確率と統計とは異なる。とはいっても、サイコロのような場合には、両者の違いは(本質的には)ない。
一方、疫学のように社会現象を扱う場合には、両者はまったく異なったものとなる。次のように。
・ 確率 …… 各個体はまったく同等である
・ 疫学 …… 各個体はまったく別物である
(1) 確率
確率の場合には、「各個体はまったく同等である」と言える。たとえば、3の目が出たり、5の目が出たりするが、違うのは目の数字だけで、どの目も同等の確率で事象が起こると考えられている。現実には微少な差があるのだろうが、そういう微小な差は無視して、「どれもまったく同等である」と考える。
その上で、
・ 理論上の確率
・ 現実上の統計
を取るが、両者は「理論/現実」という違いがあるだけで、本質的には同等であると考えていい。
(2) 統計
統計の場合には、「各個体はまったく別々である」と言える。たとえば、同じく3月5日生まれの人がいても、同じなのは誕生日ぐらいであって、他の点ではたいていが異なっているはずだ。たまたま一致する点があるかもしれないが、それは「偶然の一致」で片付けていいのが普通だ。
こうなると、
・ 理論上の確率
・ 現実上の統計
を取っても、両者はまったく別のことになる。なぜなら、確率における「各個体はまったく同等である」という前提が成立しないからだ。その意味で、確率は無意味になる。
ひるがえって、工場の生産品ならば、確率は意味を持つ。MacBookAir の東芝製 の SSD が故障するとして、どのくらいの割合で故障するかということは、確率も統計も意味を持つ。なぜなら、MacBookAir の東芝製 の SSD は、どれも原則的に同等だからだ。
──
このように「各個体はまったく同等である」ということが成立するか否かで、確率というものが意味を持つかどうかが決まる。
では、疫学では? もちろん、確率は意味を持たない。なぜなら、人はみな違うからだ。
ここまで考えると、次のことがわかる。
「放射線を浴びたとき、どのくらいの頻度で死者が発生するかということは、統計的には意味を持つが、確率は意味を持たない」
たとえば、
「これこれの量の放射線を浴びると、10万人に1人の割合で死者が増える」
ということが、統計的に判明したとしよう。
このことは、次のことを意味するか?
「これこれの量の放射線を浴びると、10万人に1人の割合で死の宝くじに当たる」
もちろん、意味しない。なぜならば、これは確率的な現象ではないからだ。つまり、無作為にランダムに決まる事象ではないからだ。
仮に確率的な事象だったとすれば、無作為にランダムに決まる。その場合、老若男女の誰もが「死の宝くじに当たる」可能性がある。しかし、そういうことはありえない。
現実にはどうか? こうなる。
「微量の放射線を浴びると、10万人に1人の割合で死者が増えるとしたら、その死者は、最も癌にかかりやすい高齢者である。若者や子供は関係しない」
これはどうしてかというと、癌というものは、次のようなメカニズムで起こるからだ。
「癌は、何らかの原因のあとで、一挙に癌となって発現するものではない。正しくは?最初は小さな遺伝子エラー(または小さな腫瘍)が出現して、それが長年をかけてしだいに蓄積する(または腫瘍がしだいに拡大する)ことによって明白な癌の形を取る」
つまり、癌は「白/黒」のような形で出現するものではない。白い健康がいきなり黒い癌になるのではない。その中間状態がある。
では、中間状態とは? 灰色か? いや、「小さな黒」だと思う方がいい。その小さな黒が、最初は目に見えないぐらい小さいのだが、だんだん大きくなる。ある程度以上大きくなると、検査に引っかかるようになる。それでも自覚症状はないので、たいていの人は気づかない。そのまま時間が流れると、黒い点はかなり大きくなる。すると、人々は痛みなどの変調を感じて、病院に行く。そこで検査を受けて、「癌だ」と判明する。その後、治療を受けるが、黒い点はどんどん大きくなっていく。そして最終的には、すごく大きくなって、本人が死んでしまう。(その場合にも、真っ黒というわけではない。白い部分はまだいくらか残っている。)
ここで注意することがある。
「外部から何らかの発癌要因が訪れると、白が黒になりやすくなるが、外部からの発癌要因が何もなくても、個体それ自体はすでに何らかの発癌要因をかかえていることが多い」
これは要するに老化である。老化それ自体が発癌要因となっているのだ。
モデル的に考えよう。
P という量の放射線を浴びると、白が黒になる割合が1%増えるとする。
また、発癌するレベルが、「黒の割合が 30%」であるとする。
さて。ここで、P という量の放射線を浴びると、どのくらいの確率で人は発癌するだろうか?
