これは政府の教育再生実行会議の原案。
まずは記事を引用しよう。
1点刻みをやめ、段階別の「点数グループ」で評価する新しい大学入試の共通テストを創設する。
( → 毎日新聞 2013年10月03日 )
試験結果を1点刻みでなく、何段階かに分けたランク表示とす
( → 日本経済新聞 2013-10-04 )
1点刻みの選抜方式を見直し、段階別に点数グループを大くくりに分けて一般入試に活用するテスト
( → 日本経済新聞 2013-10-03 )
その趣旨は、次のことであるらしい。
「たったの1点の違いで合否の差が出る現状は、極端すぎる。それよりはもっとおおざっぱに 10段階ぐらいで評価すればいい。そのあとの細かな違いは、面接や論文などで決めればいい。学力はおおざっぱに見るだけにして、細かな違いは面接や論文などで決めればいい」
こう思っているとしたら、よほどの馬鹿だろう。
──
(1) 段階別は無意味
そもそも、段階別にするという発想が無意味だ。なぜなら、段階を分ける時点で、「1点刻み」が復活するからだ。
たとえば、「93点以上がAランク」ならば、「93点はAランク、92点はBランク」というふうになる。ここで、1点刻みが復活する。
特にひどい例では、「英語では1点差でBランクに落とされたが、数学では 100点満点で超Aランクなのに評価されない」というふうになって、不合格になる受験生が出そうだ。その一方、「英語も数学もAランクギリギリ」という受験生は、「どちらもAランク」と評価されて、合格になる。
・ 例1 … 英語 92点、数学 100点。合計 192点で不合格。
・ 例2 … 英語 93点、数学 93点。合計 186点で合格。
こういう逆転現象が起こる。あまりにも馬鹿げている。
(2) 全科目の総得点も無意味
上の (1) は、各科目ごとの段階だった。では、全科目の総得点で段階づけすればいいか? いや、それも無意味だ。全科目で段階づけするなら、意味を持つのは一つだけだからだ。
たとえば、合格ラインが、総合で4科目440点満点のうち、 400点だとする。この場合、400点以上と 399点以下という二つのグループだけが意味を持つ。それ以上の「 420点以上」とか、はるか下の「360点以下」とか、そういう別のグループ(段階)があったとしても、何の意味もない。意味を持つのは、合格ラインを上回るか否かということだけだ。その意味で、意味を持つ段階は二つしかない。
(3) どうせなら点差の幅を取れ
どうしても「1点刻みで見るのが駄目だ」と思うのであれば、別の方法を取ればいい。こうだ。
「合格ラインの上 30名と、合格ラインの下 30名、合計 60名を対象に、面接や論文などの特別審査を施す」
これならば問題ない。この際、学力試験の点数と、特別審査との点数とを、総合的に勘案すればいい。ただし、学力試験の点数は、そのままの点数で見る必要がある。(段階別でグループ化などはしない。)
──
結論。
冒頭の原案は、目的と手段とを正しく理解できていない。「1点差の弊害」を防ぐのであれば、(3) のような方策を採るべきだった。なのに、(1) または (2) のような方策を採ろうとした。これでは、目的に合致するより、かえって状況を悪化させるだけだ。
結局、冒頭の原案を出した人々は、数学的思考とか、科学的思考とかを、まったく理解できていない。そういう論理馬鹿が、国の大学入試を決めようとしているのだ。狂気の沙汰だ。気違いに刃物。まるで気違いが医者になるようなものだ。
こういう馬鹿連中が国の教育の根幹をいじろうとしているのだから、呆れてしまう。学術会議のようなまともな学者たちが、政府のデタラメさをきちんと指摘するべきだ。
といっても、彼らは指摘しそうにない。だから毎度のことながら、私が指摘する。
【 追記 】
「1点刻みは駄目だ」というのが発想のもとらしい。しかし、「1点刻み」の否定は、「10点刻み」ではなくて、「刻みをなくすこと」である。つまり、(1) ではなくて、(3) である。
比喩的に言うと、「液晶ディスプレイの文字はカクカクして読みにくい」という批判に対して、「だったらドットをデカくすればいい」(解像度を低くして粒を粗くすればいい)という処置を執るようなものだ。これでは方向が逆である。むしろ、「四角いドットのない(アナログ的な)電子インクを使えばいい。そうすればなめらかに表示される」という発想を取るべきだろう。
この比喩はあまりうまくないかもしれないが、おおまかにはわかるだろう。とにかく、「1点刻みは駄目だから、10点刻みにする」というのでは、方向性が逆である。
「小さな弊害があるのか。だったら、弊害をデカくすれば、小さな弊害がなくなる」という発想になっているのでは、狂気の沙汰だ。
【 関連サイト 】
「点数よりも人間性を重視して、面接で合否を決める」
という方針を大々的に掲げている大学がある。「芦屋大学」というものだ。それを紹介しているサイトがある。
企業二世の育成のために存在する芦屋大学では、ペーパーテストでは測れない「人間性」を重視している。ではどうやって人間性を測るのか、もちろん面接である。(続く)
以下はHPからの抜粋。
> 求める学生像
本学では創立以来、「面接」による入学試験を重要視してきました。今もすべての入試制度で「面接」を必須としており…
> これは人間性を重視した結果であり、決してペーパーテストが出来ない馬鹿に対する救済措置ではないのである。
( → 【偏差値35】芦屋大学伝説【フェラーリ通学】 - Togetter )
