古代人類はいかにして遠路はるばると海を渡ったか? これは大きな謎に思える。特に、日本に来た弥生人はいかにして渡来したか? 縄文人は、(氷河時代に海抜が下がったときに)陸地伝いに日本にやって来たようだが、弥生人は海を渡ってきたはずだ。しかし、どうやって? 現代人さえ、日本海を個人レベルの力で渡ることはほとんど不可能だ。なのに、技術もろくになかった古代人は、いかにして遠路はるばると海を渡ったか?
これについて答える本がある。「海を渡った人類の遥かな歴史
ある意味、本書により私のロマンチックな幻想は覆された。私が感動したのは古代人が危険を承知で、それでも海に一歩踏み出したのだと考えたからだ。ところが著者は膨大な考古学的成果と、8歳の時から帆を操ってきた船乗りとしての経験から、彼らの航海の、その冒険性を否定する。彼らが水平線の先に向かったのは好奇心やロマンからではないという。要するに、古代人は現代の我々が思っているよりも、はるかに賢明だったのだ。ま、それも当然。2000年前の人類と言えば、遺伝子的にも現代人とまったく同等だと言える。教育は受けていないが、十分な脳はあったのだ。そして、教育という点では、現代の都会人に比べれば、古代の海洋民族の方が、航海能力が格段に上だったのは当然だ。
冒険性の否定。実は著者が最も訴えたかったのはそのことだ。天体の位置、潮のうねり、鳥の動き、島に伝わる伝承。総合的な知を蓄積し海を体験的に解読することで、古代人はいつでもどこからでも帰れるという自信を持って外洋に漕ぎ出した。つまり外洋航海は日常的な沿岸航海の延長線上にあり、未知への旅立ちが冒険でなくなるほど彼らは海と親密な関係を築いていたというのである。
( → 朝日新聞の書評 )
では、どういうふうに航海したか? 私が推定したのは、こうだ。
「丸太は、先の方が水の抵抗を受けるので、不適。また、丸太では不安定である(倒れやすい)ので、その意味でも不適」
「太い丸太を二つに割ってから、中身をくりぬいたのであれば、そのなかに人がもぐりこむので、低重心で安定する。また、先を細くできるので、水の抵抗が少ない」
「2人の人間が1隻に乗れば、水の抵抗はほとんど変わらないまま、動力は2倍になるので、2倍の距離を進める。3人なら3倍、4人ならば4倍。こうして複数の人数が乗ることで距離を延ばせる」
以上のように推定した。その上で、ネットを検索してみたら、「丸太をくりぬいた」という推定は妥当であることがわかった。同じ本の書評を書いた人がいる。
中をくりぬいただけの丸太、あるいは紐で結わえただけの竹のいかだを生みだし、大海原へと漕ぎ出した……。というわけで、たぶん私の推定した通りだろう。
( → 書評ブログ )
( ※ 私はまだ読んでいないが。)
[ 付記1 ]
この話題が興味深いのは、「日本人はどこから来たか?」という話題と関連するからだ。
このテーマについては、以前、別項で述べた。
→ 縄文人と弥生人 2
つまり、こうだ。
「中国南部を起点として、朝鮮半島経由と、琉球諸島経由との、二つの経路で渡来したのだろう」
この推定のうち、後者の経路(琉球諸島経由)が、本項の話題に合致する。
[ 付記2 ]
「中国南部を起点として、琉球諸島経由の経路で渡来したのだろう」
ということは、日本の稲の遺伝子からもわかる。日本の稲は、朝鮮半島を経由したものではなく、中国南部から直接来たらしいのだ。この件は、上記項目の最後のあたりの 【 補足 】 に記しておいた。
[ 付記3 ]
稲はともかく、別の分野では、朝鮮半島経由の文化もいくつかあったようだ。
→ Wikipedia 「弥生時代」
このページで「半島」という言葉で検索すると、いろいろと情報を得られる。
[ 付記4 ]
この本で言う「古代」というのは、3000年前ぐらいのことだろう。それよりもあとになると、もっと発達したカヌーを用いるようになった。「銃・病原菌・鉄」という本に書いてあるが、その要約を一部抜粋しよう。
これらの人々は、台湾に由来して、島伝いに次々と遠くへ移っていったのだ。台湾を出たのが紀元前 3500年。以後、数百年ごとの間隔を置いて、フィリピン、インドネシア、フィジー、サモア、マルケサスなどに次々と到達し、ハワイやイースター島に到達したのは紀元前 500年だった。このように海洋を渡れたのは、ダブル・アウトリガー・カヌーという、自転車の補助輪みたいな腕木を横に備えることで安定性を増したカヌーを発明したおかげだった。
( → 「銃・病原菌・鉄」の書評 )
【 書籍 】
海を渡った人類の遥かな歴史
※ この本は一時 Amazon のベストセラー4位にまで上がったあとで、売り切れになってしまった。現在、入手難である。(取り寄せの扱い。増刷待ちかも。)

明日からまともに書きます。
外洋に漕ぎ出した。
目から鱗が落ちるような指摘ですね。
バイキングの子孫、トール・ヘイエルダール氏は、1947年4月末、古代ペルーの筏を複製した、バルサ材を
麻の綱で結んだ筏コン・ティキ号に仲間5名を乗せ、ペルーから船出した。
「南太平洋の島々にペルーから人が渡った自説を立証するために」、102日間、南太平洋を8000km
漂流し、ツアモツ諸島へ漂着した。
現代のヨットとフル装備にもかかわらず、6日間、1200kmでSOS、救出された2人組みとは大分違う。
机の上の知識では生まれない発想で、心配性の人間にはできない行動です。
1)途中で、麻の綱が切れて、筏がバラバラに分解しないか?
