2013年08月09日

◆ プラナリアの記憶再生

 プラナリアの記憶は頭の外にもあるらしい、という実験結果が出た。これをどう解釈するか? ──
 
 プラナリアは、たいていの生物と違って、再生能力が高い。トカゲはしっぽを切られてもシッポを再生するようだが、プラナリアは頭を切られても頭を再生する。そのとき、頭を愛制するついでに、記憶も再生するらしい。そういう実験結果が出た。
  → 記憶は脳の外にある? プラナリアの実験からわかったこと

 光や匂いに対する条件反射とか、ざらついた表面における対応など、中枢神経の関与するらしい(?)行動が、再生された頭部を持つプラナリアでもほぼ同じように観察されるそうだ。
 とすれば、記憶は頭部にあるだけでなく、(頭部を失ったあとの残りの)体の部分にもあるのではないか? そういう推定が生じる。……(A)
 このことから、次のような推定が生じる。
 もし何らかの記憶が脳以外の場所に貯蓄され、それが人間にも応用可能ならば、今後の医療に大きく貢献できる可能性が広がってくる。プラナリアの研究は、もはや再生医療のためだけではない。アルツハイマーや認知症など、老化現象に伴う記憶消失などの治療に応用できる可能性すら、原始的生物の小さな体に秘められているのだ。 ……(B)
 とはいえ、(B) の推定は、あまりにも突拍子もない。頭の切られた人間が、頭を再生させて、記憶も再生させる、なんてことがあるはずがない。
 一方で、(A) のことは成立するらしい。だとすれば、(B) のことが推定されてもよさそうだ。
 ここには一種の対立がある。この謎をどう解くか? 

 ──

 この問題に、私なりに回答を出そう。

 あれこれと類似性を見ても、ただの SF 的な想像でしかない。そんなことよりは、科学的に考える。すると、プラナリアの記憶再生については、次のように推定できる。
 「プラナリアの記憶再生というのは、行動の再生である。それは、神経が関与していると思えるが、あくまで感覚と行動との回路の再生である。それは条件反射に似たものである」

 つまり、次の経路がある。

    感覚 → 行動


 ここで、「感覚」とは、光の検知であったり、匂いの検知であったり、触感の検知であったりする。このような検知をしたあとで、何らかの特定の行動を取るようになる。では、なぜ、そのような行動を取るか? 上記のような回路があるからだ。
 もっとわかりやすく言えば、次のような回路だ。

       \  | /
      ── 感覚 S ━━━━━━━━ 行動 K
       /  | \

 感覚器にはさまざまな感覚が生じる。そのうちで、特に、感覚 S が生じたときに限って、特定の回路を経て、行動 K に結びつく。(感覚 S と、行動 K は、特定のものである。不定冠詞 a で呼ばれるものではなく、定冠詞 the で呼ばれるものである。つまり、特定のもの同士の組み合わせが生じている。)
 こうして 

         感覚 S ━━━━━━━━ 行動 K

  
 という関連づけが励起する。(神経が発火する、とも言える。)
 
 これは、条件反射的な「記憶」と見なしていいだろう。そこにはまさしく神経経路があることになる。
 そして、このような神経経路が再生するために、脳以外の何らかの部分(体の部分)が役立つこともある。下図を参照。

     頭部   神経   尾部

    [  ━━━━━━━━━  ]


 頭部と尾部の間には、神経の回路がある。この神経の回路は、左半分が消失したあとでも、容易に再生されうる。……そのことが、今回の実験からわかったことだ。

 ──

 では、人間の場合はどうか? 
 人間の「記憶」というものは、「感覚 → 行動」という過程ですら、(頭と体を結ぶ)簡単な回路によって生じるのではない。たとえば、「赤信号を見てブレーキを踏む」という過程ですら、(頭と体を結ぶ)簡単な回路によって生じるのではない。では何かというと、次のようなものだ。

             《 脳内 》


  [一次感覚野|感覚連合野] → [補足運動野|一次運動野]


 ここではおおざっぱに

        [感覚野]   →   [運動野]

 という回路がある。そして、そのすべては、脳内にある。(ここが重要!)

 つまり、人間の記憶とは、脳内にあるものなのだ。たいていは感覚野における記憶だが、運動野における記憶もある。また、感覚野と運動野を結びつける記憶もある。いずれにせよ、それらの記憶はすべて、脳内にある。
 このことを理解しよう。

 ──

 ここで、プラナリアと人間とを比較する。
  ・ プラナリアの記憶 …… 頭部と体部との回路
  ・ 人間 の記憶   …… 脳内の回路


 このように、両者はまったく別種のものだ。どちらも「記憶」と呼ばれるし、結果的には似た行動をもたらすのだが、その行動をもたらす原理はまったく異なっている。
 当然ながら、人間の記憶(大脳の記憶)を、大脳のないプラナリアに適用することはできない。プラナリアは、人間のような大脳の記憶を、再生するどころか、最初から一つも持っていない。
 同様に、プラナリアの記憶を、大脳をもつ人間に適用することはできない。人間は、プラナリアのような回路で記憶をするのではなく、大脳によって記憶するからだ。

 結局、同じように「記憶」という言葉を用いても、その言葉の意味することは、人間とプラナリアではまったく異なる。言葉は同じでも、現象は似ても似つかない。
 とすれば、次のような類推は、ありえないのだ。
 もし何らかの記憶が脳以外の場所に貯蓄され、それが人間にも応用可能ならば、今後の医療に大きく貢献できる可能性が広がってくる。プラナリアの研究は、もはや再生医療のためだけではない。アルツハイマーや認知症など、老化現象に伴う記憶消失などの治療に応用できる可能性すら、原始的生物の小さな体に秘められているのだ。 ……(B)
 このような類推は、別の現象同一の言葉で呼ぶことから生じた勘違いであるにすぎない。
 比喩的に言えば、「人間には記憶( memory )があり、機械にも記憶( memory )があるから、どちらも同じような回路でできているのだろう……」というような勘違いだ。その勘違いのあげく、人間の記憶を「( memory を)ビット単位で計算しよう」というようなものだ。馬鹿げている。

 言葉が同じだからといって現象も同じだとは言えない。人は言葉によってだまされてはいけないのだ。もしだまされれば、とんでもない勘違いをすることになる。……そのことを、今回の事例が教えてくれる。
posted by 管理人 at 20:33| Comment(1) | 生物・進化 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
40年も前に ミトコン先生に教えてもらった記憶が あります  すりつぶしたプラナリア 他の個体に食べさせると 学習したこと 再現できる

 ミトコンはあだ名です
Posted by k at 2013年08月11日 04:16
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