前項で述べたように、種の絶滅に関しては、「環境への適応」よりも、「棲み分け競合」という概念の方が重要だ。
この際、その領域(棲み分け領域)を「生態的領域」と呼ぶことにしよう。
( ※ 何かいい名前はないかと思って、ネットを探してみたが、そもそもこのような概念に着目している人がいなかった。)
「生態的領域」においては、「棲み分け競合」が起こる。つまり、「棲み分け領域を共有するものだけが、たがいに競合して、たがいに相手を排除しようとする」という現象が起こる。
このことを領域に着目して表現すると、「領域の奪い合いが起こる」というふうにも表現できる。
──
「生態的領域」における「棲み分け競合」は、通常、兄弟種で起こる。つまり、よく似た近縁の種で起こる。
ただし例外的には、まったく異なる種で、同一の「生態的領域」を分かちあって、「棲み分け競合」が起こることもあるだろう。
その具体例が、下記で報告された。
→ 樹洞に外来アライグマ、フクロウの巣穴横取りか
→ 外来アライグマと在来フクロウの潜在的な競争
樹木に空いた空洞は、本来はフクロウが使うはずだったのだが、外来種のアライグマがその場所を占めてしまった、……という報告だ。
この場合は、「生態的領域」における「棲み分け競合」が起こっていることになる。下手をすると、外来アライグマのせいで在来フクロウが絶滅することになりかねない。
そういう形で「種の絶滅」が起こりかねないのだ。
──
ここで注意。これは、「環境への適応」という問題ではない。
「環境が変化して、その環境には外来アライグマが適応して、在来フクロウが適応しなかった。ゆえに、在来フクロウが外来アライグマに進化した」
というようなことはない。(当り前ですね。 (^^); )
ま、写真を見ると、フクロウとアライグマはちょっと似た感じもあるのだが、だからといって、「フクロウがアライグマに進化した」なんてことはない。 (^^);
こういう話はほとんど冗談みたいなものだが、そういう冗談みたいな話を真に受けることもありそうなのが、自然淘汰説の信者だ。
彼らは、種の絶滅について、やたらと「環境の変動への適応力の差のせいだ」というふうに主張したがる。その件は、前項で示した通り。(具体的な例は、前述の ネアンデルタール人の絶滅 3 で紹介した進化論学者の説。)
──
「生態的領域」における「棲み分け競合」という概念を使うと、種の絶滅について新しい認識をすることができる。「環境の変動への適応力の差のせいだ」なんていう滅茶苦茶な理屈を使わないで済む。
では、「生態的領域」における「棲み分け競合」は、どのような場合に起こるのだろうか?
(1) 外来種の進出
よくあるのは、外来種の進出だ。これまでにない外来種がやってきて、在来種の生態的領域を脅かす。そのせいで、「生態的領域」における「棲み分け競合」が起こる。……ここで、新旧二つの種は、兄弟種であることが普通だが、まったく異なる種であることもある。(上記のフクロウとアライグマの例。)
(2) 急激な進化
一方の種が急激な進化を起こした(もしくは進化の閾値を超えた)という場合が考えられる。それまでは、新種と旧種はたいして優劣がなかったのに、ある時期を過ぎると、新種の方が圧倒的に優れた能力を発揮して、旧種を「生態的領域」から追い出してしまう……というケースだ。
つまり、それまでは「共存」ができたのに、それ以後は「共存」ができなくなって、「競合」が発生して、一方が他方を追い出してしまうわけだ。そして、追い出された方は、別の生態的領域をうまく見つけ出せばそこで生きながらえるが、別の生態的領域をうまく見つけ出せなければ絶滅することになる。
──
なお、先の例では、フクロウとアライグマというふうに、まったく異なる種の棲み分け競合を話題にした。しかし、一般的には、兄弟種において棲み分け競合は起こる。
このことは、象の進化や、クジラの進化について、歴史を見るとわかる。たとえば、次の図を見てほしい。
→ 各種の画像
→ 進化の図
→ 図と説明
ここには、進化の過程における「すでに滅びた象の祖先種」がいくつも紹介されている。
これらの象の祖先種は、なぜ滅びたか? 環境の変動があって、その環境に適さなかったからか?
