話の発端は、次のツイートだ。
サイエンスでいうなら、生物の目的とは子孫を残すことなのだから、その目的に反する同性婚は積極的に否定されなければならない。こんなことを言うとかのタンポポ氏には噛みつかれることだろうが。w
— ふじおかひろき (@guchinandayo) 2013, 11月 26同性愛うんぬんは不謹慎だが、「生物の目的は子孫を残すことだ」と見なす発想そのものは、よくある発想だし、とりたてて問題視するほどでもないと思える。
しかし、これが はてなブックマーク で大批判にさらされた。引用しよう。
- サイエンスで言うなら、生物に目的などない。
- twitter 差別 サイエンスでいうなら、価値だとか目的だとかは設定し得ない。科学というか進化論を誤解してる。まあ、非常にありふれた手垢で真っ黒な同性愛否定論。もちろん、完全に否定されてる。
- これはひどい あほか。つ"同性愛的行動が1500に近い種で観察されることが示されていて、このうち500種については十分な典拠があげられている"http://j.mp/17YSBIl
- これはひどい 誤用 生物に「子孫を残す」目的などない。ドーキンスでいうなら、子孫を残すのは結果論としてであり、自身のコピーを多く残す遺伝子がよりよく存続できるシステムだからというだけ。あと、人間はミームを活用できるからね
- 短い中に多数の突っ込みどころと自身の無知偏見を織り込めていて、俳句のように洗練されたバカ文章だと思いました。
ま、批判したくなる気持ちは、わからなくもない。「同性婚は積極的に否定されなければならない」というのは、同性愛の人に対する差別だし、不謹慎だと言える。
とはいえ、それは別として、「生物の目的とは子孫を残すこと」という発想は、それほど問題なのだろうか?
これについて考えてみよう。
──
まず、「生物の目的とは子孫を残すこと」という発想は、ごくありふれた発想である。特に上記の人が独自の発想をしているわけではない。その証拠に、これ以前の期限でググれば、たくさんのページがヒットする。
→ Google 検索 (2013-10-31 以前)
「子孫を残す」という言葉を、「自分の遺伝子を残す」という言葉に置き換えると、やはり同様にたくさんのページがヒットする。
→ Google 検索
このように、生物について「子孫を残す」「自分の遺伝子を残す」という発想は、ごくありふれた認識である。
特に、「自分の遺伝子を残す」という発想を強く唱えたのはリチャード・ドーキンスだ。彼の発想は、次のようなものだった。( ※ 「個体」と「生物」はほぼ同義)
「遺伝子の目的は自己複製である」
「個体は遺伝子の乗り物である」
この二つをまとめる形で、次のようにも述べた。
「個体は自分の遺伝子を増やそうとする」
以上のことから、次のように結論するのは、ごく自然のことだ。
「生物の目的は子孫を増やすことである」
こうして、冒頭の発想は、ドーキンスの発想とほとんど同じだ、とわかる。
( ※ 正確に言えば、若干の違いはある。「遺伝子の目的」と「個体の目的」は、同じではない。とはいえ、個体は遺伝子の乗り物としてふるまうのだから、遺伝子の目的は間接的に個体の目的であると見なしていいだろう。この二つの目的は、排反的であるというよりは、同調的である。)
──
以上のことから、次のように言える。
・ 「生物の目的は子孫を増やすことである」という発想は、ドーキンスに由来する。
・ なぜなら、「生物は自分の遺伝子を増やそうとする」という発想は、ドーキンスの発想だからだ。
・ とすれば、「生物の目的は子孫を増やすことである」という発想を否定するとき、冒頭の一般人を批判するよりは、ドーキンスを批判するべきだろう。
──
なお、上記の見解に対して、次のような反論が予想される。
「ドーキンスの表現は、比喩的な表現にすぎない。ドーキンスが述べたことは、『結果的に生き残った遺伝子が増えたというだけのことだ』。科学的にはそれだけのことにすぎない」
ま、それはそうだ。しかし、それを言うなら、「生物の目的は子孫を増やすことである」という表現だって、同様に比喩的な表現だと見なせる。こっちもあっちも、同様だ。どっちもどっちだ。ゆえに、冒頭の意見だけが批判されるということにはならない。批判されるなら、どっちも批判されるべきだし、批判されないなら、どっちも批判されないべきだ。片方だけが批判されて、片方だけが批判されない、というのでは筋が通らない。なぜなら、どっちも本質的には同じことを言っているからだ。
その意味で、はてブの批判は、大いに筋違いをしていることになる。それはつまり、「自分は進化論のことをよく知っている」と自惚れている人々の多くが、本当は進化論のことをよく理解していない、ということだ。
そのことを、指摘しておこう。
[ 付記1 ]
では、正しくはどう認識するべきか? 「どっちもどっち」ということはわかったが、「どっちも批判されるべき」なのか、「どっちも批判されないべき」なのか?
