小泉首相がこの問題を考えて、「原発は駄目だ」と結論したそうだ。
まず、毎日新聞の報道があった。
小泉はフィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」見学を思い立つ。自然エネルギーの地産地消が進むドイツも見る旅程。原発関連企業に声をかけると反応がよく、原発に対する賛否を超えた視察団が編成された。
原発は「トイレなきマンション」である。どの国も核廃棄物最終処分場(=トイレ)を造りたいが、危険施設だから引き受け手がない。「オンカロ」は世界で唯一、着工された最終処分場だ。2020年から一部で利用が始まる。
原発の使用済み核燃料を10万年、「オンカロ」の地中深く保管して毒性を抜くという。人類史上、それほどの歳月に耐えた構造物は存在しない。10万年どころか、100年後の地球と人類のありようさえ想像を超えるのに、現在の知識と技術で超危険物を埋めることが許されるのか。
帰国した小泉に感想を聞く機会があった。
−−どう見ました?
「10万年だよ。300年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ」
−−今すぐゼロは暴論という声が優勢ですが。
「逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す」
( → 毎日新聞 2013年08月26日 )
これを受けて、朝日の天声人語が喜んでホイホイと論じている。
ここに埋めても放射能がほぼ消えるまで10万年かかる。
施設がそれだけの長期間もつのか。そもそも数万年後に人類はどうなっているのか。今と同じ言葉や文字を使っている保証はなにもない。彼らに危険物だということをどう伝えるのか。ほとんどSFの世界の話である。小泉氏は考え込んだだろう。
講演では経済界の原発推進論に反論した。「ゼロは無責任というが、処分場のあてもないのに進める方がよほど無責任だ」。筋が通っている。正気に返るべきなのだ。
( → 天声人語 2013-10-03 )
もっともらしい理屈であるが、科学知識のない典型的な文系の発想だ。理系の知識で、「科学とは何か」ということを教えて上げよう。
──
科学とは何か? われわれはそれを「ものすごい効果を上げたが、いまだ限界があるもの」というふうに認識している。それはそれでいいが、実はかなり買いかぶっている。実は、科学というものは、底が浅いものだ。人類の歴史 20万年のなかで、科学というものを手に入れてから、たったの 350年しかたっていないのだ。
人類が科学というものを手に入れたのは、350年前のアイザック・ニュートンが最初だ。
ニュートン以前の正統な自然哲学は、物事の発生する原因(目的)を明らかにするという、哲学で言えば目的論に力点が置かれていた。たとえば、ルネ・デカルトは惑星の運動や重力の原因を、空間に充満しているエーテルの圧力差や渦動によるものとする「渦動説」で説明を試みた。また、ヨハネス・ケプラーは地磁気が惑星の運動の原因であるとする重力理論を展開した。
これに対し、ニュートンは主著『プリンキピア』においてラテン語: "Hypotheses non fingo"(和訳 われ仮説を立てず)と宣言した。あくまで観測できる物事の因果関係を示すという哲学、解釈を展開した。これは、「作り話」的な説明もあるデカルトの自然学を批判したものだとされる。
万有引力の法則を提示するにあたっても、引力がなぜ発生するか、あるいは引力が何のために存在するのかということではなく、引力がどのような法則によって機能するのかという説明のみに終始し、それをもたらす原因については仮説を立てる必要はないとし、新しい方法論を提示したともされる。
( → Wikipedia 「ニュートンによる科学革命」 )
ニュートンの直前は、ケプラーだと言える。彼は、ティコ・ブラーエの残した天体観測記録を得て、分析して、惑星の運動の法則を見出した。そこから「天体は楕円運動している」という結論を得た。
こうして法則性を得たが、なぜその法則性が出るのかはわからなかった。彼は多面体太陽系モデルのような変な(間違った)モデルで理解しようとした。そのように、法則性は得ても、法則性の背後にあるものを理解できなかった。(モデルを取るという方法自体は、科学的であるが、まったく見当違いのモデルを取っていたという点で、いまだ科学に達していなかった。)
そこへニュートンが現れた。彼はケプラーの楕円運動の法則から、「距離の二乗に反比例する力」という結論を得て、「万有引力の法則」というアイデアに到達した。(リンゴの落下を見て発見した、という俗説もある。)……ともあれ、ここにおいて、人類は初めて「法則と原理」という科学的な手法に到達したのである。それが 1665年 のことである。わずか 350年前のことだ。