この答えは、簡単だ。前にも述べた通り、確率は無意味である。
では、確率ではなく医学的にはどうなるか? こうだ。
「黒の割合が 29% である人(すでに発癌要因が 29% 蓄積している人)は、発癌要因が 30%になるので、発癌する。一方、黒の割合が 29% 未満である人は、発癌要因が 30%に満たないので、発癌しない」
ここでは、話がかなり単純化されているが、原則的にはこう理解していい。すると、次のように結論される。
「 P という量の放射線を浴びると、白が黒になる割合が1%増えるが、その 1%は、無作為にランダムに割り当てられるのではない。黒の割合がすでに 29% に達している人(つまり老化が進んでいて発癌の直前にある人)だけが発癌する。それに該当するのは、年齢が 70歳を超えるような老人がほとんどだ。
一方、若者や子供は、 P という量の放射線を浴びたところで、すぐに発癌することはない。将来的には、発癌する可能性が少しだけ増えるが、それは、他の発癌要因に埋もれてしまうぐらいのレベルだ。(1%よりも 29%の要因の方が大きいから。たとえば、過労とか、睡眠不足とか。)つまり、若者や子供は、微量の放射線を浴びることについて、ほとんど心配しなくていい。むしろ、心配することで、ストレスが高まるので、そのことによる発癌の可能性の方がよほど有害だ」
これが事実だ。このことから、次のことが結論される。
「福島で『微量の放射線が有害だ。死の宝くじに当たる』というふうに述べる人は、そのこと自体が、ストレスによる発病死をもたらす。微量の放射線による発癌死は、統計誤差レベルの微小数である( → 該当項目 )。 一方、上のストレスによる発病死(癌以外を含む)は、無視できない量になる」
実際、ストレスによる発病死というのは、ものすごい数になる。福島では、地震や津波や放射線にともなう避難のあとで、ストレスを主因とする死者が莫大な数に上った。
→ 避難による死者が 1618人
これほどにも多大な死者が出ているのに、さらに「放射線で死ぬぞ」というふうに心配させてストレスを加えれば、ますます死者は増える。特に、高齢者は。
高齢者以外にも健康の悪化をもたらす。特に、子供がそうだ。朝日新聞の「プロメテウスの罠」に事例の記事がある。
原発事故以降、放射能対策に気を配るあまり、結果的に子どもに負担をかけているのではないか。
事故以降、外で遊ばせることをなるべく控えさせた。夏のプールの授業を休ませ、保健室で自習させた。
長男はストレスがたまり、イライラが目立つようになった。一度泣き出すと止まらないようになった。加えて運動不足となり、1年で体重が平均より多めになった。50メートル走が8秒台から9秒台に落ちた。
( → プロメテウスの罠 2013年10月7日 )
子供にこれだけの健康悪化をもたらしている。そして、その健康悪化をもたらしたのは、ストレスである。このとき、単に体重が増えて泣きやすくなっただけではない。ストレスによって健康全般が低下している。病気になりやすくなり、寿命も縮まっている。
おおざっぱに言えば、この子供の場合の寿命短縮の効果は、福島の放射線による分は1日程度だろうが、親がやたらと気にしすぎること(たとえば戸外の運動を禁止したりすること)の影響は、100日ぐらいになるだろう。つまり、「放射線は危険だ」と思うことの悪影響は、実際に放射線が危険であることの 100倍も大きいのだ。逆に「放射線は危険じゃない」と思って、戸外でいっぱい運動をすれば、放射線による寿命短縮は1日かぐらいあるだろうが、十分な運動による健康改善の効果が 100日ぐらいあるから、差し引きして、99日も長生きできるようになるのだ。
──
以上のような認識が、科学的な認識というものだ。何らかの問題があるとしても、それが統計誤差レベルの小さな問題である限り、無視した方がいい。それよりは、もっと大きな影響をもつもの(ストレスの有無とか、運動の有無とか)を考えた方がいい。
そして、こういう科学的な認識ができないまま、単に「放射線は危険だ」とか、「放射線は死の宝くじだ」とか語ることは、人々に非科学的な間違った知識を植え付けることで、人々をかえって死の危険にさらしているのである。
福島ではその犠牲者がとても多い。福島では健康の悪化が進んでいるだろうが、その最大の理由は、「微量放射線に怯えたあげく、ストレスを溜めることと、運動不足になること」なのである。それらは微量放射線よりも圧倒的に大きな悪影響をもたらす。
ただ、福島の人にとって、有利な点が一つだけある。それは、ホルミシス効果だ。つまり、微量放射線を浴びることで、人々の免疫能力が高まったり、自然環境における菌やウイルスが弱体化されたりする。そのせいで、健康によい。
→ 微量放射線の影響 (最後の箇所)
→ 微量放射線と乳幼児
福島の人々には、「放射線は危険だ」という虚偽による害悪がいっぱい襲いかかっている。しかし、その福島の人々を救っているのは、皮肉なことに、放射線そのものなのである。
