掛け算の順序は大切か? (いちいち順序にこだわるべきか?)、という教育問題がある。
たとえば、
「 50円の本を 8冊買いました。全部でいくらになったでしょう」
という問題に、
50×8 = 400
と書けば正答だが、
8×50 = 400
と書けば誤答となる(得点ゼロになる)
……というような採点が問題となる。
──
これについて、次の見解が話題となった。
→ かけ算の順序にこだわる教師と出版社の皆様へ
一部抜粋しよう。
日本語でも「A円のノート8冊の代金」は「8冊のA円のノートの代金」と書き換えることもできる。※ 見やすくするため、英字を x から A に書き換えた。
また、交換法則を教えてある以上、A×8と8×Aを同値と見なさないのは教育内容と合致しない。
──
他にもいろいろと見解があって、次にまとめられている。
→ 掛け算順序問題派閥チャート
これはおもしろい分類だ。見ていて楽しくなる。 (^^);
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さて。ここで私の見解を示そう。以下の通り。
( ※ これは、上記の分類のいずれにも当てはまらない、新見解だ。)(ただし 2013-11-19 20:00 )
この問題は、「数式を言語的に表現する」という発想があるのだ、と想定すると、よく理解できる。
たとえば、
「単価が A 円のノートを 8冊」
というふうに日本語で考えるから、 A × 8 というふうに書きたがる。
いっぽう、英語で考えるなら、
「 8冊の、単価 A 円のノート」
というふうに考えるから、 8 × A というふうに書きたがる。
( 1冊ならば a book であり、8冊ならば eight books )
つまり、「 A × 8 というふうに書きたがる」というのは、「数式の意味を考える」ということのようでいて、実は、「数式を日本語で考える」つまり「数式を日本語で表現する」ということに相当する。
換言すれば、「数式は言語で表現されるものだ」という思い込みと「言語とは日本語だ」という思い込みがあるわけだ。この思い込みがおかしいわけだ。
では、正しくは?
数式は、思考を抽象化したものであって、思考過程そのものではない。だから、思考過程における言語的な過程は、数式では消えてしまう。……こう理解するのが正しい。
なのに、そこを理解できないで、「数式には言語的な思考過程が残されている」と思うのが、学校教師だ。本当は、その認識自体が、非数学的であるわけだ。(言語 or 日本語でないものに、言語 or 日本語を持ち込むから。)
なるほど、数式を書くときに、言語的な思考過程をきちんと押さえておくことは大切だ。ただし、その過程は、数式には残らないのだ。そのことをきちんと理解しておくべきだろう。
そして、その理解がないことから、
数式 = 意味 = 言語 = 日本語
というふうに結びつけてしまったのだ。本当は、このような関係は全然ないのだが。
──
まとめ。
「数式の意味を理解するべきだ」という主張には、「数式の意味は言語で理解される」という発想がひそんでいる。
「数式は言語で表現されるものだ」という思い込みが、このような「意味の理解が大切だ」という主張をもたらす。
[ 付記 ]
比喩的に言うと、次のことに似ている。
「英語を理解するときに、いちいち和訳して理解するか?」
本当ならば、英語を理解するときには、英語のままで理解すればよく、いちいち和訳して理解するべきではない。
しかし、古い頭の持主だと、こう思い込む。
「英語を理解するためには、いちいち和訳して理解することが絶対に必要だ。それが教育というものだ」
これと同じ思い込みが、数学の世界にもある、と考えるといいだろう。
そのせいで、「数式を数式のまま理解する」ということができずに、「数式を言語によって理解する」という方針を取る。そして、そのことを「数式を真に理解することだ」と思い込む。実はそれは、とんでもない勘違いなのだが。
【 補説 】 (やや難解。)
私の見解と同趣旨の見解はないかと思って、検索してみた。
→ 「(掛け算 or かけ算) 順序 (言語 or 言葉) 」- Google 検索
次のページがヒットした。
→ http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20130126/1359147548
→ http://nlogn.ath.cx/archives/001450.html
内容はどちらも同じで、次の趣旨。
「掛け算の順序は、言語に依存する。日本語ではこの順序だが、英語では逆の順序になる」
──
さて。上のことは、本項の趣旨に似ているが、似て非なる。
私が言いたいことは、
「日本語と英語では順序が異なる」
ということではなくて、
「『掛け算の順序』という発想は、『言語を数式化する』ということだ。しかしそれは無意味だ」
ということだ。
ここでは、日本語と英語との違いを指摘したいのではない。むしろ、次のことを言いたい。
「言語による思考を数式化することはできるが、そこで数式化したものから言語による思考を探るということはできない」
つまり、
○ 言語 → 数式 (言語の数式化は可能)
× 言語 ← 数式 (数式から言語を探ることは不可能)
ということだ。ここには不可逆性がある!
