→ 泉の波立ち (ニュースと感想 2013-08-04 )
※ いったん上記ページに移転したあとで、ふたたび本項で記載しました。
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安倍首相が集団的自衛権を「合憲だ」と見なすよう、憲法の解釈を変更する予定だ。
→ 新法制局長官、集団的自衛権の解釈見直し派に
→ 集団自衛権の全面容認、有識者会議が提言へ
後者の記事には、次の四つのタイプが示されている。
(1) 日米が公海上で共同訓練中などに、米艦船が攻撃され、自衛隊艦が反撃する。
(2) 米国に向かう可能性がある弾道ミサイルを、日本のミサイル防衛システムで撃破する。
(3) PKO で他国部隊が攻撃され、自衛隊が駆けつけて反撃する(駆けつけ警護)
(4) PKO で自衛隊が外国軍隊を後方支援する
これらについて考える。
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順序は逆になるが、(3)(4) は、集団的自衛権とはあまり関係ないだろう。これは、国連の旗の下での PKO だから、日本政府が集団的自衛権を行使するわけではない。国連に属する日本人の部隊が、小規模に集団的自衛権を発動するだけだ。「部隊レベルの集団的自衛権」であり、「日本の国家としての集団的自衛権」ではない。ゆえに、特に問題とはならない。
一方、「現地の他国部隊が攻撃されたから」という理由で、日本が国家的な集団的自衛権を発動するとしたら、次のようになる。
「現地の他国部隊を守るという名目で、自衛隊を現地に派遣して、大規模に攻撃活動をする」
たとえば、アフガニスタン(またはアフリカ)の米国部隊が攻撃されたという理由で、日本から大規模な部隊を派遣して、現地のゲリラと対決する。……これならば、「国家レベルの集団的自衛権」と言える。
しかし、これは違憲だろう。当然ながら、このようなことは許されない、と思う。
このようなことが許されるなら、「満州が攻撃された」という理由で、中国に日本軍を派遣した……という歴史の愚を肯定することになる。馬鹿げている。
結論としては、PKO には「国家レベルの集団的自衛権」は認められるべきではない。部隊レベルの集団的自衛権は認められるが、それは日本の国家レベルの憲法問題とは何の関係もない。国連の問題であるにすぎない。
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(1)(2) はどうか? 再掲しよう。
(1) 日米が公海上で共同訓練中などに、米艦船が攻撃され、自衛隊艦が反撃する。
(2) 米国に向かう可能性がある弾道ミサイルを、日本のミサイル防衛システムで撃破する。
これらも似た問題をかかえる。
(1) では「公海上で共同訓練中」というが、その米軍は共同訓練中でなく作戦展開中であるかもしれない。たとえば、アフガニスタンで攻撃中かもしれない。そこで日本の輸送艦が給油しているかもしれない。このとき、「集団的自衛権」が認められるのであれば、米艦隊が攻撃されたときに、日本の輸送艦の警備をしているイージス艦が出動して、何らかの作戦活動をするかもしれない。同時に、敵の短距離ミサイルの発射地域を攻撃することもあるかもしれない。こうして全面的に戦闘活動に巻き込まれることになる。(戦争中なのだから当り前だ。)
これはまずい。事実上、米国の戦争に巻き込まれることになる。米国が「アフガニスタンを攻撃したい」と言えばそれに巻き込まれて戦争をすることになるし、米国が「パレスチナを攻撃したい」と言えばそれに巻き込まれて戦争をすることになる。勝手に他国の戦争に巻き込まれてしまう。馬鹿げている。
(2) は、特に問題だ。北朝鮮と米国が勝手に戦争を始めたときに、日本も巻き込まれることになる。ま、巻き込まれるだけならばいいが、もっとひどいことになる。次のことだ。
「米国のグアムという島を守るために防衛ミサイルを発射するせいで、すぐに弾切れになってしまう。そのせいで、北朝鮮が東京にミサイルを発射しても、弾切れで防止できない」
つまり、グアムなんていう重要性の低い前線基地を守るために防衛ミサイルを使い果たしてしまうせいで、重要性の高い東京を守れなくなってしまうのだ。それも、集団的自衛権なんていうもののせいで。はっきり言えば、「集団的自衛権を行使したせいで、自分自身の自衛権を失う」というのと同様になる。愚の骨頂。この件は、前にも論じた。
