学術専門誌 Nature は当初、 STAP細胞の論文の掲載を拒否していた。
昨年春、世界的に権威ある英科学誌ネイチャーに投稿した際は、「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄していると酷評され、掲載を却下された」。
( → 産経 2014.1.29 )
また、Nature の論文受け取りの日付を見ると、次のように記されている。
Received 10 March 2013 ,Accepted 20 December 2013 ,Published online 29 January 2014
( → Nature )
つまり、2013年3月10日に論文は受領されたが、その後はずっと掲載を拒否(却下)されていた。しかし、理研の先輩のサポートなどを受けたりして、査読者の疑問点を解消するように、追加の実験結果をいろいろと足したりして、原稿を書き直すと、2013年12月20日に掲載許諾となった。それから1カ月あまりたった 2014年1月29日に、実際に掲載(刊行)された。
以上が、時系列の事実だ。
【 注記1 】
報道は錯綜しており、以上の時系列とは別の情報もある。
この件は、本項末尾の【 後日記 】で解説した。
【 注記2 】
さらにその後の調べで、次の事実が判明した。
「12年4月に論文はいったん却下( reject )され、その後、
13年3月に再投稿された」
この件は、後述する。
したがって、すぐ上に書いた本文は、事実ではない。
ただし、上の本文は訂正せず、あとで注記する形で修正する。
──
で、この件について、私は前々項で、次のように述べた。
( ※ なぜこんなことになったか? Nature が論文掲載の拒否をしていたからですね。本当なら、もっとずっと前に公表されていて、あちこちで同様の研究が進んでいたはずなのに、Nature がやたらと掲載延期を続けていたから、仕方なく、内輪だけでいろいろと応用研究まで進めてしまったわけだ。)
( ※ Nature は世界の研究を停滞させた、といってもいい。厳密さにこだわるあまり、慎重になりすぎて、研究の発展を遅らせてしまった。)
( → 前々項 )
これは余談ふうにオマケとして述べたものであり、灰色の小さな字で書いているだけなのだが、ここに気が引っかかって、「 Nature をけなすな!」と文句を言う人がいる。
そこで、注釈を兼ねて、私の見解を述べておこう。
──
私は上記の引用部では、別に、Nature をけなしているわけではない。単に事実を述べているだけだ。
・ Nature は慎重に審査した。
・ そのせいで、論文の公表が遅れた。
・ 他の人々は、論文の内容を知らされなかった。
・ だから他の人々は、追試や応用などの研究ができなかった。
・ その間、本人たちのグループは、応用研究まで進めた。
こういう事実があった。その事実を、メリットやデメリットを含めて、淡々と記しただけである。人々は、「慎重に審査したことは、厳密さを得たという点で、良かった」というふうにだけ認識して、メリットばかりを見ている。
そこで私は、「メリットばかりじゃなくて、デメリットもあったんだよ。他の人々が知らされなかったことには、デメリットもともなうんだよ」というふうに指摘した。
するとそれを読んだ人が、
「デメリットを指摘すると言うことは、Nature をけなしているんだな! Nature を dis るな!」
というふうに怒りの火を上げているわけだ。
いやですねえ、ひがみっぽい人って。物事には両面価値がある、と指摘しただけで、「悪口を言って非難しているんだな」と思い込む。常に「称賛だけ」でないと、気に食わないらしい。……困ったことだ。(金正恩みたいなものかも。彼らの意に沿わないと、私も銃殺されそうだ。 (^^);)
──
では、私は Nature の判断をどうとらえているか? もちろん、善悪(メリット・デメリット)双方があったと思う。
・ 慎重さを期したがゆえに、発表された時点では完璧な正しさを備えていた。
・ 正しさの検証のすべてを、特定の1グループに委ねたので、研究の進歩が遅れた。
ここで、「遅れた」というのは、実際にはたいしたことはないかもしれない。3月の時点では、まだ追加の実験がなされていなかった。4月の時点で公表しておけば、他の人々が追加の実験をしただろうが、とりあえずは追試が続々となされるというくらいだっただろう。それでも、追試によって簡単に確認がなされるから、STAP細胞が真実であるということは、4月の時点ですでに世界で広く知られることになっただろう。その結果、応用研究もただちに世界各地進められただろう。
一方、今回の論文で報告されたような、各種の「確証を得るための実験」は、小保方さんぐらいしかやれなかったかもしれない。その点では、それらの追加実験がすべて完了するのは、2013年11月ごろであっただろうし、追加実験の進展の遅れは結果的にはほとんどなかっただろう。
とはいえ、やはり、先に述べた二点が重要だ。
・ 追試が続々となされて、STAP細胞が真実であると判明した。
・ その結果、各種の応用研究がただちにスタートした。
このことは、現実には、2014年1月29日に起こったのだが、本来ならば、2013年4月に起こったはずなのだ。その意味で、この分野において、約9カ月の遅れた生じた、と言っていい。……そして、そういう結果をもたらしたのが、Nature の慎重な判断だった。
──
Nature が慎重な判断を取ったことは、必ずしも悪いとは言い切れない。なぜなら、その論文が虚偽(誤報・間違い)である可能性もあるからだ。そういう可能性を排除するためには、慎重な判断を取ることにも妥当性はある。
だが、一方で、学問の発展を阻害した、という事実もある。(上記)
その兼ね合いが問題だ。このプラスマイナスを、どう評価するか? ……それが、本項のテーマだ。
──
ここで、私なりに結論を下すと、次のようになる。
慎重な査読が良かったか悪かったかは、査読をする時点では判定がつかない。判定がつくのは、最終的な結果が出たあとだ。つまり、その論部が「正しい」または「間違い」だという完全な結果が出たあとだ。
・ その論文は間違いだという結果 → 慎重で良かった
・ その論文は正しいという結果 → 慎重で悪かった
このように、結果しだいとなる。
間違いだという結果ならば、「慎重で良かった。おかでげ間違い論文を公開しないで済んだ」と言える。
正しいという結果ならば、「慎重で悪かった。そのせいで真実の公表が遅れて、学問研究の発展が世界規模で遅れてしまった」と言える。
では、今回は? 「その論文は正しいという結果」になった。そすれば、「慎重で悪かった。そのせいで真実の公表が遅れて、学問研究の発展が世界規模で遅れてしまった」と言えることになる。当然ながら、「慎重で良かった。おかでげ間違い論文を公開しないで済んだ」とは言えない。(間違いではないからだ。)
──
結局、慎重で良かったかどうかは、事後的に判明するだけだ。そして、論文の妥当性がはっきりとしない段階(疑わしさが残る段階)では、慎重であるのが良いのか悪いのかは、判断が付かない。
だから、この時点で、「 Nature の取った方針は悪かった」と決めつけることはできない。Nature の査読者を「馬鹿野郎」と批判することはできない。
とはいえ、10カ月後の現時点になって振り返ってみれば、「 Nature の取った方針はまずかった」という評価を下すことができる。……それはいわば、「歴史的な評価」だ。
ここを正しく理解してほしい。
すべての歴史的事件は、あとになって歴史的な評価が下される。その行動を取った時点では、その行動が正しいかどうかはわからない。しかし、長い時間を経たあとで、その行動が正しかったかどうかが判明する。そのときに、歴史的な評価が下される。
それはいわば、映画の採点のようなものだ。映画を作っている最中には、その映画が傑作となるか駄作となるかは、わからない。それでも、映画が出来たあとでは、「傑作であるか駄作であるか」というような評価が下る。そのような評価は避けられない。
ただし、その評価は、過去には遡及しない。たとえば、「駄作だった」という評価が事後的に下ったとしても、だからといって、「駄作だから映画を作るべきではなかったとは言えない。駄作であるかどうかは、実際に映画ができあがるまではわからないからだ。
Nature の査読者の判断も同様である。「慎重な判断」(掲載却下)という判断は、その時点では正しいかどうかは判明していない。なぜなら、その論文が真実であるかどうかは、まだ判明していないからだ。
とはいえ、いったん何らかの判断を下したならば、その判断について、あとになって歴史的な評価が下る。今回は、「あの判断はまずかった」という歴史的な評価が下るだろう。
ただ、だからといって、「 Natureの査読者は駄目だった」というような批判的な結論が下るわけではない。単に事後的な採点(歴史的な評価)が下るだけだ。そのことは、映画に事後的な採点が下るのと同様である。それだけのことだ。
