生物種が進化したのは環境に適したからだ、という見解が強い。同様に、生物種が絶滅したのは環境の変動が理由だ、という見解が強い。しかし、そうではあるまい。
そもそも、「生物種が進化したのは環境に適したからだ」ということが成立しない。この件は、前にも述べた。
・ 「魚が陸に上がっても、魚に足は生えない。魚が干からびるだけだ」
・ 「猿が草原に出ても、猿の脳は発達しない。猿が肉食獣に食い殺されるだけだ」
自然淘汰説とは、何か? 「優勝劣敗」という形で、劣者が淘汰される(絶滅する)ことを示す理論だ。しかし、そこには、「優者が誕生する」という原理は示されていないのだ。
「あからじめ優者と劣者が存在すれば、劣者が淘汰される」
ということは、自然淘汰説で示される。しかし、
「もともと現在種(旧種)だけが存在しているところで、優者となるべく進化した種(新種)が誕生する」
ということは、自然淘汰説では示されないのだ。
そして、そういうところで、旧種を新環境に放り出しても、旧種は決して進化しない。たとえば、魚を陸に放り出しても、魚に足が生えることはなく、魚が干からびて死ぬだけだ。
「魚が陸に出たから、魚に足が生えたのではない。魚に足が生えたから、魚が陸に進出するようになったのだ」
「生物は、新しい環境に適するように進化するのではない。先に進化があった。進化したものだけが、新しい環境に進出することができたのだ」
「新しい環境に進出するためには、まずはそのための能力を獲得しなくてはならない。それも、従来の環境で」
( → 英語で授業:その是非 )
生物は、新しい環境に進出したから進化したのではない。新しい環境に進出するだけの能力を獲得したから(新種になったから)、新しい環境に進出できたのだ。
つまり、
新環境 → 進化
という順序ではなく、
進化 → 新環境
だったのだ。
その意味で、冒頭のような見解(主流派の見解)は、論理の順序が転倒している。「魚が陸に上がれば、魚に足が生える」というような説は、論理が狂っているのだ。
──
結局、次のことは妥当ではない、と言えるだろう。
・ 生物種が進化したのは環境に適したからだ
同様に、次のことは妥当ではない、と言えるだろう。
・ 生物種が絶滅したのは環境の変動が理由だ
進化であれ、絶滅であれ、そういうことは環境の変動だけで説明できるはずがないのだ。……これが本項のテーマ(主張)となる。以下では、これをめぐって論じよう。
──
第1に、絶滅の規模だ。
実は、環境の変動が種の存廃に影響することは歴史上に何度もあった。たとえば、現在の地球温暖化のせいで、サンゴ礁の白化という問題が起こっており、ある種のサンゴは絶滅しつつあるのかもしれない。同様に、気温の変動で種の絶滅が起こったことは、過去に何度もあるだろう。
とはいえ、そのような絶滅は、決して単一種で起こったのではなかった。気候の変動(もしくは環境の変動)による絶滅は、かなり広範な種において同時に起こった。
だから、ある単一種の絶滅が起こったとき、「気候の変動」(もしくは環境の変動)をその理由とするのであれば、その単一種だけでなく、多くの種において絶滅が起こったことを示す必要がある。
第2に、絶滅種の特定性だ。
すぐ上に述べたことを裏側から述べる形になるが、環境の変動は、特定の種の絶滅の理由としては、不適切だ。環境の変動は、多くの種に影響するのだから、特定の種だけが絶滅する理由にはならない。
たとえば、ネアンデルタール人の絶滅の理由を、環境の変動だと決めつけることはできない。なぜなら、環境の変動がネアンデルタール人だけを絶滅させることはありえないからだ。当然ながら、他の多くの種の絶滅に影響するはずだ。なのに、環境の変動のせいでネアンデルタール人だけが絶滅した、というのは、あまりにも不自然だ。(この件、前項でも述べた。)
第3に、環境以外の要因だ。
種の絶滅は、環境以外のことが要因となることも、しばしばある。最も多いのは、共通領域における種の競合だ。代表的なのは、有袋類と有胎盤類の競合だ。この場合は、競合のあとで、前者がこぞって絶滅した。
さらに、絶滅の理由はたくさん考えられる。病気もその一つだ。種が近縁であれば、病気を共有することも多いはずで、そのあとで、病気への抵抗力の差で絶滅と存続に別れることもあるだろう。
──
一般的に言えば、進化や絶滅について「環境のせい」というふうに決めつけるのは、話があまりにも単純すぎる。生物というものは、さまざまな形質をもつ複雑な存在なのだから、その形質を多様に調べるべきだ。つまり、生物を生物らしく捕らえるべきだ。
なのに、生物を「環境の変動によって数の増減が起こるもの」というふうに見なすのは、生物をただの数字と見なすのも同然である。そこには生物学的な視点が欠けている。
こういう認識では、生物の真実を正しく理解することはできまい。……それが私の立場だ。
【 注 】
この最後の結論と同趣旨のことは、前にも述べた。一部抜粋しよう。
「生物を生物としてとらえること」
「生物を生きている生命体としてとらえること」
「生物を生活の活動をする個体としてとらえること」
これは、ファーブルを持ち出すまでもなく、生物学においては当然のことだ。
ところが、ドーキンス以来、このような発想は軽視されることになった。かわりに、集団遺伝学を初めとして、次のような発想が取られるようになった。
「生物を単に増減だけでとらえること」
「生物を数理的にとらえること」
「生物を性質よりは数字で捕らえること」
このような立場が幅を利かせることになった。そして、「生物学はいっそう数学的で科学的になった」と思うようになった。
しかし、「生物を数字に置き換える」というのも同然の方法は、かえって真実からは遠ざかってしまうのである。なぜなら、生物学は、生物の学問であって、数字の学問ではないからだ。
(中略)
生物の真実を知るには、生物の多様な生物的側面を、詳細に調べることが必要だ。生物学的な現象を……単に「遺伝子を増やすため」ということだけで片付けようとしたら、人間の生物的な多様な側面に目をつぶることになる。それではとうてい真実を見抜くことはできない。
( → 女性に更年期があるのはなぜか? )
【 関連項目 】
本項は、前項と強く関連しています。前項の話を一般化したものが、本項だと言えます。
→ ネアンデルタール人の絶滅 3 (前項)
(新種になったから)、新しい環境に進出できたのだ。
興味深いテーマです。ダーウィンが進化論の着想を得たガラパゴス諸島は、500万年前にナスカ・ホット・スポットで
形成された。生の火山島に砂礫層ができ、鳥が種子を落とすようになるまでに長い歳月が必要なので、ゾウガメが
固有進化に要した時間は、ざっと見積もって、100万年程度でしょうか。
閉じられた環境なので、こちらは環境適応型の進化ですね。ゾウガメの主食はウチワサボテンとすると、サボテン
も食べられたくないので高木化した。ゾウガメも負けずと甲羅を跳ね上げ鞍型にした。という解釈は分かりやすいが、
論理分析し、それならDNAのこの部分を改修しようという対応は、現代科学でも難しいので論外。
中立説のように突然変異はガウス分布するのであれば、環境に有利な微小変異種が花形となりメスにもてるので、
子供を残す。その繰り返し的な積み重ねで、見事な鞍型ゾウガメになっていった。
つまり、「逞しく見えるオス(環境適応型)をメスが本能的に好むから、特定方向へ進化する」という、メス嗜好性
が進化の原動力であるという仮説もあるかも。