違う。同じ生態的領域をもつ種同士で、棲み分け競合が起こったからだ。そのせいで、旧種が滅びて、新種が生き残ったのだ。そういうことが、過去に何度も何度もあったのだ。
ここで注意。このような「種の交替」は、「自然淘汰」によって起こったのではない。なぜなら、「自然淘汰」は、「旧種から新種へ」という、なだらかな変化の過程であるからだ。(それは同一種の小進化においては起こる。)
一方、上記における「種の交替」では、いったん共存の期間があったあとで、旧種の方が突発的に絶滅したのだ。ちょうどネアンデルタール人が絶滅したように。
このような「種の絶滅」ないし「種の交替」は、「自然淘汰」によって起こったのではない。( → 前項の (4) )
では、どういうふうにして起こったのか? もちろん、前述の通り、同じ生態的領域をもつ種同士で、棲み分け競合が起こったからだ。
象の進化は、このようにして説明される。
その意味で、進化の過程は、自然淘汰説だけでは説明できない、とわかる。
自然淘汰説は、「新たな形質をもつ個体が出現する」ということについてはかろうじて説明できるが、「種の交替があること」「種の絶滅があること」「新旧の共存期間があること」については、ほとんど説明できないのである。
一方で、「進化の過程で、さまざまな種が出現したが、そのほとんどすべては絶滅した」ということについて、棲み分け競合という概念は、うまく説明ができるのである。
これは非常に重要なポイントだ。
[ 付記1 ]
経済の比喩で言おう。
iPhoneとアンドロイドは、スマホという市場で競合する。ここでは、似た者同士での競合がある。
一方、ノートパソコンやデスクトップパソコンは、スマホとは競合しない。これらはスマホとはまったく別のものとして並存する。
最近では、iPhoneのシェアが落ちて、アンドロイドのシェアが上がっている。これはどうしてか?
ここでは単に、棲み分け競合がある。つまり、iPhoneとアンドロイドは、どちらも(スマホ市場という)生態的領域を共有するので、その領域の奪い合いが起こっているのだ。
ここで、「iPhone は環境への適応がうまくできていないからだ」というふうに主張するのは、事実に反する。環境は関係ない。アンドロイドのシェアを増やすような環境の変化などは何も生じていない。仮に、何らかの環境の変化(たとえば地球温暖化による気温上昇)があったとしても、それがことさらスマホ市場だけに影響するはずがない。
iPhoneとアンドロイドのシェア競争は、同一の生態的領域における競合、つまり、棲み分け競合として、理解できる。ここで「環境の変動への適応」なんて概念を持ち出すのは、筋違いだ。
他の生物についても、同様のことは言える。たとえば、象の進化についても、同様のことは言える。
[ 付記2 ]
ネアンデルタール人はどうか?
ネアンデルタール人が絶滅した時期は、ホモ・サピエンスが言語能力を高めた時期に、ほぼ等しい。
アフリカにいた10万年前には、石器もろくに使えないありさまだったのに、4万年前の欧州ではクロマニョン人が石器や狩猟道具など、文化的な道具を使いこなすようになった。
( → 言語の歴史:10万年 )
人類は8万年前ごろに、主語と述語のある(文法のある)「文」を話すようになったと推定される。それによって知識を蓄えて、文化を形成していくことができた。その文化の発達は、遅々とした発達だったが、それでも4万年前の欧州では、石器や狩猟道具など、文化的な道具を使いこなすようになった。
このことで、ろくに道具を使えなかったネアンデルタール人とは、かなりの差が付くことになった。
なお、このような文化の差をもたらしたものは、言語の能力の差だが、その生物学的な理由としては、次の二点が考えられる。
・ 大脳の発達
・ 人中の発達
このうち、大脳の発達は、種としてはたいして違いのないままだっただろうが、(鼻の下の溝である)人中の発達は重要だ。このことゆえに、人類は言語をうまく発音できるようになったと推定されるからだ。( → 上記項目 )
というわけで、ネアンデルタール人の絶滅は、本項とはあまり関係ない。(棲み分け競合とも関係ない。前項で述べた通り。)
[ 付記3 ]
何でわざわざ「生態的領域」という言葉を使ったのか? それは、従来の「環境」という言葉が、あまりにも曖昧だからだ。