( ※ 私の気持ちを推測する人もいるだろう。「 Nature を批判したいんだな」と。しかしそれは勘違いだ。本文中でもそうではないと述べた通り。)
( ※ 私の気持ちは、「天才の萌芽をつぶさずに育てよう」ということだ。「第二の小保方さんが出現したとき、それを拒否せずに育成しよう」ということだ。……ここを誤解しないでほしい。)
( ※ 読者としては、この点を考慮するといいだろう。第二の小保方さんが出現したとき、どうするか? 今回の Nature のように、あっさり却下するか? そして以後、圧倒的成果を出した場合のみ、掲載することにするか? 場合によっては、そのまま発見をつぶしておいて、やがていつか別の外国人が発見するまで待つか? )
【 提言 】
本項のテーマについては、上記で言い尽くされている。
ただ、別途、改善案を上げることもできる。以下の通り。
今回は、次のようなケースだった。
「真偽は断定できないが、真理である可能性がかなり高い。しかも、真理であるならば、その影響はものすごく多大である」
こういうケースでは、影響の多大さにかんがみて、慎重さを少し捨てた方がいいだろう。「学問の進歩を大幅に遅らせる」というのは、あまりにもリスクが高いからだ。
従って、次の見解が妥当だったと思える。
「真偽は断定できない、という注釈を付けた上で、留保付きの公開とする。真偽については未確認のまま、追試の必要性を付記しておく」
このような形で公開しておけば、4月中に次々と追試がなされて、ほんの数日で「真実である」と世界規模で判明したはずだ。
──
ではなぜ、Nature はそうしなかったか? もちろん、慎重でありすぎたからだ。つまり、判断がまずかったからだ。(非難されるほどの悪ではないが、まずかったなという歴史的評価は避けがたい。)
そこで、以上の問題を解決するために、私なりに新しい提案をしておこう。こうだ。
「少なくとも理研に関する限りは、理研において保証できる内容の研究成果を、理研の名で公開する」
つまり、理研自身が学術誌を刊行して、そこに自分たちの研究成果を掲載する。たとえば、「 Riken Reports 」というような名称の学会誌を自力で刊行する。そこにおいて、理研の独自の成果を発表する。
こうすれば、Nature みたいに頭の固い雑誌の査読者の許可を得なくても、自分たちが自信を持てるような研究成果をどんどん公開することができたはずだ。
──
一般に、研究者が Nature や Science に論文を掲載されたがるのは、学会誌の格付けを気にするからだ。とはいえ、 学会誌の格付けなんて、今はあまり気にしないでいいと思う。
特に画期的な研究であれば、なおさらだ。「どこの学会誌に掲載されたか」というのが大切なのは、一流半の研究だけである。一方、真に超一流の研究は、どの学会誌に掲載されたかを問わない。
今回の研究成果は、Nature に掲載するよりも、理研独自の学術誌に掲載した方が良かった、と思える。Nature に掲載してもらって論文に箔をつける、というようなことは必要ない。なぜなら、箔をつけることが必要なのは、論文自体が輝きをもっていない場合だけだからだ。今回の論文のように、それ自体に輝きのある論文には、箔は不要だった。つまり、Nature の格付けなどは不要だった。
ついでだが、一般のたいていの研究は、Nature や Science には掲載されない。そのくらいのレベルの研究ならば、やはり、準一流の専門誌に掲載するよりは、理研の独自の学術誌に掲載する方がいいだろう。そういう習慣が続いていれば、今回の最初の論文も、Nature に拒否された直後に、理研の独自の学術誌に掲載できたはずだ。そして、その数日後には、世界規模で真実と判明したはずだ。
( ※ 同時に、掲載を拒否した Nature は、馬鹿にされそうだ。)
──
なお、理研が独自の学術誌をもつことのメリットとしては、次の諸点がある。
・ 変な査読者によって掲載拒否されない。
・ 論文の質(レベル)は、理研の査読者によって保証される。
・研究には、準一流の学会誌に掲載されたという評価が付く。
・ 掲載料などは取られない。
・ 掲載の時期がとても早い。
・ 掲載論文は、全世界規模で無償公開される。
・ そのせいで、多くの研究者の目に触れる。
──
オマケで一言。
STAP細胞や iPS細胞について、理研は今後もいろいろと研究をするのだろう。その際、できれば Nature なんかに掲載しないで、独自の学術誌( Riken Reports )に論文を掲載するべきだ。
今や、Nature なんていう商業雑誌にこだわる時代ではないのだ。下記の【 関連項目 】を参照。
【 関連項目 】
→ 学術専門誌の公開と審査
→ 学術誌に賞金を出せ
これを読めばわかるだろうが、学問研究は Nature などの商業誌に、食い物にされている。
今回の STAP細胞の論文も、著作権は Nature に贈与されている。(それが掲載の条件である。)
ゆえに、一般の人々は、Nature に金を払わない限り、今回の STAP細胞の論文を読むことができない。せっかくの研究成果が、Nature の営利行為のために奉仕していることになる。食い物にされている、と言ってもいい。
こんなことなら、STAP細胞の新しい論文(続報)は、無償でネット上で公開するべきだろう。その方がずっと人類のために貢献する。
特に、小保方さんは、もはやこれ以上の「箔付け」は必要ないはずだ。彼女自身が輝かしい箔になっているからだ。Nature の方が、レベルとして下である。
だから、今後のSTAP細胞の新しい論文(続報)は、無償でネット上で公開する方がいい。そのために、理研は Riken Reports という独自の学術誌を発刊するべきだ。
( ※ 理研は現時点でも、ある程度の研究成果の公表はやっている。だが、たいていは、要約の公開だけだ。原論文の著作権は、Nature などの掲載誌に握られているのだから、理研のサイトでは無償公開できない。今回の論文も、またしかり。)
【 追記 】
- 「著作権は学会誌に贈与される。(それが掲載の条件である。)」
という件は、理解できない人がいるかもしれない。
ただしこれは、学会誌の慣例である。どの学会誌であれ、掲載するときには、著作権の贈与を求められる。例外は、ないと思える。( 100%の断言はできないが、ほぼ確実。)
これは、学術の世界の慣例なので、俗世間の人は知らないだろうが、とにかく、そういうものなのだ。
( ※ なぜそうするかというと、他の研究者がその論文を無償で引用できるようにするため。仮に研究者が著作権を握っていると、他の研究者が引用できなくなる。その問題を避けるためである。)
【 補説 】
本項で述べたことは、わかりやすいことなので、誰にでもすぐに理解してもらえると思った。
ところが、はてなブックマークでは、本項に対する反論がいくつか寄せられた。「学会誌は慎重にする方がいい」「真実性が決定的に判明していなければ公開しない方がいい」という趣旨。
そこで、私としては、(小保方さんにならって)決定的な証拠を示そう。それは、高温超伝導だ。
高温超伝導のときは、どうだったか? 真偽がはっきりとしないまま、とにかく小さな学会誌で発表された。その時点では、学界は半信半疑であり、どちらかと言えば否定的見解の方がかなり強かった。
ところが、日本の田中グループが追試をして、「真実である」という報告を出した。田中グループは、高温超伝導の分野では実績があったので、その報告は瞬く間に世界中に行き渡った。この時点が、「高温超伝導は正しい」と世界的に認知された瞬間だった。
Wikipedia にも記述がある。
彼らはドイツの会議でこの結果を発表したが、誰にも評価されることはなかった。そこでIBM T.J. Watson研究所に試料を送って真偽を鑑定してもらったが、比熱測定に超伝導転移による跳びが見られなかったことから超伝導ではないという結果が返ってきた。超伝導を認められなかったものの、1986年4月、ベドノルツとミューラーはとりあえずZeitschrift fur Physikというドイツの学術誌に論文を投稿した。
この論文が公表された1986年、少なくとも世界の数カ所で結果の追試が行われた。このうち東京大学の田中グループはこの物質の結晶構造の同定とマイスナー効果を確認し、誰もが間違いないと確信できるレベルでLa-Ba-Cu-O系で超伝導が起こっていることを証明した。田中研で超伝導の存在が判明したのが1986年11月13日であり、12月5日にボストンの材料研究学会においてこの結果が発表された。これ以後、数年間にわたり高温超伝導探索のフィーバーが続いた。
( → Wikipedia )
本項の主張(私見)を読んで、「 Nature は慎重であったので良かった」と述べる人は、高温超伝導についてはどうなのか? やはり「 Nature に投稿して、そのまま慎重な査読者のせいで、何年間も埋もれたままになる方が良かった」と思うのか? それとも、「さっさと報告して、他人の追試を得ることで、すばやく世界で認められる方が良かった」と思うのか?