私の見解を言おう。「どっちも批判されるべき」というのが正しい。つまり、はてなブックマークの批判者の見解は、それ自体は正しい。
とはいえ、どうせ批判するのならば、冒頭の個人を批判するのではなく、根源であるドーキンスそのものを批判するべきだった。
つまり、
「遺伝子の目的は自己複製である」
「個体は遺伝子の乗り物である」
「個体は自分の遺伝子を増やそうとする」
という認識は、いずれも正しくないのである。
- ( ※ ドーキンス説についての上記評価に、疑義を感じる人もいるだろう。そういう人のためには、別項で解説しておいた。前項の一覧を見てほしい。
→ 前項 )
[ 付記2 ]
では、正しい認識は何か? 私の見解は、こうだ。
「遺伝子の目的は、自己複製ではなく、系統の存続である」(増やすことではなく、絶滅しないことである)
「個体の目的は、個体自身がよく生きることである」(子孫を増やすことではない)
この件については、下記項目で説明した。そちらを参照。
→ 生命の本質(総集編)
※ これ自体が、多くの項目のまとめである。
詳しくは、そのリンク先を参照。
[ 付記3 ]
「系統の存続」とは何か? 祖先から子孫へと至る系統が、絶えることなく存続することである。(増えることは必要ない。)
さて。「系統の存続」は、「子孫を残すこと」と同じではないのか? なるほど、この両者は、よく似ている。ただし、次の点で違う。
・ 子孫を残す …… 自分の子孫を残す。
・ 系統の存続 …… 系統の子孫を残す。
わかりやすく言おう。人は子孫を残す。そのとき、「自分の子孫を残す」と思いがちだ。しかし、本当はそうではない。
「自分の子孫を残す」と思っているとき、その子孫は、自分だけの子孫ではなくて、同時に、父母の子孫であり、祖父母の子孫であり、曾祖父母の子孫であり、さらに古い先祖の子孫である。子孫とは、それら連綿と連なる祖先全体の子孫なのだ。
人は、その連綿と連なる系統の一部をになっているだけなのだ。(リレーの走者の1人のようなものだ。)だから、子孫を残すというのは、ある個人の欲望などではなくて、時間的な集団(系統)における役割なのだ。リレーの走者のうちのただ1人がバトンを落とすだけで、その集団は失格する。同様に、系統のうちのただ1人¶が子供を残さないことでその系統は途絶する。
子孫を残すということは、何らかの欲望や利益に従ってなすことではなくて、系統の存否をかけた重要な役割なのだ。
- ¶ 正確には、「ただ1人が」ではなくて、「ただ一つの世代が」である。つまり、兄弟姉妹の全員が子孫を残さないときに、その系統は途絶する。(上の文章ではちょっとわかりやすく書くために、不正確な表現をとった。そこで、ここに注記しておく。)
[ 余談 ]
話の本筋からは、少しズレるが、冒頭の見解には、同性婚の否定があった。これについての批判も、はてなブックマークにあった。
ま、批判の趣旨は正しい。たしかに同性愛を否定するようなことは、人倫に もとる。
とはいえ、はてなブックマークの見解は、根拠としては妥当ではない。なぜなら、元の文章にあるのは、「同性婚」の否定であって、「同性愛の否定」ではないからだ。
批判者は多くの生物の例(クジラやアリなど)を挙げて、「同性愛をする生物がある」とか「不妊の生物がある」とかというふうに批判する。しかしそれは批判になっていない。なぜなら、人間以外の生物は、同性婚をしないからだ。
結婚は人間の社会制度である。それに参加できるのは人間だけだ。クジラ同士が同性愛的行動を取ることがあるとしても、クジラが区役所に婚姻届を提出することはありえない。なぜなら、クジラは判子を押せないし、署名もできないからだ。そもそも、そうしたくても、そうするための指がないのだ。

【 関連項目 】
→ 同性愛の遺伝子はなぜ残る?

タイムスタンプは 下記 ↓
Q 「増やすことではなく、絶滅しないこと」という表現があるが、どっちも同じでは?
A いや、同じではない。なぜなら、次の二つを比較するといい。
・ 増えやすいが、絶滅しやすい。
・ 増えにくいが、絶滅しにくい。
この二つで、どちらが生き残るかと言えば、後者だ。つまり、「増えにくい」方が生き残る。
これは「ハイリスク・ハイリターンと、ローリスク・ローリターン」という概念で考えると、わかりやすい。下記項目。
→ http://openblog.meblog.biz/article/311427.html
──
これは、人間の資産投資でも成立する。
「ハイリスク・ハイリターンと、ローリスク・ローリターンでは、どちらがもうかるか?」
期待値が同じだとすれば、次のようになる。
・ 大金持ちになる確率が高いのは、ハイリスク・ハイリターンの方である。
・ 破綻してゲーム終了になる可能性が低いのは、ローリスク・ローリターンである。
──
生物の場合でいえば、ローリスク・ローリターンの方が生き残りやすい。それは、定義からしても、明らかだろう。
かくして、「生き残るものは、増えやすいものではなく、絶滅しにくいものだ」と言える。
換言すれば、「増えやすいものほど生き残る」という通説は、正確さが足りない。
( ※ ただしこれは、「種」または「系統」という個体集団についてのみ成立することだ。小進化する遺伝子について成立することではない。遺伝子については、「増えるものほど有利である」ということは成立する。ただし、その競合者は、対立遺伝子だけである。)
結局遺伝子を残すとか,子孫を残すとか,生き物の原理であると思うのがおかしいと思います.
自分が生きるのが最大の目的かと.
自分が生きたいと思うだけではないでしょうか?
本文中にそう書いてあるでしょ? 読んでないんですか?
数学的にはどっちでもええがな。って部分に国語や教育面からの「正しい順序」が与えがち。
人間タイプの人工知能は、そういう規範や正しさを見つけてしまいがち。
ただの模様に、人の顔を見つけてしまうのと同じような性質。それ自体は重要な能力なんだけど。
「我々自身の性質に、どうエラー修正回路をつくるか?限られた文字数でどんな応急パッチを当てるか?」
というテーマかな。
あのみんなの反応はそっちを主題にした反応だったと思いますね。
同性愛については、下記項目で新たに論じました。
→ http://openblog.meblog.biz/article/19946680.html
「同性愛の遺伝子はなぜ残る?」