金持ちの馬鹿息子が集まる大学。偏差値35でも、金だけはたっぷり。構内は通学の高級車がいっぱい。そういう大学が「ペーパーテストよりも人間性」と言っているわけだ。
ということは、政府の冒頭の方針は、日本中の大学を「芦屋大学みたいにしよう」ということなのだろう。 (^^);
ついでだが、この大学は、「甲子園を経由しないで MLB に行ける野球選手を育てる」という方針。
→ 高野連に喧嘩を売った芦屋学園の画期的な取り組み
この記事を読んで、はてなブックマークに歓迎のコメントを書く人がたくさん出現した。
→ はてなブックマーク
日本の甲子園にも出られない落ちこぼれ野球選手が、一挙に MLB に行って、メジャーの大スターになる……というのを夢見ているわけだ。
正気かよ。 (^^);
日本という国は、どうなっちゃったんでしょうね。「巨人の星」のころなら、「大リーグ」と言えば「大リーグボール養成ギプス」であり、「ものすごい努力」のことであったが、今の日本では、「努力しないで、迂回路を通って、すばらしい結果にありつく」というインチキばかりを狙っているようだ。
こういう連中が増えると、詐欺師がのさばるようになるな。……あ、だから、「いつかはゆかし」(アブラハム)なんてのが栄えるのか。
【 後日記 】
「1点刻みの弊害」
というのが、まさしく現れる場合がある。それは、「受験者のレベルに比して、問題が易しすぎた場合」である。この場合には、合格ラインの得点が、満点の 95%以上になるので、どうでもいいような違いで合否が決定してしまう。(本来の学力の違いを見ることができない。)
「そんな事例があるのか?」
と疑うかもしれないが、ある。東大の理科三類だ。93%〜97%ぐらいが足切りラインである。
→ 足切り得点率推移(東大後期・2007年度入試まで)
また、東大の2008年以降では、理系が一括となっているが、そこでは 88%〜90%程度が足切りラインである。
→ 足切り得点率推移(東大後期)(2008年以降)
ここでも 1点刻みが大きくものを言う。つまり、どうでもいいような違いが大きく影響して、真の学力を正しく判定できていないはずだ。
結局、「1点刻みの弊害」というのは、易しすぎる問題であるときには、たしかにあるのだ。だから、適切な難易度の試験を採用するべきであり、センター試験なんかを東大は採用するべきではない、と言える。この件は、先にも言及した。下記。
→ 東大推薦入試は有効か?
【 関連項目 】
→ サイト内検索「センター試験」
→ サイト内検索「センター試験 面接」
※ 面接入試は駄目だ、という話題。
でしょうね。10段階分類はひとつの試みでしょう。
脳科学の研究では、あることを過剰にやると脳の資源がそれに多く振り分けられる。すると、他への割り当てが減る。
しかも神経回路網の配線が固まると、作り直しが困難になる。お受験の内容で脳を固めることは、国家的な損失です。
スポーツでも変なフォームのクセがついた人(たとえば、石橋貴明氏のゴルフ)を、後から矯正することは難しい。
井深大、盛田昭夫、本田宗一郎、稲盛和夫各氏が、仮に「今でしょう」と幼少から塾通い、お受験浸りにして、他の
経験をさせないで育てたら、普通の人になったでしょう。
お受験秀才は受験に適性があることを示すが、社会において人材であることを保障するものではない。
企業が人材を見つけ育てる方法は、新入社員を公平に半年づつ、例えば6つの異なる分野を経験させるのは効果的
です。本人たちも会社の全体像が見えてくる。自分のやりたいことや適性分野が分かる。周囲も彼らをよく知ることが
でき、会社も素材のよい人が誰か見えてくる。急がば回れですね。
タイムスタンプは 下記 ↓
問題点はすべては書きませんが
●所得格差による教育格差まで視野にいれているか
●試験の競争性の緩和よりも、教育の方針を見直す段階ではないか。
●人間性の重視を軽率に扱いすぎではないか
●試験制度そのものが、受験者よりも制度設計者及び試験運営側の重荷軽減を重視していないか
●大学自体の見直しが必要ではないか(大学は学問と社会の橋渡しではないのか
挙げると切りないですが、今日の社会問題は教育及びモラルの問題だと考えます。
自己目的化した受験のための勉強は、若者の可能性と感受性を摘み取ってるだけで、教育指導マニュアルに従順な、適応できる人間か否かを判断しているだけ。いわゆる、産業社会の従順な働き人作り。
今考えるべきは、どう大学に入れるかなどではない。どう大学までに若者に、柔軟に学問と触れ合わせ、そして大学は一体どういう場所であるべきか。そうすれば、自ずと大学の存在方針が見え、ならどういう判断基準で入学選考するかが見えてくるはずである。少なくとも、今の制度は学ぶ制度というより適応させる制度である。
極論、東大に行くか行かないかがどこまで所得格差や教育格差や都市地方の情報格差に影響を受けているか想像に難くない。生育環境を公平化するのは、もはや前世紀に実験が失敗しているが、現行制度では生育環境による序列、階層化が著しいのは明白である。学びたいものに道を拓くのが入試ではないのか?それは単なる受験秀才の取捨選択ではない。どうせなら、学力による大学順位(偏差値)なんぞより、どれだけ学問に熱意と意欲があるかの大学順位(学業投資値?)の方がまだ未来性がある。
そういう根性論が幅を利かせていますが、下記を読むといいですよ。
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林修「努力は裏切らないって言葉は不正確」
http://omoshiroi-hanashi.com/hukai/3677.html