よく考えてほしいものだ。
【 後日記 】 (2014-02-02)
論文が却下された時点については、冒頭で述べた情報とは別の情報がある。
私が冒頭で記したのは、産経新聞の情報であった。そこでは次のように引用した。
昨年春、世界的に権威ある英科学誌ネイチャーに投稿した際は、「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄していると酷評され、掲載を却下された」。
( → 産経 2014.1.29 )
一方、読売新聞には、次の情報がある。(コメント欄で教えてもらった。)
11年にセンター客員研究員になった小保方さんは実験を続け、その年の冬、若山さんと、STAP細胞からできた細胞を持つマウスを誕生させた。
権威ある科学誌ネイチャーに論文を投稿したが、掲載は却下され、審査した研究者からは「細胞生物学の歴史を愚弄している」という趣旨のメールも届いた。肩を落とす小保方さんを、幹細胞研究の第一人者である笹井芳樹・副センター長(51)らが支援。データを解析し直し昨年3月、論文を再投稿。掲載が決まった。
( → 読売新聞 )
これに従えば、いったん却下されたあとで、13年春に再投稿して、そこでは受け入れられた、と見なせる。
私の想像を含めると、次のような時系列が推測される。
・ 11年末に、マウスの全身を光らせた。
・ 12年春に論文を投稿した。 ¶
・ 12年夏〜秋に却下( reject )された。
・ 13年春に、助言を得て、追加実験を加えて、再投稿した。
こう考えると、話はすべて整合的になる。こちらの時系列は、冒頭に記した時系列よりは、妥当性が高いようだ。そこで、新たにこちらの時系列を取ることにしたい。冒頭に記した時系列は、廃棄したい。
とはいえ、どちらが正しいかは、断定できるほどの根拠はない。そこで、冒頭の記述は取り消さず、ここに新たな記述を追記するだけに留める。
なお、時系列のどちらが正しいとしても、本項の論旨の大筋には影響しない。どちらかと言えば、本項の論旨がいっそう強化される。というのは、「人類の研究の進歩の遅れ」は、数カ月どころか、1年数カ月に及んだことになるからだ。
──
なお、次のことも言える。
・ 11年末に、マウスの全身を光らせた。
・ 12年春に論文を投稿した。
このことからして、12年春には、「マウスの全身を光らせた」という新発見が記述されていたはずだ。にもかかわらず、それは却下された。
「全身のマウスで光る」というのは、STAP細胞が iPS以上の多能性をもつことを、強く裏付ける。それは、完璧ではないとしても、非常に有力な根拠となる。このこと自体で「これまでにない画期的な新事実の判明」となる。(たとえ多機能性をもつSTAP細胞だと言い切れないまでも。)
このような画期的な新事実を却下することは、妥当であったか? 妥当ではなかった、というのが、私の判断だ。
Nature の却下について、「その時点では未熟だったのだから却下は当然だ」と解釈する人もいる。しかし、上記のように、決して未熟ではなかった。単に「完璧ではなかった」というだけのことだ。
仮に、これほどの完璧性を必要とするのであれば、Nature は生物関係のあらゆる論文を却下するべきだろう。そういうことになりそうだ。
繰り返す。小保方さんの最初の投稿は、決して未熟ではなかった。単に完璧ではなかったというだけだ。「金の卵」というよりは、「金のヒヨコ」であった。なのにそれを「成熟したニワトリではない」というだけの理由で拒否したのが、Nature であったのだ。仮にそんな判断基準が通るのであれば、あらゆる論文が却下されるはずなのに。
¶
「12年春に論文を投稿して、その後に reject(却下)された」
ということは、その後の調べで、確認された。
→ The Boston Globe
該当箇所を引用すると、下記。
They submitted the first paper to a journal in April 2012, but it was rejected. Over the intervening year and a half, they continued to answer questions.
《 参考 》
小保方さんが「全身のマウスで光る」という成果を出した経緯については、下記に記事がある。
→ 2014年2月3日 読売新聞 (転載)
小保方さんには情熱があったが、ほとんどの研究者は信じてくれなかった。したがって今回の発見は、本来ならば(非協力によって)つぶされていたはずだ。
しかしながら、たまたまたった一人だけ、奇特な協力者が現れた。彼もまた、小保方さんを信じていなかったが、「どうせ失敗するに決まっている」と思いながらも、「失敗するのも勉強になる」と思って協力しただけだった。
このような奇特な人がいなければ、今回の研究が日の目を見ることはなかったはずなのだ。このことに留意しよう。
一方、次のように述べる人もいる。
「最終的にエビデンスを積み上げれば、正しい理論は必ず日の目を見るのだ」
→ 早速ニセ科学界隈が騒ぎ出している模様
この人は勘違いをしている。どれほど本人が正しくても、協力者がいなければ、エビデンスを積み上げることができない。エビデンスを積み上げることができなければ、正しい理論が日の目を見ることはなかったのだ。
今回の発見が日の目を見たのは、小保方さんが正しかったからではない。「たまたまたった一人だけ奇特な人がいた」という偶然のせいである。
仮にこの偶然がなければ、小保方さんの発見はつぶされていたはずだ。さらに言えば、たとえ発見しても、Nature に却下された時点で、発見がつぶされていた可能性もある。それを乗り越えたのは、小保方さんを励ました上司の協力があったからだ。これもまた偶然に近い。
多くの偶然が積み重なったおかげで、今回はたまたま真実が日の目を見た。この偶然性を理解するべきだ。
今回の最終的な事実をもって、「小保方さんの研究をつぶそうとした過去の経緯は正しかった」と評価することはできない。
正しかったのは、小保方さんに協力した人々や、小保方さんのような若手を採用した国の方針である。
一方、「既存の見解に逆らう理論は認めがたい」と認定拒否しようとした人々は、正しいとは言えないだろう。
( ※ 上記サイトの見解は、いじめっ子の自己弁護と同じである。……「あらゆる大人は、ちゃんと大人になれた。だから、子供時代に いじめをすることは正しいのだ」 → ここでは、「いじめられて死んでしまった」「だから大人になれなかった」という子供のことが抜け落ちている。そういう論理的欠陥がある。今回もまた同じ。いじめの正当化などはできない。)
【 関連項目 】
本項を読んでも理解できなかった人のために、関連項目がある。下記。本項に反発を感じた人は、ぜひ読んでほしい。
→ ノーベル賞を取る方法(STAP細胞の教訓)
──
さらに後日、本項の続編を執筆した。いっそう詳しく論じている。
→ 査読者はノーベル賞を左右するべきか?(STAP細胞)
→ 査読は捏造を防げるか?(STAP細胞)
「ネアンデルタール人との混血」
という話題もそうだ。いい加減な根拠で、何度も論文が掲載される。最近も、この例がある。
→ http://www.afpbb.com/articles/-/3007562
ネイチャー(Nature)と米科学誌サイエンス(Science)にそれぞれ掲載された、とのことだ。
ご指摘を受けて、「受領」に訂正しておきました。
ただ、英和辞典を見たら、「受理」の英訳は、どっちもあります。
たしかに論文公開は一定の形式審査やプレプリントサイト(Arxiv)などで簡単に公開できるようになりました。
後はそれを別途、評価する機関やサービスがあればいいのだと考えます。
その頂点にノーベル賞などがあれば、分かりやすく、末端まで延ばせばいいだけです。
研究論文の影響度を測定する新しい動き
―論文単位で即時かつ多面的な測定を可能とするAltmetrics―
http://www.nistep.go.jp/wp/wp-content/uploads/NISTEP-STT134J-2.pdf
次は論文の評価方法をテーマにしてみてください。
もちろん、私たちが知り得るのは、その査読者本人のコメントそのものではなく、査読者と厳しいやりとりをしたであろう小保方氏の口を通しての伝聞ですけどね。
ちなみに「余談」ですか、理研は過去に自前のジャーナルを出していたようですよ。そういう研究機関は多いですね。ただ、理研のものは廃刊になってしまったようです。
その当たりの経緯を踏まえてジャーナルのあり方について検討されてはいかがでしょうか。
査読者っていうのは、掲載の可否を判断する人なんだから、所属は外部でも、「Natureの中の人」ですよ。というか、掲載の可否について、最大の中心人物ですよ。
あなた、もしかして、査読者の意見も聞かないで、編集部員が勝手に掲載の可否を決めているとでも思っているの?