自然淘汰説の信者は、やたらと「環境のせい、環境のせい」と主張する。しかし、その「環境」というものが何であるかは、曖昧である。( → 前項 の (5) )
そこで、この曖昧さをなくして、概念をはっきりさせるために、「生態的領域」という言葉を導入した。
生物(特に種)において重要なのは、漠然とした「環境」なんていうものではなくて、その種にとっての「生態的領域」だけなのである。
そしてまた、大切なのは、「生態的領域」に適応することではなくて、(生態的領域で)ライバルとなる競合種に勝つことなのだ。ここでは、勝ち負けだけが重要となる。
たとえば、フクロウがアライグマに追い出されて絶滅するとしたら、そこでは単に「生態的領域における勝ち負け」だけが問題となる。この際、「フクロウよりもアライグマの方が環境に適していたのだ」と主張しても、無意味である。なぜなら、フクロウがアライグマに進化するわけではないからだ。
ここでは、進化は起こらず、種の絶滅だけが起こる(起こりそうである)ことになる。ここに、「環境への適応」なんていう自然淘汰説(進化の理論)を持ち出すのは、筋違いというものだ。
それゆえ、進化の理論ではないことを明示するためにも、「生態的領域」という新たな言葉が必要となるのである。
[ 付記4 ]
「生態的領域」とか「棲み分け競合」とかの言葉は、私が初めて使った。同様の言葉は、すでにあるのではないかと思って、検索してみたのだが、見つからなかった。
ちなみに、次の語で検索してみて欲しい。
→ 「生態 領域」
→ 「生態 環境」
→ 「棲み分け 領域」
特に目立つような情報は見つからない、とわかるだろう。
【 関連サイト 】
ネアンデルタール人の絶滅についてググると、次のページが上位に現れる。
→ ネアンデルタール人 その絶滅の謎 NATIONAL GEOGRAPHIC.JP
一部抜粋しよう。
現生人類は、ネアンデルタール人よりも社会集団の規模がわずかに大きく、わずかに生存能力が高かったおかげで、こうした過酷な条件下で生き延びたのかもしれない。ほんのちょっとの差が「極端な気候変動の中で、両者の命運を分けたのでしょう」とストリンガーは話す。
同趣旨の話は、次のページにもある。
現生人類の方が、社会集団の規模がわずかに大きく、少しだけ生存能力が高かったことが、命運をわけたのかもしれない。
( → なぜ、ネアンデルタール人は絶滅したのか? ,[ 転載 ])
これらの説は、「棲み分け競合」の発想で、ネアンデルタール人の絶滅を説明していることになる。(現生人類とのわずかな差を問題にしているから。他の種との関係はまるで無視している。)
しかし、ネアンデルタール人と現生人類は、棲み分け競合をしていたはずがないのだ。人口は非常に少なく、広範囲に分布していて、顔を合わすこともほとんどなかったからだ。
「ほとんどのネアンデルタール人と現生人類は、生涯の大半を通じて、直接顔を合わせることはなかったでしょう」と、ユブランは慎重に言葉を選ぶ。「居住域の境界近くでは、遠くから互いの姿を見かけることもあったと想像されます」
( → NATIONAL GEOGRAPHIC.JP )
このような状況では、生態的領域を共有することはないから、棲み分け競合はなかったはずだ。そう結論できる。
それゆえ、絶滅の理由の説明として、棲み分け競合を前提とした説明は、成立しないのである。
【 追記 】
「成立しない」とすぐ上に述べたが、この見解とは逆の見解を思いついたので、次項に記す。
→ ネアンデルタール人との競合 (次項)
ほとんど言葉遊びですが、既存の議論に出てくる用語がそれらを意識しているか否かは、この稿にも関係してくるかと思います。
すでに示した通り、「環境」という言葉が曖昧に使われている状況がまずい。さまざまな要素を含むか否かは、用語の問題だから、どちらでもいい。
ただし、その要素を含むか含まないかを明示して、考察対象を厳密化することが大切。それが本項の趣旨。
つまり、「漠然と『環境』という用語を使うな」ということ。用語が曖昧だと、思考も曖昧になる。
> 競合種より天敵
天敵の話は「捕食者」という用語で、本日公開予定の項目で言及します。
昨日のうちに書いたんだけど、本日公開することにしていたら、上で「天敵」という用語で先取りされてしまった。 (^^);