この不可逆性を理解しない教師が多いことが、この問題の本質だ、と言えるだろう。
( ※ 言語の数式化はたしかに大切なことだが、数式を見てそこから言語の過程を知ることはできない。だから、掛け算の順序から採点することはできない。思考過程を教育することはいいのだが、数式から思考過程を推測して不合格点を出すことは不適切である。)
《 補注 》
もう少しわかりやすく書こう。
50×8 = 400
と書けば正答だが、
8×50 = 400
……ということは、次の二つを区別したい、と意図している。
・ 単価 50円のものが 8冊
・ 単価 8円のものが 50冊
しかしそれは「単価×冊」という日本語の言語構造を前提としている発想なのだ。
実際には、逆順に「冊×単価」であってもいい。この場合には、
・ 単価 50円のものが、 8冊
・ 8冊の、単価 50円のもの
という区別をすることになる。そして、この区別は無意味である。
これがつまり、上記の「不可逆性」ということだ。
《 オマケ 》
掛け算の順序について、
(単価)×(数量)
という順序に決まっているのだ……という主張もある。
しかし、それはおかしい。
「教わったものだけが正しい」
という発想は、
「別解は正しくない」
「自分の頭で真実に到達することは悪いことだ」
「考えることは悪いことだ」
というのと同じである。それは民主主義的な発想とは正反対で、独裁者の言いなりになる人間ばかりを養成することになる。日本を北朝鮮みたいにしようとする発想だ。そんな教育は、有害無益である。やらない方がマシだ。
【 関連項目 】
本項の続編があります。
→ 掛け算で単位を書くべきか?
※ 単位を書けば順序の問題はなくなる、という名案(?)について。

Q 自分はこの人と逆の立場で思考の過程ならば記述しなければならないと考える。思考の過程を問うているのだから。中学校の文章題で最後の答えの数字のみ書くのはさすがにどうかと思う。
A 「思考の過程」という言葉にとらわれすぎ。中学校で数式を変化させていくというような「思考の過程」ならば、きちんと表現するべき。
一方、本項で述べているのは、「A×B」という部分を言語で理解するべきか否か、という話題。
どちらも「思考の過程」というふうに表現できるが、意味していることはまったく別のことだ。
中学校で数式を変化させていくというような「思考の過程」は、本項の話題とはまったく別のことだから、混同するべからず。
※ 「私もあなたもどちらも『日本人』と呼ばれるから、私もあなたも同じ人間である」というような混同。
言葉に引っかからないようにしましょう。
※ 文中では「思考過程における言語的な過程」というふうに表現されています。
※ 難解だけれど、重要な話です。
タイムスタンプは 下記 ↓
タイムスタンプは 下記 ↓
その中でリンクしていますが、http://d.hatena.ne.jp/dlit/20120223/1329972884 は、数式と言語を「掛け算の順序」に関連づけて書かれた記事ですのでご一読ください。
そのほか「数式だけで具体的状況を表現し切ることは無理」をタイトルにしたWikiのページもあります。http://www18.atwiki.jp/kakezan/pages/33.html
「式に表す」「式をよむ」「式の形式的処理」といった考え方が、算数・数学教育にはあります。『数学教育学研究ハンドブック』という2010年に出た本の第3章§3(文字式)で整理されています。ざっと読み直したところ、基本的には日本国内の話ですが、文字式をよむことに関して日米でインタビューを行ったという事例も報告されています。