その後、人類は物質の構成要素として、原子という概念を手に入れた。この時点では、それはただの仮説にすぎなかった。今から200年前のことである。
→ Wikipedia:元素
この原子というものが実在のものであることは、やがて実験的に実証されるようになった。特に、空気のような透明な気体というものが微小な粒子であることが証明されてきた。それはほんの 150年ほど前のことだ。
→ Wikipedia :気体分子運動論
しかしいまだに、原子や分子というものは、わけのわからないものにすぎなかった。
ところが 100年前の 20世紀冒頭になって、人類は初めて、原子や分子というものを直接的に観測することに成功した。それはラザフォードの実験である。これによって「中央に原子核があり、そのまわりを電子が回っている」という形で、原子の正体を理解した。
→ Wikipedia:元素
こうして現代科学の幕が開いた。以後、量子論の発達は驚くべきばかりのものだった。ラザフォードの発見は 1911年だったが、その後の 50年間のうちに、量子論はその基本的な部分を完成させた。さらには原子爆弾というものも作成するようになった。
そして、原子爆弾の平和利用という形で、原子力発電も誕生した。最初の原子力発電が誕生したのは、1951年のことである。
→ Wikipedia:原子力発電
この後、あちこちで原子力発電所が建設されていった。このころ、人類は大いに夢があふれていた。
「原子力発電は将来の人類のエネルギーをすべてまかなうだろう。さらに高速増殖炉によってほとんど無尽蔵の核燃料を得るだろう。核廃棄物の処理が問題だが、それは将来の技術で解決できるだろう。また、その後は核融合発電が実現しているだろう」
こう期待したのも、無理はない。ところが現実には、そううまくは行かなかったのだ。20世紀前半の科学の発達は、驚くべき進歩をなし遂げたが、その後、現在までの科学の発達は、コンピュータ以外には、たいしたことがなかった。特に、原子力発電の分野は停滞していた。
・ 高速増殖炉
・ 廃棄物処理
・ 核融合
これらはどれ一つとして実現できなかった。実現するという見込みさえ立っていない。核融合に至っては、「実現の見込みの年」がどんどん遠のくばかりだ。最初は「20年後」というふうに言っていたのに、そのあとで、「10年たったら10年後」というふうにはならずに、「10年たったら 20年後」、「また 10年たったら 30年後」、「また 10年たったら 40年後」、……という調子で、「近づけば近づくほどゴールが遠のく」という逆説的な状態である。
その意味で、甘い見通しはまったく成立しなくなった。
ここまでが、人類の歴史だ。
──
そして今、小泉首相のように、「廃棄物処理は永遠に不可能」(もしくは 10万年後も不明)というような、超悲観的な発想が出現した。
しかし、よく考えてみよう。「廃棄物処理は不可能」というのは、人類のたった半世紀ぐらいの歴史でしかないのだ。過去の超楽観的な見通しは否定されたが、だからといって超悲観的な発想を取るのも正しくない。
先に述べたように、現代科学ができてから、たったの 100年しかたっていないのだ。最初の科学ができてからでさえ、たったの 350年しかたっていない。なのに、10万年後のことを考えるなんて、馬鹿げている。
天声人語を再掲しよう。
ここに埋めても放射能がほぼ消えるまで10万年かかる。
施設がそれだけの長期間もつのか。そもそも数万年後に人類はどうなっているのか。今と同じ言葉や文字を使っている保証はなにもない。彼らに危険物だということをどう伝えるのか。ほとんどSFの世界の話である。小泉氏は考え込んだだろう。
講演では経済界の原発推進論に反論した。「ゼロは無責任というが、処分場のあてもないのに進める方がよほど無責任だ」。筋が通っている。正気に返るべきなのだ。
( → 天声人語 2013-10-03 )
このような発想は根本的におかしい、と気づくだろう。
(1) ここに埋めても放射能がほぼ消えるまで10万年かかる。施設がそれだけの長期間もつのか。
別に 10万年も施設がもつ必要はない。50年ぐらいもつだけで十分だ。その後のことは、50年後に決めてもいい。大事なのは、50年後に破滅的になることがない、ということだ。その程度のことは、現状でも保証できる。単に地下空洞に、ガラス化した廃棄物を置くだけでいい。取り出しも、ロボットで取り出せるように、きちんと配置しておくだけでいい。それだけのことだ。あとは 50年後に決めれば済む。10万年も先のことを保証する必要はない。