Mochimasa さんは、人の話を読みもしないで、勝手に「こいつは馬鹿に決まっている」という妄想を立てて、その妄想の上に立って批判してばかりいる。
まずは相手の話を読みましょう。特に、<FONT COLOR="#000099"> 【 関連項目 】</FONT>の2項目を読みましょう。
なるほど。
ただ、そういう事情であれば、いっそう、今こそ自前の学術誌を出す時期でしょう。なぜなら、小保方晴子という超有名な大スターをかかえているからだ。
彼女(および関連研究者)の論文が読めるというだけで、学会のあらゆる研究機関が購読して、必死に読むはずです。
何しろこの分野では、理研が圧倒的に先行していますからね。
Natureがダメだっていうのであれば、他に出すなりプレプリントサーバに出すなりの手があったはずですし、今回のはNatureにこだわりすぎた結果ではないかと思います。
でも、それでもCNSに出せるレベルなら、CNS出したいという気持ちは非常にわかるのでこれを否定するのは難しいです。
Prosで良い評価を受けてても、結局CNS(の姉妹誌)には勝てないような気がしますし。
両者の違いはわかっているけど、訳語を間違えた、というだけ。1字の翻訳ミスで大騒ぎしないでください。原文はきちんと示してあるから、誤訳はすぐに気づくことができます。
> プレプリントサーバ
プレプリントサーバという話は、関連項目で示しています。要するに、格付けができないで、玉石混淆(ほとんどが石ばかり)になる、という問題。
だから、格付けのできる(きちんとした査読者のいる)理研の自前の雑誌の方が好ましい、という判断。
> Natureにこだわりすぎた
最初の投稿の時点では、拒否されるとは思っていなかったのでしょう。
ただ、そのまま拒否が確実ならば、他で発表した可能性があるが、周囲のバックアップで、難点を消せるメドが立ったので、Nature にこだわったのでしょう。その判断は、上司がしたのだと思います。
あと、問題としては、小保方さんはこの判断で何も損をしていません。彼女の判断はまったく間違っていません。むしろ、すべての業績を独占できたので、小保方さんは非常に得をしています。ノーベル賞も一人で独占できるはずです。何も間違っていない。むしろ、賢明だった。(競争者もいなかったから、遅れて困ることは何もない。)
損をしたのは、人類全体です。私は人類全体の損得を言っているのであって、小保方さんの損得を言っているわけでありません。
私の文章は、短時間で大量に書いて、推敲もしないから、あちこちに後変換のミスもいっぱい残っている。(少しずつ直しているが。)
当然のことながら、内容にも細かな間違いがいっぱい残っていると思える。
で、そういう間違いを見つけたら、指摘してくだされば、ただちに修正します。
とはいえ、「間違いを書くな!」なんて批判するのは、やめてほしい。そんなことを言われたら、大量に書くのをやめるか、すぐに公開するのをやめるか、いずれかだ。
私は、Nature みたいに慎重ではないので、速報性を重視する。ミスが見つかれば事後的に修正すればいい、という判断だ。
そういう私の方針が気に食わないのであれば、本サイトには来ないでほしい。何カ月もたってから、間違いのない情報だけを読めばいい。
本サイトはあくまで、最先端のホットな情報について、最先端の話題を提供すると言うだけだ。真偽の正確さについてまでは保証できない。
真偽の正確さについて保証を得たければ、学会の専門誌とか、書籍とか、そういうきちんとしたものを、数カ月後か数年後に読むべきである。本サイトを読むということ自体が、根本的に狂っている。
Web上の個人サイトに、専門誌をはるかに上回る情報量と正確さを求めるというのは、研究者として根本的に狂った方針なので、方針を改めた方がいいだろう。
本サイトの内容は、あくまで「参考のために聞く」というためだけのものだ。個人サイトには、絶対的な権威などはない。
そのくらいのとは、わきまえてほしい。世間の常識として。
タイムスタンプは 下記 ↓
「ReceiveとAcceptの間にReviseがあって、それは短くても数ヶ月、要求される追加実験の内容によっては半年、一年もざらということを知らない科学素人による与太話。」 @JunyaTheSphere
この人は誤読しているようだ。私が論じたのは、
「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄していると酷評され、掲載を却下された」
という形の完全却下の是非である。小保方さんはこのような形で却下された。
→ http://sankei.jp.msn.com/science/news/140129/scn14012921250003-n1.htm
→ http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=92123
その後、先輩の助力を得て、書き直して、再提出したが、それらの助力がなければ、挫折していたはずだ。
当然だが、Nature は「Reviseすれば掲載する」などとは言っていなかったはずだ。ゆえに「Reviseに時間がかかるのは当然」というのは、誤認である。通常、いったん却下された論文は、Reviseしても掲載されることはない。
→ http://j.mp/1bLk3pl
新聞記事にある昨年春に却下されたというのは、これのことです(recievedが去年の3月)。
普通、論文投稿したことがなければ知らないですよね。
しかし、wikipediaに「査読」の項目があるなんて初めて知りました。
実際はそうではなく、「生物細胞学の愚弄」とのコメントは2013年3月の投稿分についてのコメントで、その査読者はrejectを提案したのかもしれませんが、Natureの編集者は、他の査読者のコメントも考慮した上で、この論文をrejectとせず、major revisionの要求をしたのでしょう。
もしそうだとしたら、Natureの編集者は、この論文の出版を遅らせたというより、むしろ、この論文を救ったのだということができます。
それはないでしょう。もしそうならば、「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄している」なんて言うはずがない。気が狂って、頭と舌が正反対のことを言っているのならともかく。
今回はどう見ても、完全な reject です。その後、関係者の必死の訴えによって、reject から major revision へと変更された、と見るのが妥当でしょう。
その意味では、理研の先輩や、米国の先生など、関係者のコネ圧力がすごく有効だった、と推測できます。……そういうコネ圧力があったとは、誰も告白しないでしょうが、そうとしか考えられない。
もしそうでなかったとしたら、査読者の頭と舌が正反対のことを言っていたことになり、査読者が発狂していたことになりますね。
この点の区別がついていらっしゃらないように見受けられます。
おそらく学術論文誌の査読のシステムをよくご存じないのだと思いますが、論文の採択可否の決定権は編集者にあります。
査読者の役割は編集者の判断の参考のためのコメントを提供することであり、採択可否の決定には関与できません。
ですから、査読者のコメントにどれだけひどいことが書かれていようと、編集者は独自の判断で論文を採択したり、改訂要求を出したりすることができます。
前のコメントで述べたのは、今回の論文でもそういうことがあったのではないかということです。
そんなわけないでしょ。私の主張は「査読者が主体的になって決める」です。編集者が勝手に口を出す資格はない。
> 論文の採択可否の決定権は編集者にあります。
編集者じゃなくて、編集長。
あなたは書籍などの刊行の事情を知らないのでしょうが、最終的な決定権を持つのはボス(編集長)であって、下っ端の編集者は決定権を持ちません。
また、ボスは決定権を持ちますが、ボスが好き勝手に左右するわけじゃない。採否の決定に決定的な報告を出すのは査読者であって、ボスはそれを認証するだけです。ボスが自分の判断で専門分野の掲載可否を判断するわけじゃありません。
> ですから、査読者のコメントにどれだけひどいことが書かれていようと、編集者は独自の判断で論文を採択したり、
そんなふうに査読者と正反対の暴走を認める学術誌なんかありませんよ。若干の変更を認めることがあるぐらい。それも、査読者との協議の上です。
あなたの言うように、編集者が査読者に反して、好き勝手に暴走する学術誌なんてものがあるというのなら、その証拠を見せてほしいものですね。(あるわけないが。)
一般に、書籍の刊行に当たっては、編集者は内容に口出ししません。編集者は著者ではありません。いくらかアドバイスするぐらいです。
また、編集者が勝手に暴走するようなシステムは、組織として欠陥組織になってしまう。だいたい、編集者が査読者の仕事をするのだったら、査読者というものが不要になってしまう。
査読者は査読をして、編集者は編集をする。それが原則です。編集者が査読者の仕事に介入して、査読者の仕事をひっくり返す、なんてことは、まずありえません。
せいぜい、外部の情報を伝えて、査読者に再考を促すぐらいでしょう。今回はそういうことがあったと推定されます。編集者が査読者の仕事を奪う(取って代わる)はずがない。
> 査読者のコメントにどれだけひどいことが書かれていようと
コメントの表現が問題なのではなくて、完全却下という判定が問題となっています。誤読しないでほしい。
学術論文誌の編集過程は、一般の書籍などとは大きく異なります。
あなたはご自分で学術論文誌に論文を投稿されたことはありますか?
学術論文誌から査読を依頼されたことはありますか?
学術論文誌の編集をされたことはありますか?
