのせいで巨大な妄想を信じるようになる」
これは、小保方さんにも少しは当てはまるが、それにもまして、批判者にぴったりと当てはまる。
小保方さんのなした愚かさと同じ失敗を、小保方さんを攻撃する批判者もまたそっくりなぞっているのである。いわば、落とし穴に はまった人を笑っている人が、自分でもまた落とし穴に はまるように。
ほとんど笑い話だ。
【 注記 】
本項では、STAP細胞そのものの真偽については議論していません。今回の事件を巡る壮大な妄想だけを、議論の対象としています。その意味で、本項の話は STAP細胞そのものとは何の関係もありません。
本項で述べたことは、分子生物学の話ではありません。むしろ社会心理学の話です。例示的に言えば、岸田秀の「共同幻想」論(唯幻論)と関連があります。
下記の書籍はいずれも名著であり、お薦めです。
ものぐさ精神分析
[ 余談 ]
小保方さんよりもひどいのが、東大の教授たちだ。ほとんどお笑いのような暴言を吐いている。
まずは、上昌広・東大特任教授。
小保方氏「STAP作製、200回以上成功」 正当性強調
* 1回の実験で一週間くらいはかかるというのに、一体どうなっているんだろう?
— 上 昌広 (@KamiMasahiro) April 9, 2014
まるで小学生のような幼稚な計算。1回終了するまで次の実験ができないわけじゃない。毎日1回ずつ実験できるだろうに。次の図のように。
月火水木金土日月火水木金土
実験1 ■■■■■■■
実験2 ■■■■■■■
実験3 ■■■■■■■
実験4 ■■■■■■■
実験5 ■■■■■■■
実験6 ■■■■■■■
実験7 ■■■■■■■
こういうふうに実験をすれば、「 200回の実験をするのには、207日あれば足りる」とわかるはずだ。
こんなこともわからないで、東大教授なのか? 頭がおめでたすぎる。(小学生でもわかるようなことなのに。……)
──
もう一人は、伊東乾・東大准教授。「 STAP細胞の実験で数十億円が無駄になった」というデタラメな言葉を振りまいている。
→ こんな研究に数十億円の税金を注ぎ込んだ責任を明らかにすべし
この人は何も知らないフリをしているが、実は、たいして金がかかっていないことを、自分で計算して知っている。
人件費全額と同じ程度の報酬も得ていたとありました。1年で3000万円、2011年の雇用ということですから、すでに9000万円ほどを使って、
( → JBpress )
この計算は実は間違いだ。小保方さんがユニットリーダーに就任したのは 2013年春だから、それまでは平研究員としての給料をもらっているだけだ。3年で 9000万円という計算は成立しない。1年で 3000万円、ならわかるが。
ただ、計算ミスを前提としても、9000万円である。自分でそう計算しておきながら、「数十億円」というふうに大幅に歪曲している。……これは、故意の捏造だね。ものすごく悪質。(悪質でなければ、小保方さん以上の、どうしようもない愚かさ。パープリン。)
──
上の二つから見ても、東大の教授・准教授の馬鹿さ加減がわかる。特に後者は、小保方さんを人格攻撃するという下品さだ。科学者としての品位すらない。
理研の若手ユニットリーダーのミスなんかをあげつらうよりは、東大の教授たちの暴言をあげつらう方がマシだろう。
──
とにかく、今の社会や世論は、狂気の沙汰だ。小保方さんはたしかにミスが目立ったが、少なくとも狂ってはいない。一方、今の社会や世論は、ほとんど狂っている。こんなどうでもいいことで騒ぐより、もっとまともなことに着目できないのか?
[ 蛇足 ]
今回の会見を見て、「STAP細胞が真実だというが、その証拠がない。せっかく会見したのに、説明不足だ」というような批判が聞かれる。しかしそれは勘違いだ。
今回の会見は、STAP細胞の真偽について述べたものではない。また、自己の正当性を訴えるものでもない。(実際、正当化するのとは逆に、深く謝罪している。)
では何か? この会見は、理研の「意図的な悪質な捏造」という認定を否定するものだ。つまり、理研の「全責任の押しつけ」から身を守ろうとするものだ。……それがこの会見の目的だ。(だから話は画像の問題に絞っている。)
マスコミは、どうせ質問するのならば、「実験ミスの有無」「コンタミの可能性の有無」「自家蛍光の可能性の有無」について質問するべきだった。これによって実験ミスの可能性を本人が自覚しているかどうかを確認できたはずだ。
なのに、肝心の「実験ミス」の話題を持ち出さずに、「 STAP細胞は真実か?」というような質問ぐらいしかしなかった。これには、「真実である(と信じている)」としか答えられないのは当然のことだ。かくて、質疑応答は無意味化した。
結局、この会見は、質問する側が、問題の本質をまったく理解していない。どうでもいいことばかりを質問して、肝心のことをまったく質問していない。隔靴掻痒。群盲 象を撫でる。……というわけで、ただの茶番でしかなかった。
そのあげく、この会見を論評して、「ああだ、こうだ」と述べる阿呆がいっぱいいる。
しかし彼らはみんな勘違いしている。正しくは、こうだ。
「この会見では、単に彼女に悪意のないことだけが説明された。それ以外、肝心のことは、何も質問されなかった。結局、すべては茶番でしかなかった。あとになって、いちいち論じるのも無駄である」
(おしまい。)
【 関連項目 】
本項では「今回の会見では何も真実は得られなかった」と述べている。では、真実は、どこにあるか? それについては、すでに下記で述べた。
→ STAP細胞事件を評価する
この項目の (4) でも、次のように述べている。
画像がどうのこうのという以前に、実験そのものがコンタミ(異物混入)による間違いにすぎなかった。こうなると、画像がどうのこうのということは、ろくに意味を持たない。
( ※ TCR 再構成とか、各種の分子検査がどうとか、そういうこと以前に、検体に取り違えがあった。こうなると、検査自体が無意味なので、画像のミスは二の次となる。)
画像の捏造について論議すること自体が無意味だ、と上記ですでに指摘しているのだ。
この件は、「小保方さんをどう処分するか」という人事の問題であって、小保方さんにとっては最重要のことであろうが、一般国民にとってはどうでもいいことなのだ。
こんなことで騒ぐのは、時間の無駄。
《 注記 》
本項は、「議論するべきではない」という趣旨なので、コメントは受けつけません。いちいち議論をしていたら、自己矛盾になるので。