「あいつは悪党だ。あいつなんか嫌いだ」
と毛嫌いしていたら、いざというときに守ってくれるのは、その毛嫌いしていた相手なのである。そして、あなたのためを思って「あいつは悪党だ」と喚いていた人々は、あなたのことを守るどころか、尻尾を巻いてさっさと逃げ出してしまうようだ。
ただし、彼らは、「東大話法」とかいう本を書いて、金儲けをするのである。
結局、親切そうな口ぶりをしていても、彼らのやっていることは、「福島の人々を食い物にして金儲けをすること」だけなのである。
[ 付記 ]
「そういうおまえも上にアフィリを書いて金儲け」
と批判する人もいそうだ。 (^^);
でもね。こんなアフィリを置いても、10円単位の金にしかなりません。というか、上の本を買う人がいるとは思えない。あなた、買いますか? 買わないでしょ。
上のアフィリは、単にさらしものにしているだけです。
【 関連項目 】
→ 東大は教員採用に面接を (前項)
【 関連サイト 】
発癌のメカニズムについての説明は、いろいろあるのだが、とりあえず次のページを紹介しておこう。
がんの死亡率が、年齢のおよそ4から6乗に比例することから、がんの発生までに約20年以上かけて、遺伝子の4回から6回もの変化が必要だと考えられています。
正常細胞のなかの一個のがん細胞が分裂を重ね、しだいに悪性度を高めながら目に見えるがんになるには、ふつう20年か、それ以上の年月がかかるわけです。このような過程を、多段階発がんといいます。
( → がん(ガン・癌)発生のメカニズム )
もうひとつ、関連ふうに、次のページを紹介しておこう。
→ 小児の発癌と潜在期間
【 追記 】
本項は「確率とは何か?」を基礎的に論じているわけではない。「確率に比して、統計とは何か」を論じている。論点の置き方が違うので、勘違いしないように。
「確率とは何か?」は、ざっと済ませているが、その件は、下記項目で示した。
→ 物理と確率(確率とは何か)
以下では、ごく簡単に説明しよう。(読まなくてもいい。)
「アルファ粒子が崩壊する確率」
というような、個別事象について、いろいろと確率を考察することができる。ではなぜ、確率を考察できるのか? その基礎には、シュレーディンガー方程式があるのだが、そもそもなぜ、シュレーディンガー方程式で確率的に示すことが可能なのか?
それは、物事の根源を考えるといい。その根源とは、こうだ。
「すべての素粒子はたがいに同等である」
たとえば、電子なら電子、中間子なら中間子。これらの素粒子は、たがいに同等であると見なされる。あるところで観測された電子と、別のところで別の時点で観測された電子は、まったく同等のものだと見なされる。(同一ではないが、同等である。)
このような同等性(均等性)がある。これが根源にあるからこそ、量子というものは確率的にふるまうのである。
逆に、量子というものが人間のように個性をもつ別々のものであれば(たとえばそれぞれの電子がすべて個別の質量・スピン・電荷をもつのであれば)、そのときにはもはや量子は確率的にふるまうことはなくなる。(そのとき、それぞれの量子はたがいに区別可能なものとなったあげく、たぶん古典力学的にふるまうようになるだろう。……この箇所、あまり意味のある仮定ではないが。 (^^); )
ともあれ、量子のさまざまな現象は、現象自体は(個別的であるがままに)個別の確率計算が可能だが、その根源には、量子の均等性があるのである。
( ※ サイコロの目がどうなるかを予測する場合にも、サイコロの目が6分の1ずつの確率であることが根源となっている。個別の事象は、それぞれ別々だが、それらの個別の事象の根源には、サイコロの目の均等性がある。)
( ※ なお、このような均等性がまったく前提とされていない場合には、それはもはや数学的には確率の意味を持たなくなる。たとえば、「彼女が僕を愛してくれる確率」とか、「宇宙人が存在する確率」とかは、均等性がまったく前提とされていない。そこでは、確率っぽい数字を計算することができても、それはもはや数学的な意味での確率とは異なるものとなる。)
( ※ ちなみに、天気予報の確率も同様である。一日一日の天気が異なるがゆえに、そこには均等性がない。「似た天気」という疑似的な均等性はあるが、真の均等性はない。それゆえ、その数字は確率ではない。実際、天気予報の結果を確率ごとに事後的に調べると、「大数の法則」がまったく成立していないことが判明するだろう。……根源的にランダムさが含まれていない限り、そこにある数値は「確率」にはなりえないのである。)
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《 補足 》
ついでにもう少し補足しておこう。具体的な例を示す。
例1。
ある薬の有効性を知るために治験をしたら、「有効が 70%、無効が 30%」(その他はなし)と判明したとする。この薬を、特定の患者に処方したとき、「有効である確率が 70%」という結論を下すことができる。