私のコメントの内容は、すべて私自身がこれらの経験をした上で書いたことです。
特に査読のシステム(査読者・編集者の権限、採択可否の決定)については、一般には知られていないでしょうが、学術関係者にとっては常識レベルの知識です。
それが信じられないとおっしゃるのでしたら、もうこれ以上の対話は無意味だと思いますので、コメントは打ち切りたいと思います。
ごめんなさい。私下期の箇所を誤読していました。
> もしそうだとしたら、Natureの編集者は、この論文の出版を遅らせたというより、むしろ、この論文を救ったのだということができます。
「Natureの編集者は……救った」
ですね。私は
「査読者は……救った」
と誤読していました。そのせいで、以後の話に食い違いが出ていました。誤読を認めて、お詫びします。
たしかにおっしゃる通りで、
「Natureの編集者は……救った」
ですね。「もし……」という条件の下で。
その件は同意します。また、私の以後の反論は、かなり見当違いの箇所が多いので、件という違いの部分については取り消します。
とはいえ、査読者が完全却下したものを、編集者が勝手に受け入れるとは考えられません。私としてはあくまで、「外部からのコネ圧力があった」と推定します。もちろん、証明はできませんが。
エピジェネティクスの件でもそうですが、想像に頼るのではなくて調べて分かることは調べてから書くべきですよ。この記事を読んで誤解する人も
いるかもしれないじゃないですか。
> その後、先輩の助力を得て、書き直して、
>再提出したが、それらの助力がなければ、
>挫折していたはずだ。
と管理人さんは言いますが、朝日新聞の記事にはこうあります。
http://www.asahi.com/articles/ASG1Z0PGCG1YPLBJ00W.html
> ――ネイチャー誌の査読者の反応は。
>
>
> 「たいへん厳しくて、あなたは過去何百年に
>わたる細胞生物学を愚弄(ぐろう)していると
>いう返事をもらった。確証を示すための具体的
>な実験系の要求は、たいへん多かった」
rejectなら、実験を要求したりしないんですよ。これは論文を投稿したことがある人なら知っていることです。
>その後、関係者の必死の訴えによって、
>reject から major revision へと変更された、
>と見るのが妥当でしょう。
と、いうのも制度に対する理解不足から来るコメントです。一度rejectされた論文はそもそもreviseできないんですよ。reviseというのは、編集部からの要求によってなされるもので、rejectされたものに関してこちらの意思・都合でreviseすることはできません。
今回、特例としてそういうことが認められたというのなら、証拠が必要ですよ。そうでなければ、「妥当」とはいえません。
reject というのはすでに何度も「却下」という用語で報道されています。「却下」という報道がおかしいのなら、そう言えば?
とにかく、「major revision」を「却下」「突き返す」というふうに訳すのだ、というあなたの判断がおかしい。その根拠は何なの?
また、「確証を示すための具体的な実験系の要求」というのは、「却下」が修正されて「条件つき」(major revision)に変更されたあとでの話、というのが私の見解です。変更されたあとならば、「確証を示すための具体的な実験系の要求」が出るのは当り前でしょう。
あなたは結局、私が何を言っているのか理解できないで、「最初から major revision だったに決まっている」と結論している。そのために、小保方さんの見解を同一時点のことだと解釈している。しかし、同一時点のことだとはどこにも書いてない。
> rejectなら、実験を要求したりしないんですよ。
だから、私がそう言っているんですよ。ちゃんとWikipedia をリンクしたでしょ? 私の話をちゃんと理解しましょう。
> 特例としてそういうことが認められたというのなら、証拠が必要ですよ
特例として認められたはずだが、その理由はコネ圧力だから、公開されるはずがない、……というのが私の見解です。同じことを何度も言わせないで。
あなた、文句を言う前に、まずは相手の話を読む訓練をしましょう。
──
全体的には、reject だったのか major revision だったのかは、小保方さん自身が決定的な表現をしていないから、どちらとも解釈できる余地があるかもしれない。
だったら、私の「却下」という見解に対して、「そうではなくて major revision だったと思う」というふうに、自分の見解を述べればいい。それならそれで、私としても「別の見解」として受け入れることは可能です。
しかし、はっきりとした証拠もないのに、「自分の解釈だけが正しくて、相手の解釈は間違いだと決めつけて、間違いを言うなと声高に非難する」というのは、学術研究者の態度ではありませんよ。
「自分の見解以外に対しては、間違いだと決めつけて、非難する」
なんて、あなた、どういう職業の人なんですか? 研究者でないことだけはわかるが。ひょっとして、政治家ですか?
> reject というのはすでに何度も「却下」
> という用語で用語で報道されています。
報道の「却下」という言葉が、rejectを指すというソースはどこですか?
> それより、「major revision」を「却下」
>「突き返す」というふうに訳すのだ、という
>あなたの判断がおかしい。
私はそんなことは言ってません。
それが常識だろう、ということ。
いちいちソースを主張するなら、それを否定するソースを自分が出したらどうなの?
今回の場合には、どっちにも解釈できる余地があって、reject か major revision かははっきりとはしないところがある、というのが、私の現時点の判断です。
その上で、私としては「 reject だった」と認識します。ただし、異論は認めます。私は別に、自分の推測が絶対的に正しいとは主張しません。特に、そのことを理由として、他人を非難はしません。
とにかく、報道では「却下」「突き返す」なんだから、それを「 reject だった」と認識した私の認識を「決定的に誤りだった」とあなたが断定する以上、その根拠を示すのは、あなたの役割です。
さらに言えば、本項の本論とはあまり関係のないこういう重箱の隅を突ついてばかりいるあなたは、どう考えても、ブログのクレーマーとしか思えません。
本項のテーマは、「掲載拒否が人類の研究の進展を遅らせたか否か」です。それとは全然関係のない日本語和訳の問題を扱っても、ただの憶測の問題にすぎないのだから、無意味。
無意味なことに時間をつぶさせてばかりいるあなたは、ただの妨害者です。
書くなら、本項のテーマについて語ってください。
ふつう、1報の論文には2名以上の査読者がつきます。
たとえ1名の査読者が即時却下を提案したとしても、他の査読者からのコメントが好意的なものであれば、編集者はいきなり却下することはないでしょう。
またNatureやScienceなどの商業誌は、学術協会等の発行する学会誌と比べて、話題性のある研究や、社会に与えるインパクトの高い研究に関しては採択の基準を緩める傾向があります。
ですから、もし今回の研究が「お堅い」学会誌に投稿されていたら、採択されていなかったかもしれません。
このようなことも考慮に入れると、一概に「Natureのせいで論文の公表が遅れた」とは言えないと思います。
また、学術論文誌の査読のプロセスについて、さきほど気がついたのですが、あなた自身がリンクを張ったwikipediaの「査読」のページに、私の書いたこととほぼ同じことが書かれています(「プロセス」の項)。
今一度精読されることをお勧めします。
また、それをふまえて、「理研独自の学術誌」というアイデアを再考してみてください。
あなたの挙げる「メリット」には、あなたの勘違いに由来するものがいくつかあります。
ちなみに、
>・掲載論文は、全世界規模で無償公開される。
>・そのせいで、多くの研究者の目に触れる。
という点については、現在では「オープンアクセスジャーナル」という、世界中の誰でも無料ですべての掲載論文を閲覧できる学術論文誌が多数存在します。
(Natureも、Scientific Reportsという誌名のオープンアクセスジャーナルを発行しています。)
この点のみを目的として独自の学術誌を発行するというのは、あまり現実的ではありません。
そこはもちろん読みましたが、あなたの言っていることとは逆のこと(私が論拠としたこと)が書いてありますよ。
査読者の意見が割れたときには編集者が介在することもあるけれど、「愚弄している」というような厳しい意見がはっきりと書かれるような例では、編集者にはそれをひっくり返す権限はないはずです。(形式上はあるけれど。)
> この点のみを目的として独自の学術誌を発行する
「この点のみを目的として」ではありません。
この件はすでに述べました。再掲すると、
「格付けのできる(きちんとした査読者のいる)理研の自前の雑誌の方が好ましい」
です。
また、こういう話は、【 関連項目 】のリンク先に記してあります。そっちを読んでください。
とにかく、人の話を読んでから書いてください。何度も言うけれど。
> このようなことも考慮に入れると、一概に「Natureのせいで論文の公表が遅れた」とは言えないと思います。
それは別に構いません。異論は認めます。
私は、私なりに見解を出しているだけであって、別に、他人の異論を全否定するわけじゃありません。どれが正しいかは、読者が判断すればいいことです。
ただ、M さんみたいに、「自分の意見だけが絶対的に正しくて、それに反する Openブログは独りよがりな間違いだ」という頭ごなしの批判には、反論しているだけです。
> いちいちソースを主張するなら、
> それを否定するソースを自分が出したら
> どうなの?
追加実験の要求があること自体が、revisionでないことの証です。
これは論文を投稿した人なら知っている常識です。
また、Receivedの日付もそれを裏付けています。一度rejectされたものを新規の論文として再投稿したのなら、この日付は再投稿時のものになるはずです。これも特例で片付けられるとお考えですか?