→ 集団的自衛権と迎撃ミサイル
→ 北朝鮮の弾道ミサイルは迎撃不能

防衛白書の図

平射図法
※ グアムを守ることは可能でも、米国本土を守ることは不可能。
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まとめておこう。
「集団的自衛権」というのは、強者が弱者を守るときだけに意味を持つ。弱者が強者を守るためにそれを行使すれば、弱者は自分自身を守れなくなる。本末転倒だ。そんなことを考えるのは、軍事的な無知であるにすぎない。
集団的自衛権が意味を持つとしたら、「弱者がオトリになって犠牲になることで、強者の作戦効果を増す」ということだけだ。たとえば、日本の東京が犠牲になることで、米軍のグアムの攻撃基地を守る。こうして、日本人の 1000万人の命を犠牲にすることで、米軍は自国の1万人と武器を守ることに成功する。……そして、それは、確かに軍事的な有効性がある。
だが、そんな軍事的な有効性を得るために、日本人の 1000万人の命を犠牲にする、というような発想は、もはや狂人の発想でしかない。「ユダヤ人を皆殺しにすることでドイツ国民の命を守ろう」というヒトラーと同様である。狂気の沙汰だ。
結局、「集団的自衛権」なんて言っているヤツは、次のいずれかだ。
・ 日本の戦力は米国以上だと自惚れている。
・ 日本人の生命を大量に犠牲にすることで米国の武器を守る。
いずれにしても、気違いだ。そして、そういう気違いが、日本の首相をやっているのである。
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日本の元首相(麻生)は、次のように述べた。
「国民が気づかないうちに、こっそりと憲法を変えてしてしまえばいい。ヒトラーを見習って」
一方、日本の現首相は、次のようにしている。
「国民が気づかないうちに、憲法の解釈を変えることで、実質的に憲法を変えるのと同じにしてしまえばいい。これなら改憲する手続きも不要だから、もっと簡単だ」
「解釈によって違憲行為を合憲にしてしまうという」というのは、「解釈によって黒を白と言いくるめる」というものだ。日本はもはや民主主義でも法治主義でもなくなる。ただの独裁国家になってしまう。
ま、その意味では、元首相の言うように、まさしくヒトラーを見習っているのだろう。
(こちらはそうだとは批判されないうちに、こっそりやろうとしている。何ともまあ。呆れる。……詐欺みたいなものだ。ただ、こいつは少額の金銭を奪うかわりに、1000万人の命を奪おうとしている。ガラクタ手書きマシンを売りつけて 39800円を奪った詐欺とは、レベルが違うね。)
[ 付記 ]
「集団的自衛権は合憲か否か」
という冒頭の話題に戻って答えるなら、次のように言える。
「違憲である。それは歴代の内閣法制局が政府として答えている」
それを勝手に「解釈の違い」で歪めようというのだから、これは、法律論ではなくて、法治主義を認めるか否かの問題だ。
集団的自衛権を合憲としたければ、あくまで憲法改正という道を取るべきだ。橋下や石原や自民党議員などが「憲法改正」を唱えているのだから、その方針に従って、堂々と憲法改正の手続きをすればいい。
なのに、そういう法律に則った道を取らずに、「解釈の違いで黒を白と言いくるめる」というのは、独裁者の道だ。
その意味で、麻生元首相は、安倍首相のやっていることを見事に言い当てたことになる。人々は麻生元首相を批判しているようだが、批判するよりは、褒めた方がいい。
「そこで述べられていること(ヒトラーを見習って、民主主義と法治主義を踏みにじり、独裁政治を取ること)は、まさしく安倍首相のやっていることだ」
と。
ローゼン閣下は、馬鹿のフリをして、真実を言い当てているのである。
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【 追記 】
※ ニュースと感想 (8月05日)に記述した分。
「集団的正当防衛はあるか?」について。
国家の「集団的自衛権」に関連して、個人の「集団的正当防衛」というものを考える。
まず、憲法9条に関して、「自衛権は合憲だ」という主張の根底にあるのは、次のことだ。
「正当防衛というものは、法のいかんにかかわらず、自然発生的に生じている。これを法は阻止できない。ゆえに、国家についても、正当防衛は認められる。これは憲法9条のいう戦争や武力行使には当たらない」
なるほど、それは理屈として成立する。では、次のことはどうか?