2)筏が西へ進まなくなったら?
3)水が尽きたら?
4)食べ物が尽きたら?
5)暴風雨で筏がひっくり返ったら?
6)病気になったら?
ヘイエルダール氏は、気象学や海洋学の知識を知っていただろうが、机上の空論ではなく体験に裏付けられ
ていたことが大きい。
ノルウェーのオスロ大学で動物学と地理学を学び、マルケサス諸島のファツ・ヒヴァ島で原住民と同じ生活
を1年間送ったとき、島の東側で、東から絶え間なく押し寄せてくる風とうねりを毎日見た。それは永遠なる
東風である貿易風と南赤道海流の恒常性だった。
体験に基づく、貿易風と南赤道海流に対するゆるぎない信頼感が破天荒な冒険を生んだと推察します。
古代人は、ハドレー循環やエクマンの海流理論や天文学を知らなかったが、体験によって同等程度の暗黙知
を持っていたはず。赤道反流と赤道海流と風を使い分けできれば、あとは食糧と水の問題。
有能な漁民なら魚を獲れるので何とかなる。暴風雨は運だが、そういう時期を外せば危険性はかなり減る。
そう考えると、一か八かの運任せの冒険というより、必然性の航海だったかも知れませんね。
考えてみれば、無謀なことをしていれば、自滅します。自滅しなかったということは、現代人が気付かないだけで、何らかの危険回避策を講じていたということなのでしょうね。
フグを最初に食べた人は……という話がありますが、フグをイヌに部位別に食べさせて、可食部位を確認していたのかもしれませんね(あくまでも想像です)。
確認していたのかもしれませんね
三河屋さんのフグの譬えは、大変おもしろいですね。原因や仕組みを科学的に解明できてない段階
でも、危険回避はできるという譬えで、そのようなことは多いと思います。
フグを最初に食べた人は・・・
私の勝手な想像では、フグを最初に食べた人は、身の部分だけを食べた。「べらぼうに美味いよ」と
仲間に話し、同様に食べる人が増えた。
中には、内臓系を食べるのが好きな人がいて、卵巣も食べて死んだ。「美味いが、危険な魚」という
認識ができた。フグの種類によって、危険な部位も違うようだと。「フグは食いたし、命は惜しし」
のフラストレーションが溜まる。
その次を、三河屋さんの想像(頭の大変良い人が、危険回避の系統的な方法を思いつく)へ繋ぐと、
ストーリーになりますね。
日本は、フグを食べる珍しい国。外国人の反応も面白いですね。
○東京に行ったときにフグを食べたわよ。最初は怖かったわね。とにかく食べて、生き残ったわ。
味は最高よ! カナダ 21歳
○しかし彼女はこの夜、命を落としてしまった。フグ料理店の車にはねられて。 アメリカ 26歳
○これがそこまで美味しいはずがない。 アメリカ
○何だかどうしようもない魚に見えるな。しかし何で毒持ちの魚を食べたりするんだ!?
チャレンジの一種なんだろうな。 イギリス 22歳
○フグはホントにマジでビックリするくらいウマイ!! だけど自分で料理しちゃ絶対だめだぞ!
国籍不明