関係者の圧力でrejectが覆ったなどという検証不可能なことをいう人が「掲載拒否が人類の研究の進展を遅らせたか否か」について議論できるとは思えません。言葉の使い分けができないことも、この記事を一人よがりなものにしている原因の一つです。
私は revision だとは言っていません。reject だと言っています。勘違いしていない?
> 一度rejectされたものを新規の論文として再投稿したのなら、
そうじゃない。reject から major revision に扱いが替わった、と言っている。
私の話を理解できない?
> 検証不可能なことをいう人
科学でなくて人間関係(裏社会)のことなら、検証不可能なことはいっぱいありますよ。
「科学以外のことを語る人は、科学のことを議論できない」
という超論理はどこから来たの?
> 一人よがり
下品な人格攻撃はしないでほしい、と言ったのに。あなたは結局、悪口を書きたいだけで、そのために人の話を徹底的に誤読して、藁人形論法をしているだけ。もう、書き込みはお断り。来ないでください。
それがまさに、私が前のコメントで書いたことです。
繰り返しますが、査読者は常に複数つきます。
たとえ一人が「愚弄している」などというコメントを提出しても、他の査読者が好意的ならば、編集者は即時却下はしないでしょう。
また、編集者・査読者・著者の間のコミュニケーションがどのようなものなのかついても、具体的にはご存じないようで、それが誤解の元になっていると思われます。
おそらく、採択可否の決定において、編集者と査読者による合議のようなものがあると思われているようですが、そのようなものは一切ありません。
査読者は編集者から査読の依頼を受け、期限内に査読のレポートを編集者に提出します。
その後は、査読者は採択可否の決定に関して一切関与しません。
決定は事後に査読者にも通知されますが、もし査読者がその決定に不満があっても、それに対して異議をさしはさむことはできません。
編集者は、査読者のレポートを参考にしつつも、査読者とは独立に、独自の権限で採択可否を決定するのです。
(おっしゃるように、そのようなシステムでは、編集者の暴走が起こり得ます。
それを防ぐために、学術論文誌には、著者による「アピール」という制度があります。
著者は、採択可否の決定に不満がある場合、学術誌に対してその不満を訴え、決定を再考するよう要求することができます。)
そういうふうに評価が割れた場合には、著者に対して全面否定のコメントが届くはずがない、というのが私の認識です。
査読者の全面否定のコメントが出たときに、その全面否定のコメントを著者に届けるという編集者の判断があったとすれば、他の査読者もまた同様の認識(全面否定)であっただろう、というのが私の判断です。
それが常識でしょ?
査読者の見解が割れているときに、これほどひどいコメントを送るなんて、正気の沙汰じゃない。
どう考えても、査読者の見解は一致していたと見なすべきです。
また、小保方さんが「評価が割れた」とは語らず、「愚弄」という言葉を語ったことからしても、「評価が割れた」ということはありえません。もし「評価が割れた」のだとしたら、それにもかかわらず「愚弄というふうに言われた」と表現して、nature をおとしめるとしたら、小保方さんはとんでもない人物だということになりますよ。あなたはそう主張したいのですか?
──
※ そもそも、「愚弄している」「全面否定」という評価は、不思議でも何でもない。それが当時の学界の標準認識です。なのに、学界の常識に反するトンデモ意見を、編集者の独断で採用の方向に進めるなんて、とても信じがたい。編集者の独断があるとしたら、評価が割れそうな場合に限られるでしょう。誰からも「トンデモだ」と見なされるような意見を、編集者が勝手に独断で採用に決めるなんて、ありえそうにない。
>
> 私は revision だとは言っていません。
>reject だと言っています。勘違いしていない?
これは私の書き間違いです。
正しくは
「追加実験の要求があること自体が、rejectでないことの証です。」
と書くべきでした。
失礼しました。
「裏社会」の話なんてしてませんよ。
私は飽くまで科学の世界の話をしています。
まだまだ勘違いがあるようですが、 kochoryさんが丁寧に説明してくださっているので、混乱を避けるために私は少しの間黙っていようと思います。
これも一般にはまったく知られていない類のことでしょうが、採択可否に関してどのような決定がされたとしても、査読者のレポートは、そのままの内容で著者へ転送されます。
採択可否の通知の典型的な形式は、まずメールの冒頭に、編集者による決定の内容と、それに対して著者がどのように応答すべきかの指示が書かれており、その後に、すべての査読者のレポートの内容が、そのままの形で掲載されます。
査読者が「愚弄している」というレポートを書けば、編集者の最終的な決定がどうなったかに関わらず、それはそのまま著者へと送られるのです。
なるほど。それは知りませんでした。情報をありがとうございました。
ただし、いずれにせよ、reject であったか revision であったかは、決定的な証拠がなくて、あくまで推測されるだけです。
私としては reject から revision へ、という流れであったと推測しますが、それとは別の見解も成立するのだ、ということはわかりました。
ただ、kochory さんの言うように「意見が割れた」のだとすれば、どうして小保方さんは「愚弄」というような表現で全面否定されたという印象を与えたのか?
また、新聞社がいずれも「却下された」と報道したのはなぜか? もちろん小保方さんが「却下された」と語ったからだろうが、小保方さんはどうして revision (書き直し)を「却下」と表現したのか?
それが疑問ですね。kochory さんの説では、その二点がどうなるのか、説明を聞きたいところです。
しかし科学的に検証されたデータが豊富に存在し、論理矛盾が無いのであれば、それを拒絶する正当な理由がないので掲載する。これはNatureとして間違っていない。妥当な判断だ。
科学的データでは再現性が大きく重視されるはずだ。
条件依存性の確認で、特定条件下ではなく多くの条件の元で普遍的な現象である事が判れば、それは他機関での追試と同等とみなせるでしょう。そこまでやりこんだ彼女とそのチームが凄い。
他機関は単に追試するだけでは彼女の成果の追認になるので一気にヒト細胞で挽回しようとするだろう。
とすれば掲載拒否による数ヶ月から一年程度の遅れはもの凄い速さで追いつかれるんじゃないかと思う。
小保方さんに追いつくことはできるでしょうが、それでも、「人類全体における数カ月の遅れ」というのは、今後もずっと継続している可能性が高い。
比較対象は、小保方さんではなくて、「早期に公表していたとした場合の人類全体」です。
>また、新聞社がいずれも「却下された」と報道したのはなぜか? もちろん小保方さんが「却下された」と語ったからだろうが、小保方さんはどうして revision (書き直し)を「却下」と表現したのか?
朝日新聞の記事の、会見の書き下し( http://www.asahi.com/articles/ASG1Z0PGCG1YPLBJ00W.html )では、小保方さんの発言は
「たいへん厳しくて、あなたは過去何百年にわたる細胞生物学を愚弄(ぐろう)しているという返事をもらった。確証を示すための具体的な実験系の要求は、たいへん多かった」
となっており、「却下」とは言っていません。
これ以外の取材で小保方さん自身が「却下」という言葉を使ったのかもしれませんが、もしそうでないのなら、「却下」というのは記者による勘違いだと思われます。
「愚弄」というのは、単に小保方さんが、査読者のコメントにあった言葉ををそのまま口にされたのでしょう(それが実際に英語ではどのように書かれていたのかが気になりますが)。
あなたもしかして、本項を全然読んでないの? 本項の一番最初に何が書いてあるか、見てないの?
ちゃんと読んでください。
そのリンク先に、きちんと小保方さんの発言が引用してあるでしょ?
また、見つからなければ、
「小保方 却下」
でググってみてもわかるはず。このくらいは調べてください。
朝日の会見は、レクチャーのあとの一問一答です。その前のレクチャー(動画あり)で、産経などに記された「却下」という言葉が使われたのでしょう。
> 「愚弄」というのは、単に小保方さんが、査読者のコメントにあった言葉ををそのまま口にされた
そうじゃなくて、何でそればかりを特別に強調して語ったか、という理由を求めています。
どうも、レクチャーで語っただけでなく、会見でも語ったようで、二回も「愚弄」と語ったようですね。よほど強いインパクトを受けたのでしょう。
当然、revision とか、二通りの意見とか、そういう甘い状況ではなかったはずです。
そこで、低レベルの議論は、もうやりません。鈍足の人は置き去りにします。
今後は、駿足(しゅんそく)の人だけを相手にします。議論に付いてこられる人だけがついてきてください。
──
小保方さんが最初に投稿した論文には、何が書かれていたか? それを推測してみる。
単に「幹細胞ができたこと」つまり「GFPで光ること」(前々項の1番目の動画)だけだったとは思えない。それでは実証性がやや足りないからだ。何らかの偶然または別の理由で光ることも考えられる。
だから、最初の論文には、もっと画期的な事実が含まれていたはずだ。具体的には、2番目の動画(緑色の全身のマウスの動画)が判明していたはずだ。
このことは、次の記述とも符合する。
「11年にセンター客員研究員になった小保方さんは実験を続け、その年の冬、若山さんと、STAP細胞からできた細胞を持つマウスを誕生させた」という
結局、最初の論文(13年3月)には、全身のマウスで光るという事実(11年末ごろに判明)が含まれていたはずだ。
にもかかわらず、それは却下された。
だから、その是非が問題となる。
「全身のマウスで光る」というのは、STAP細胞が iPS以上の多能性をもつことを、強く裏付ける。それは、完璧ではないとしても、非常に有力な根拠となる。仮に、多能性をもたないとしても、このこと自体で「これまでにない画期的な新事実の判明」となる。
このような画期的な新事実を却下することは、妥当であったか?