個人的には「数式から言語を探ることは不可能」のところは、「数式から言語を探ることは、言語の数式化よりも困難」だと認識しています。「不可逆性」というよりは「曖昧性」です。全国学力テストでA問題(計算中心)よりもB問題(理由説明もある)の正答率が低い要因の一つと考えています。
単位までちゃんと書くと誤解が無くなる:
50円/冊 x 8冊 = 8冊 x 50円/冊 = 400円
「数式には言語的な思考過程が残されている」
と考えてしまうのは結果であって、本質は
「抽象化の概念を理解してない」
ことだと思います。
数式は思考を抽象化したものである、ということは言葉としては理解していても、抽象化の概念を理解できていないから言語的に解釈しようとしてしまう、ということだと思います。
抽象化の概念を全く理解できてない人が小学校で算数を教えるから、こんな変な指導がまかり通るのでしょう。酷い話です。
単位まで書く方法は、確かに誤解はなくなりますが、抽象化の概念を理解しづらくさせ、テクニック的な理解に向かわせがちなので、お勧めしません。
算数の出来ない子に限って,2×3と3×2のちがいを意識しない(できない)ことが多い.そういう子は式の意味も全然理解しないまま,例題が掛け算になってるからこの問題も掛け算でという程度の理解しか出来ていません.
英語にしたら逆の順番ってのは,教育的にはただの屁理屈にしかならない気がしますね.
そりゃ、同語反覆(トートロジー)でしょう。算数ができないんだから、2×3と3×2のちがいを意識しない(できない)のは当然です。もしできたら、算数ができることになります。
2×3 が正解であるときに 3×2 をバッテンにしたからといって、算数ができるようになるわけじゃありません。
> こどもに言語化させて数式を理解させるのは必要ではないか
必要ないですよ。必要なのは「言語を数式化する」ことだけです。逆に「数式を言語化する」のは、数式を書いた人だけです。
・ 3円が2個
・ 3個の2円
そのどっちの意図であるかは、数式を書いた人だけが決めることができます。なぜなら、数式の意味は、そのどっちでもいいのだから。
数式を見せた上で、「どっちの意味か」を当てさせて、一方だけを正解とするなんて、ただの「独りよがり」にすぎません。
ちなみに、ここで私が
3×2=6
と書いたとしたら、どっちの意味であるか、あなたはわかりますか? わからないでしょう? あなたにわからないことを、子供に求めるなんて、おかしいでしょう?
科学技術の革新は、縦横斜めから見る、無関係と思われたものと関係付けることが重要で、管理人さんが紹介された仰天教育とは180度異なりますね。
インディアンが、種族にとって重要な長い長い口伝を次の世代へバトンタッチするとき、一言一句を丸暗記させるのではなく、「このストーリーで3つの異なる話を作りなさい」と指導したという。一種の多様性教育ですね。
ユダヤ人はタルムードを熟読させる教育をしてきた。「タルムードは2世紀頃からユダヤ人の間で幾たびも議論の末に改良を重ねられてきた生活および思想の基礎」なので、練り上げられた多様な思索と知恵の万華鏡ですね。「いい国作ろう鎌倉幕府」程度の教育をしている国と大分ちがいます。
タルムードの格言から
□「粉屋が煙突掃除屋と喧嘩をすると、粉屋は黒くなり、煙突掃除屋は白くなる」
□「正しい者は自分の欲望をコントロールするが、正しくない者は欲望にコントロールされる」
□「楽観が最も強い鎧となる」
□「学ぼうとする者は、恥ずかしがってはいけない」
□「賢い人間の前に座る人には三つのタイプが居る。言われた事を何でも信じてしまう人。右の耳から左の耳に抜けて何も残らない人。賢い人の言葉から『大切なもの』と『そうでないもの』を選別する人。」
□「対立を恐れるな。進歩は対立から生まれる。自分の見解に賛成しない者も大切にしなければならない」
□「自分のことだけ考えている人間は、自分である資格すらない」