しかしそこで言う確率は、本来の確率ではない。なぜなら、人はそれぞれ個別に異なっており、有効であるかどうかは「白か黒か」という形で決着するからだ。実際、研究が発展すれば、個別遺伝子を知ることでオーダーメード医療ができるようになるから、事前に遺伝子を調べることで、「有効か無効か」が事前に判明する。
では、「有効である確率が 70%」という数値は、何か? それは、「確率」ではなくて、「確率を利用した推論」にすぎない。自分の知識が不足している(個別遺伝子によるオーダーメード医療ができない)ので、「個別遺伝子については知らない」というのを、「個別遺伝子については差を無視する(無視してもいい)」というふうに仮定して、その仮定の上で下した推論であるにすぎない。……ここでは、いくら「確率」という言葉を用いても、それは本来の意味の「確率」ではないのだ。そのことを、本項は指摘する。
例2。
集団遺伝学で、遺伝子の頻度などについて研究する。ある遺伝子と対立遺伝子について、Aとa、Bとb、Cとc、などの組み合わせで、次世代以降の頻度を調べる。
ここで、それぞれの遺伝子について、「複数の遺伝子はすべて同等である」と仮定するのが普通だ。その意味では、「個体の同等性」は成立していることになる。(仮定において。)
では、その仮定は正しいか? 「正しい」と思う人が多いだろうが、実際には正しくない。なぜなら、次の差異があるからだ。
・ 1塩基多型(SNP)
・ DNAメチル化(cf. エピジェネティクス )
・ 他の遺伝子の影響
最初の二つは、よく知られているものだ。(だからいちいち解説しない。知りたければ、ググればいい。)
最後の「他の遺伝子の影響」とは、次のことだ。
「遺伝子は、それ単独で存在しているのではなく、DNA の約2万個の遺伝子のうちの1個として存在している。だから、特定の遺伝子の影響を調べようとしても、それ単独で調べることは不可能であり、他の遺伝子の影響を免れない」
たとえば、こうだ。
「ある遺伝子と対立遺伝子 A/a の差を調べようとして、統計を取ったとしても、現実には、 A/a の差だけでなく、他の遺伝子の違いも影響してくるので、 A/a の差だけを見ることはできない」
換言すれば、こうだ。
「集団遺伝学において、『各遺伝子は同等のものである』と見なすのは、ただの仮定にすぎない。その仮定は現実には満たされない」
たとえば、「Aという遺伝子はすべて同等である」と仮定するのはいいが、その仮定は現実には満たされない。なぜなら、Aという遺伝子が発現したことの結果には、他のさまざまな遺伝子が発現したことの結果が混じってしまうので、Aという遺伝子が発現したことの結果というのは、それぞれの個体ごとに異なるからである。現実のAという遺伝子はすべて同等であるとしても、その結果として観測されたものは個体ごとに異なるのだ。
さらに言えば、最初の二つのこと(一塩基多型とDNAメチル化という違い)もある。
というわけで、集団遺伝学においても、「各遺伝子は同等のものである」ということは成立しない。それはただの仮定である。しかも、その仮定は満たされない。……というわけで、集団遺伝学でどれほど確率的に論じようと、それは「現実には成立しない仮定のなかでの話」にすぎないのである。いわば机上の空論である。そのことに留意するべきだ、ということを、本項は教える。
( ※ 「だから集団遺伝学などの議論は無駄だ」と批判しているわけではない。「その議論には一定の有益性があるが、限界もあるのだとわきまえよ」と注意点を指摘している。「既存の学問を否定するのはトンデモだ!」などと頭に血をのぼらせないようにしてほしい。それは誤読である。)
( ※ 一般に、賢明な人は、自らの限界について常に注意しようとする。一方、愚かな人は、自らの限界を指摘されると怒り狂う。よくあることだ。)
A それについては回答済み。再掲すると、
> 「だから集団遺伝学などの議論は無駄だ」と批判しているわけではない
ということです。
では、「無駄ではない」「無意味ではない」としたら、何であるのか?
「真実ではないとしたら、虚偽なのか? 集団遺伝学を虚偽の学問だというのか?」
と頭に血をのぼらせる人もいそうだが、それは早とちりというものだ。真実ではないからといって、虚偽だとは限らない。では、何か? ……それは、近似である。
本項で述べた話は、「真実ではない」というふうに否定はしているが、「虚偽である」というふうに全面否定しているのではなく、「限界がある」というふうに部分否定しているだけだ。「100%の真実ではない」ということは、「0%の真実(虚偽)である」ということではなく、「95%の真実(近似)である」というふうに考えた方がいい。
そういうふうに、「限界の指摘」を示すことが、本項の意図だ。全否定ではない。勘違いしないでほしい。