妥当ではなかった、というのが、私の判断だ。
もちろん、私の判断に対して、「いや、そうじゃないぞ」と異論を立てるのは勝手である。とはいえ、私としては、「妥当ではなかった」と判断する。その旨を表明しておく。
(異論は認める。)
なお、これは、Nature を非難する意図ではない。「もっといい判断もあったのだ」という事後的な評価である。(後出しジャンケンみたいなもの。)……それだけだ。
「権威ある科学誌ネイチャーに論文を投稿したが、掲載は却下され、審査した研究者からは「細胞生物学の歴史を愚弄している」という趣旨のメールも届いた。肩を落とす小保方さんを、幹細胞研究の第一人者である笹井芳樹・副センター長(51)らが支援。データを解析し直し昨年3月、論文を再投稿。掲載が決まった。」
とのことなので、「愚弄している」というコメントは、2013年3月に投稿した論文へのコメントではないようです。
本稿の最初に引用されている産経の記事では
「昨年春、世界的に権威ある英科学誌ネイチャーに投稿した際は…」とあるので、事実関係に関して食い違いがあります。
これ以上は、当事者に確かめるか、発表の原文にあたる以外には、はっきりさせるすべはないように思います。
自分が見た感じこのブログは、『色んなサイトから情報を集め、その情報を元に管理人が好き勝手に 妄想 をする』ブログです。
なので管理人の考える話には正確性は考えられてません。(真偽より速報性のようです)
また、このブログは妄想ですので野暮な指摘も良くないです。
自分が妄想した事をブログに載せて、他人がその妄想に対し『現実性が無い、間違っている』とか言われたら、誰だって嫌な気持ちになると思います。
そういう話なんです。
管理人さんが妙な怒りかたしてるのは、『ただの個人サイトの妄想なのに何でここまで言われなきゃならんのよ。』ってことだと思います。
サイトから集めた情報には正確性があり、その情報を元に語っているため、てっきり信頼の置ける正確な情報を発信してるのかと思いますが、それが間違いです。
ここはネタブログです。
東スポなんです。
慣れると楽しいですよ。
※管理人さんの妄想部分を修正するには外部ソースが必要です。wikiなどに意見を書いて、それを提示したりするなど工夫をした方がいいかもしれません。
その方が時期的に整合性がありますね。
11年末に、マウスの全身を光らせた。
12年春に論文を投稿した。
12年夏〜秋に reject された。
13年春に、助言を得て、追加実験を加えて、再投稿した。
こう考えると、筋道が通る。私としては、新たにこっちの見解を取りたい。
(話の大筋には影響しないが、時期が少し変更される。……ただし、未確定。)
ヘンドリック・シェーンの例を知らないんだろうか?
もっと勉強して記事を書きなさい
ヘンドリック・シェーンの例は、捏造です。
本項でも「間違いだった場合/正しかった場合」に分けて論じています。
なのにあなたは、よりによってヘンドリック・シェーンを持ち出した。ということは、次のことを意味しています。
・ 高温超伝導は捏造だった。
・ STAP細胞は捏造だった
そう言っているわけですね? そうでなければ、あなたの主張は意味を持ちません。
顔を洗って出直した方がいいですよ。あなたはトンデモなので、本サイトでは reject の扱いとなります。
タイムスタンプは 下記 ↓
→ http://openblog.meblog.biz/article/20856464.html#cf
「 They submitted the first paper to a journal in April 2012, but it was rejected. Over the intervening year and a half, they continued to answer questions.」
→ http://j.mp/1fRtgiU
したがって、「 reject されたことはない」という Mochimasa さんと kochory さんの見解は、完璧に否定されたことになる。
もっとも、小保方さん自身が「却下された」と言っているのだから、「 reject されたことはない」と言い張る方がおかしいのだが。
なお、私自身の見解もまた、いくらか不正確だったことになる。「却下 reject された」という私の見解自体は正しかったが、その時期が間違っていた。それというのも、報道した産経が誤報したからだ。私が間違えたというより、間違いを報道した産経を信じたせいで結果的に間違いを掲載してしまったことになる。
この点については、私もお詫びします。(「産経なんかを信じる方が間違っている」と言われれば、ぐうの音も出ません。)
それでも、小保方さんを信じた点は、私の妥当性があります。小保方さんを信じなかった Mochimasa さんと kochory さんは、残念でしたね。
本項では、長々と論争が続きましたが、こうして完璧に決着が付きました。
とはいえ、その事実をもって、「却下されたことはない」と結論するのは無理があるし、そもそも、そんなことは猛烈に論争するような問題じゃない。
……ここまで考えて、ようやく気づいた。Mochimasa さんと kochory がやろうとしていたのは、真実の探求ではなくて、「真実の探求にみせかけた、いやがらせ」だったんですね。それが真相。
ま、最初からわかっていたけれど。真面目に対応して損した。
この二人は最初からスパマーだと薄々気づいていたんだけど、とにかく本項で、そのことがはっきりと証明されただけでもよしとしよう。以後はブラックリスト扱いにできるから。
小保方氏の
>昨年春、世界的に権威ある英科学誌ネイチャーに
>投稿した際は、「過去何百年の生物細胞学の歴史
>を愚弄していると酷評され、掲載を却下された」。
という記事等を根拠に管理人さんは、Natureへの掲載プロセスの妥当性を議論されているわけだから、このjournalがNatureでないと、管理人さんの主張は裏付けられませんよ。
ソースお待ちしてます。
だからね。そんな微小な問題はどうでもいいの。Nature だとは思うけど、そうであってもなくても、本項の趣旨とは何の関係もない。
要するにあなたは、どうでもいい重箱の隅を突ついて、スパム行為をしているだけ。本項の本論のことについては一度も述べていない。あくまで重箱の隅を突ついて、いやがらせをしているだけ。
前にもこう書きました。
> さらに言えば、本項の本論とはあまり関係のないこういう重箱の隅を突ついてばかりいるあなたは、どう考えても、ブログのクレーマーとしか思えません。
同じことを何度も書かせないで。日本語わかりますか?
時期が一致しない以上、2013年の査読時の「愚弄」に関するコメントを根拠にした議論は成立しないはずです。
つまり、あなたのイヤガラセ攻撃の主張は、成立しない話だった、と認めるわけですね? だったら、あれらの大量のイヤガラセ攻撃について、前言撤回してください。
しかも、 「a journal」に投稿したときにどういう理由でrejectされたかも分からないのに。当時は今ほどデータがなかっただろうし、また別の議論が必要のはずですよね。
いちいち質問に答えるのも馬鹿馬鹿しいと思ったが、ググればすぐにわかった。
> 権威ある科学誌ネイチャーに論文を投稿したが、掲載は却下され、審査した研究者からは「細胞生物学の歴史を愚弄している」という趣旨のメールも届いた。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20140130-OYT1T00213.htm
これは、13年春よりもずっと前のことだとすでに判明しているから、12年4月の投稿であったことになる。つまり、a jounal は Nature であったことになる。証明終わり。
( ※ 三段論法みたいな論理ですぐに結論が出る。もっとも、Mochimasa さんには理解できないと思う。理解するには論理力が必要なので。)
なお、上記の引用部の話は、はすでに言及済み。いちいちググるまでもなかった。
>成立しない話だった、と認めるわけですね?
>だったら、あれらの大量のイヤガラセ攻撃に
>ついて、前言撤回してください。
違いますよ。
いやがらせではなくて間違いの指摘だし、2013年のコメントに基づいて議論していたのは管理人さんですよね?