(2) そもそも数万年後に人類はどうなっているのか。今と同じ言葉や文字を使っている保証はなにもない。彼らに危険物だということをどう伝えるのか。
人類が「猿の惑星」みたいに退化するとでも思っているのだろうか? あほくさ。科学の特性として、「知識の蓄積」という事実がある。知識は増えるだけであって、減ることはないのだ。現在、廃棄物についての知識があれば、その知識が失われることはない。(人類が退化しない限り。)
もし人類が退化することがあるとしたら、「核戦争による人類の消滅の危機」というようなことが起こった場合だけだろう。そんなことを心配するなら、核廃棄物の心配をするより、「人類の消滅の危機」を心配する方が先だ。どっちみち、そういう心配の方が、SF である。天声人語の筆者は、SF の読み過ぎ。人類の退化なんてありえないのだから、そんな心配をする必要はない。
「彼らに危険物だということをどう伝えるのか」
何も伝えなくていい。文献(電子情報)は、そのまま残る。仮に、それが残らなくても、放射線の検知は現地で可能である。貯蔵した現地で直接検知すればいいだけだ。それもできないほど、未来の人類が退化しているはずがない。
(3) 処分場のあてもないのに進める方がよほど無責任だ。正気に返るべきなのだ。
「今すぐできないことは先送りする」というのは、狂気でも何でもない。ただの正気である。これを「正気でない」と思うのであるとすれば、そう語る人が正気でない。
たとえば、日本人は現在、1000兆円の借金を負っている。この借金をすぐに返済することは可能か? もちろん、不可能だ。では、「返済のあてもないのに、毎年借金を増やすこと」は、正気の沙汰ではないのか? 日本は今すぐ、財政緊縮措置を取って、「歳入の半額ほどが国債だ」という状況をやめるべきなのか? 消費税を 3%アップするどころか、「消費税 50%」ぐらいにして、超高率の増税をするべきなのか?
もしそんなことをしたら、日本そのものが破綻してしまうだろう。返せる能力もない人から、無理やり借金の取り立てをすれば、その人が死んでしまうだけだ。借金を取り立てるとしたら、「負担できる範囲内で」というのが原則だ。
要するに、「今すぐできないことは先送りする」というのは、当たり前のことなのである。借金の返済であれ、核廃棄物の処理であれ、今すぐにはできないのだから、10年後ぐらいに先送りすればいい。そして、10年たったら、また 10年後に先送りすればいい。そういうことを何度も繰り返すうちに、数百年がたつだろう。そのころには、今とはまったく違う事情になっているはずだ。
たとえば、核廃棄物については、次のようなことが可能になる。
・ 地中深くのマントルに埋め込む。
・ 宇宙エレベーターで地球の外の宇宙に送り出す。
・ 宇宙のラグランジュ点で保管する。( → 別項 )
こういう方法がいろいろと可能になるのだから、現時点で「10万年後のこと」を心配する必要はないのだ。「10万年後の人類が心配だ」なんて語るのは、それこそ杞憂というものだ。科学音痴の無用な心配。
こういう心配をする心配性の人は、まずは本項を読んで、科学の歴史を勉強するといいだろう。そうすれば、人類の科学の歴史というものが、いかに短期間のものにすぎなかったかがわかる。
現生人類の歴史: 200,000年
現代科学の歴史: 100年
現代科学の歴史は、現生人類の歴史に比べて、2000分の1の時間しかたっていない。なのに、100,000年後の科学について心配するなんて、あまりにも馬鹿げている、とわかるだろう。
( ※ 天声人語の筆者の発想では、100,000年後の人類は、現代の言葉も理解できないほど退化しているらしい。進歩するどころか、退化していくわけだ。「10万年後」というものを「10万年前の状態」と混同しているわけだ。ここまでアホだと、呆れるしかない。……ま、小泉と同じ穴のムジナ。そっくりさん。)
物になるかはわかりませんが研究は進めてほしいものです。
いずれにしても、100年先のことなど見当もつきません。まして、10万年後なんて。
なんでも拒否して臭いものに蓋だけではなく、こっちにも資金を注ぎ込んで欲しいですね。
もしかしたら核分裂触媒のようなものが発見されるかもしれません。電磁場や温度圧力かもしれませんが。百年後かも。
誰も石がレーザーになるなんて想像でき無かったですしね。
原子力発電を日本やドイツだけゼロにしても世界全体で見れば事実上不可能でしょうからそういった研究を永く続けるしかないと思います。