2014年03月27日

◆ 認知障害のせい?

 「愚かだ」と思われている人は、単に知能が低いというより、精神医学で言う「認知障害」をきたしている場合がありそうだ。  【 訂正済み 】 ──

 《 訂正 》
 以下は「人権侵害だ」という指摘が来たので、該当部分を書き直して、特定個人が該当することのないようにしました。(一般論にしました。)
 
 一方、それとは別に、本項は書く必要が特になくなったので、本項の全体を取り消しの扱いとします。(正しい内容は、次項で。)





 ※ 以下は、内容の妥当性にかかわりなく、読む必要はありません。




 「愚かだ」と思われている人は、単に知能が低いというより、精神医学で言う「認知障害」をきたしている場合がありそうだ。
 その場合、日常生活を送るには不自由はしないだろうが、人々との関係では「変な子だな」と思われることもあるだろう。
 さらに、日常生活でなく理系の仕事をやるとなると、大いに問題が生じるはずだ。およそ論理的な段階を踏む行為は実行不可能だと思う。ほとんど倒錯とか錯乱とかの状態になりそうだ。理系の論文を書くなんて、もってのほかである。
 こういう人であれば、当然ながら、理系の入学試験をパスできるはずがない。パスするとしたら、AO入試ぐらいしかないだろう。

 これは、人格障害とは違うか? もちろん、違う。人格や性格のようなものが歪んでいるのとは違って、単に能力の一部が弱いだけだからだ。

 これはパラノイアとは違うか? パラノイアは妄想をもっているので、さまざまな妄想をもつ点では、合致している。ただ、パラノイアの場合には、何らかの妄想が先にあって、その妄想に合わせて現実の行動を取る。たとえば、「私はあの人の恋人だ」と思い込んだあげく、あの人の恋人としてふるまう。(勝手に腕を組んだりキスしたりつきまとったり。)

 認知障害であると、自分が何をしているか理解できなくなる。たとえば、Aという品物だと思って、Bという品物をいじったりする。ここでは、人をだますというような意図はない。本人はあくまで正しいことをしているつもりである。ただし、正しいことと間違ったこととの区別が、うまくできないのだ。
 比喩的に言えば、思考の赤緑色盲である。赤緑色盲ならば、赤と緑の区別が付かない。それと同様に、Aという品物とBという品物の区別が付かない。まったく区別が付かないのではなくて、(軽度の障害のせいで)認知がときどき混同してしまう。ある時点までは、AとBを区別できているのだが、いじっているうちに、記憶が歪んで、どっちがどっちだかわからなくなる。その状態で、「うまく細胞が増殖したんだから、これはきっとAなんだ」と都合よく決めつけてしまう。
 こうして、「自分で自分をだます」という状況になる。この場合、自分自身がだまされているのだから、そのあとで他人をだますことはない。たとえば、Aだと言ってBを渡すことは、他人をだますことには当たらない。なぜなら、本人がそれを Aだと思っているからだ。(自分が自分にだまされているからだ。)
 これがつまり、認知障害である。重度の認知障害だと、何が何であるかもまったくわからなくなるが、軽度の認知障害では、若干の混同があるという程度だろう。この場合、日常生活ではちょっと不便だというぐらいで済むが、理系の実験では、致命的なエラーが起こるだろう。
 このような「軽度の認知障害」が、「愚かさ」と見えることがあるだろう。

  




 【 関連項目 】

 → ハンロンの剃刀(かみそり)
  「愚かさで説明できることに、悪意を見出すな」
  という、格言のようなもの。
posted by 管理人 at 23:38| Comment(3) |  STAP細胞 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
人権侵害だとしたら、サイコパスっていう説はどうする? そうコメントしている人がいるけれど、そっちも削除するべき?
Posted by 通りすがり at 2014年03月28日 10:08
人格障害は、管理人さんのイメージする人格がゆがんでいる、というものなどではなく、一方で精神病などの神経伝達物質や能の機能異常がうんたら、というものではありません。

この社会で、人並みの距離をうまくとることができない、というだけです。

仮に太平洋独りぼっちなら、全く問題なく生活できます。あるいは、うまく取ることができないことをカバーするために、人並み以上の努力をして、専門家として一芸に秀でることもあります。

本態は、自己愛の障害と傷つきやすい自我で、この社会で生きていくための適応行動が、周囲とあいにくいだけです。

用語としては「障害」なので差別的意識を感じやすいですが、劣っているという意味での障害ではなく、「コミュニケーション下手」といった対人関係での評価の用語です。

これまでのふるまいから、PDの存在は高確率ですので(ここは面談しなくてもその人と接したことのある人の話程度で分かる)、対人関係性の客観評価は可能です。DSM-IVやVでの診断、つまり病気として捉えるなら面談が必要ということは分かりますが、コミュニケーションのスタイルという関係性の視点で見るなら、それは必須ではないと個人的には思います。

もちろん、ボーダーと正常のさらにボーダーとか、そんなのをどうするのだという話にももつれたりしますから、誤解を招きやすい用語であるのは間違いはないです。専門職とは、PDくらいでぼかして話したりしています(他の理解の乏しい医療者に先入観を与え過ぎるため)。
Posted by ちゃ at 2014年03月28日 14:30
ちゃさん
ここはトピごと消える可能性があるので、
2014年03月28日 14:30の投稿を以下に転記させていただきたく提案します。ご了解いただければ幸いです。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12333/1395760194/
なお上記BBSのオーナーも当ブログオーナと同じ方なので、いきなり消される可能性があります(汗)
しかしそれもまた人生ということで、上記したらばBBSにてご意見頂ければ有り難く思います。
疑問点は以下です。

笹井さん他理研の方々が小保方さんにPDの懸念をまったく覚えず全面的に信用したなら私には不自然に思えます。
ちゃさんはどう思われますか?
Posted by ここに書いてサクられた前科もの at 2014年03月28日 17:10
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