だから私は、2013年のNature誌への投稿はrejectでなくてreviseだと書いていました。2012年の話なんて、誰もしていなかったじゃないですか。
それをいきなり2012年の話を持ち出してきて、散々議論してきた2013年の話をなかったことにするなんて。
議論なんかしていませんよ。あなたが一方的に攻撃してきて、私は一方的に防御しているだけ。
あなたの攻撃の論拠(rejectはなかった)が砂上の楼閣だった、と判明したのだから、攻撃を取り消せばいいだけのことです。
スパマーはコメントからブロックしておきます。
上記は誤認なので、指摘しておきます。
私がコメント欄で新事実を展開する直前に、本文中でこの件について加筆(注釈)してあります。
つまり、本文は加筆修正済み。(削除はしておらず、注釈の加筆のみ。)
「間違い」と書いたあなたが間違いだった、とすでに判明しています。(reject はあったから。)
指摘するなら、ご自分の間違いを指摘するべきです。
また、イヤガラセの点では、本ブログのはてブに、悪口だけを書くのは、あなただけです。たとえば、「こんな記事なら存在しないほうが世の中のためになる」とか。
こういうネガコメは、はてなの規則に抵触するはずなので、あと数回溜まったら、はてなに Mochimasa さんの id 削除を申請する予定です。お待ちくださいね。
──
なお、反論があれば、ご自分のブログに書きましょう。そこではいくらでも悪口を書き放題ですよ。下品な悪口を書いてゴミだらけにしても、ゴミだらけになるのは(私のブログでなく)あなたのブログです。
なお、ブログ記事を書いたあとで連絡したければ、トップページから、左欄のメール送信フォームをご利用ください。
産経の誤報ですね。小保方さんのインタビューや関係者の話から誤報だと思って読んでました。
管理人がMLBでウィンター・ミーティングとオーナー会議を勘違いと同じでどうでもいい話。
本項の趣旨は掲載が遅れることで人類が損したってことでしょう。
2012年か2013年かはどうでもいい。rejectかどうかも瑣末な話。
論文自体は2009年頃から送っていたようです。
rejectされても定期的に送り続けたので2012年にネイチャーが切れて?、
”愚弄している”と酷評されてrejectされたようです。
それでも諦めずに実験を進めて2013年春の投稿ではネイチャーに”もしかして・・・”
と思わせて追加実験を要求して論文掲載に漕ぎ告げたようです。
バカと天才は紙一重と言いますが味方がいないどころか、
なんども否定され最後は罵倒までされたのにものすごい執念です。。。
ていうかネイチャー以外に送らなかったのかな?
この話題の方がずっと面白いですよね。私も気になっていた。だけど、誰もなかなか口に出さないんですよね。失礼になるから。
ただ、ネイチャー以外だと、出しても無視された可能性が高い。ネイチャーで認められなければ、「発表しただけで学界からは無視」となっていた可能性が高い。
歴史的に「先発見権」は得られたでしょうが、それが認められるのは、小保方さんの死後数十年もたってから、となっていたかもしれない。メンデルと同様。
その意味では、小保方さんの戦略は正しかったと思う。
こういう話題の方が面白いですね。
考え直すと……
arXiv みたいな「ゴミの海」に投稿すると、掲載されても無視されていた可能性が高いが、査読のある準一流雑誌ならば、まともに認められていた可能性も高い。だから、そうしてもよかった。
ただ、その場合は、次項に述べたのと同じ理由で、ノーベル賞を他人に奪われていた可能性もある。
私が思うに、小保方さんにとって一番大切だったのは、論文をどこに出すかではなくて、実験をさらに推進することだったんだろう。だからどんどん実験を続けていった。論文の提出先を悩むよりは、実験の課題を解決することに熱中していたのだろう。
頭には実験のテーマが次々と浮かんできたのだと思う。天才というのはそういうものです。
まああなたの個人ブログで誰をどう扱おうがあなたの自由ですし、私も私の好きでコメントをつけていただけですからどう扱われようとかまわないんですが、さすがに徒労感は否めませんね。
最後にひとつだけ。
本文の
「今回の研究成果は、Nature に掲載するよりも、理研独自の学術誌に掲載した方が良かった、と思える。Nature に掲載してもらって論文に箔をつける、というようなことは必要ない。なぜなら、箔をつけることが必要なのは、論文自体が輝きをもっていない場合だけだからだ。今回の論文のように、それ自体に輝きのある論文には、箔は不要だった。つまり、Nature の格付けなどは不要だった。」
と、"Posted by 管理人 at 2014年02月03日 22:10"の
「ただ、ネイチャー以外だと、出しても無視された可能性が高い。ネイチャーで認められなければ、「発表しただけで学界からは無視」となっていた可能性が高い。
歴史的に「先発見権」は得られたでしょうが、それが認められるのは、小保方さんの死後数十年もたってから、となっていたかもしれない。メンデルと同様。
その意味では、小保方さんの戦略は正しかったと思う。」
完全に矛盾してますね。
では以上で失礼します。
上のコメントは無視してください。
では。
↓
↓
↓
「理研独自の学術誌」というのは、存在していない。
前者は「理研独自の学術誌があったら」という未来の仮定の話。後者は、現実の話。双方は同時成立しないから、矛盾は存在しない。
例。「明日は晴れ」と「今日は雨」は矛盾しない。なのに双方を見て、「晴れと雨が同時成立するのは矛盾だ」とわめいているのがあなた。
あなたの論理レベルはこの程度。学問をするよりは、スパマーになるのが向いています。
仮にあなたがスパマーでなかったなら、こう書いたでしょう。
「上記の二点は矛盾しているように思えるのですが、いかがでしょうか? 私の勘違いかもしれませんが。」
こういう謙虚な書き方が、まともな研究者の書き方です。
冷静かどうかは関係ない。本論とは無関係の、どうでもいい重箱の隅にこだわって、しつこく粘着する、というのがスパマーなんです。
仮に、まともな研究者であれば、次のように記したでしょう。
「あなたの説明に従うと、13年春に投稿して、掲載拒否されて、その9カ月後に掲載を認められたことになります。これは、通常の reject の過程としては、ありえそうにないことです。どちらかと言えば、revision であったと思えます。したがって、あなたの説明には矛盾がありそうです。
では、この矛盾を解決するには、どうすればいいか? 私にはよくわかりませんが、どこかに事実との食い違いがあったと思えます。特に、産経の報道には信頼性がないので、産経の報道の真偽をチェックするべきです。
ただ、以上の点は本項の本筋とは関係のない、些末な点ですので、無視してくださっても構いません。」
こういうふうに指摘していれば、私は産経の報道をチェックして、産経の報道が誤報であったと確認したでしょう。そうすれば、私の解説の矛盾点を解消できました。
しかるにあなたは、「本項の説明には矛盾点がある」と指摘するかわりに、「本項は間違っている」という趣旨でしきりに批判してきました。それも、本筋とは関わりのない点で。(実際には、本項が間違っているのではなくて、不正確な点が少し含まれていただけだった。)
また、あなたはそもそも「却下された」という本項の最初の文章を見落としていました。「却下された」という最初の前提を無視した上で、「却下されていない」というふうに言い張りました。そのせいで、話の筋道がどんどん本筋から逸れていくばかりでした。
結局、本項の本題とは全然関係のないところへ話を導きながら、単に時間の無駄遣いだけを強いてきました。最終的に真相が判明した(12年春に最初の投稿があったと判明した)としても、それは結局はどうでもいい情報でした。
要するに、莫大な手間と時間の浪費を強いただけ。それが「スパマー」認定の理由です。
と
「今回の論文のように、それ自体に輝きのある論文には箔は不要」
は独立。
そう。独立していれば、そこに矛盾はありませんね。
> 自前の学術誌じゃ紀要レベルってことで下手すりゃ誰も注目することなく埋もれてしまうかもしれないし。身内で審査してるってことになるしね。つまり論文の質が保証されたことにならないし、準一流とすらみなされない
一般的にはその通りですけど、理研の場合には違う。理研はそれ自体に権威があるから、かなりの格が付く。
ちなみに、次のような例を考えるといい。
「 CERN 最新研究の成果を精選して、3カ月ごとに刊行する」
これだと、何カ月も遅れて Nature で公表するよりもはるかに興味深いから、たいていの人が熱心に読むはずです。
同様に、次のこともある。
「 山中さんが研究所における iPS の最新研究の成果を精選して、3カ月ごとに刊行する」
これも、研究者は競って読むはずです。iPS に関する限り、Nature 以上の格があると見なされるかもしれない。
結局、研究報告の格がどうなるかは、その研究所の格に従います。自前であるか否かが問題なのではない。研究所の研究レベルがどうであるかが問題となる。
今回もまた同じ。
「2009年8月にSTAP細胞の原形となる論文が完成したが、2010年春、論文は科学雑誌『Nature』に採用されなかった。」
出典は Wikipedia 。
→ http://j.mp/1kcnD46
そのまた出典は毎日新聞。
→ http://mainichi.jp/select/news/20140201k0000e040280000c2.html