「自衛権が成立するように、集団的自衛権も成立する。なぜなら、正当防衛が成立するように、集団的正当防衛も成立するからだ」
つまり、自分でなく他人Aが攻撃されたときに、その他人Aを救うために、他人Aを攻撃する他人Bを攻撃する権利が、第三者にある……という主張である。
このような権利は、自然発生的に成立するか? つまり、次のことは成立するか?
「もし他人Aを救わないと、自分自身が損なわれてしまう。ゆえに、他人Aを救う権利がある」
これは、暴論のようであるが、例外的に成立する場合がある。次の場合だ。
「その他人Aが、自分自身と一体化しているような場合。つまり、その他人Aが、自分の妻か、子供か、親か、あるいは最愛の恋人である場合」
こういう場合には、集団的な正当防衛を認めていいだろう。また、認めるか否かにかかわりな、人はそういう行為を取るだろう。
では、他人Aがただの他人である場合には? 当然ながら、その権利はない。他人が親しい友人だとしても、集団的な正当防衛を発揮する権利はない。もしかしたら、その友人は、殴られるだけの理由があったのかもしれない。たとえば、他人Bの妹をレイプして、その女を自殺させた、というふうな。……こういうときに、友人を守るために、攻撃する相手をぶんなぐって大ケガをさせてしまう、というようなことは、倫理的にもおかしい。
ところが、それと同様のことを狙っているのが、安倍首相である。
「米国は世界中でどれほど残虐なことをしてもいい。『イラクの独裁者による 1000人の殺害を防ぐため』という名目で、イラクを攻撃して、10万人の一般市民を殺害してもいい。そのせいで米軍が攻撃されたら、その米軍を守るために、日本は協力するべきだ。それで殺された人々の遺族の恨みを買って、日本国民がテロの危機にさらされたとしても、それでも集団的防衛権を行使するべきだ」
これはつまり、「米国の忠犬として尻尾を振るべきだ」という主張である。ま、人が何を思うと、それは人の勝手だが、それを「法の解釈の違い」というような小手先な方法で、違憲から合憲に転じてしまっていいのか?
以上によって、こういう問題がある、とわかる。「集団的な正当防衛権」という概念を考察することで。
[ 付記 ]
比喩的に言えば、こうだ。
ジャイアンがのび太をいじめたあとで、スネ夫に「こいつのほっぺをつねっておけ」と命じた。スネ夫はのび太のほっぺをつねった。すると、のび太がスネ夫の足を払って、倒した。それを見たじゃイアンが戻ってきて、のび太をぶんなぐった。
「なぐったオレが正しいんだ。スネ夫についての集団的正当防衛だからな。これも正当防衛の一種さ」
「そっちが先にいじめたんじゃないか」とのび太は非難した。
「いじめたのはオレだが、スネ夫は関係ない。スネ夫はほっぺをつねっただけで、いじめたわけじゃない。おまえがスネ夫を倒す権利はない。わかったか」
これを聞いて、スネ夫は「わーい、わーい」と喜んだ。
ここで、日本は何かというと、のび太じゃない。スネ夫です。お間違えなく。
