乙武さんが世間から圧倒的な批判を浴びている。たとえば、個人への悪口をしばしば書く BLOGOS というサイトがそうだ。
今回の騒動はあまりにも乙武さんがひどい。弱者を気取った強者が王様気取りで弱者をぶっ潰す。
弱者を気取って弱者をいじめるとんでもないクレーマーじゃないか。
はっきりいって乙武さんのやっていることは逆差別だ。車椅子はどんな奴よりも偉い。事前に言わなくても対応するのが当たり前。対応できなければツイッターで晒して店潰すぞという、悪徳クレーマーじゃないか。
( → BLOGOS )
まったく、ひどい悪口だ。これじゃ乙武さんが大悪党のように見える。
しかし彼は、日本中からこういう非難を浴びるほどの、大悪事をなしたのだろうか? サリン事件の麻原のように、多数の死者を出したのか? いや、被害者がいるとすれば、たった一人、レストランの店主だけだ。
( ※ ついでだが、もっと多大な被害をもたらした人々は、世間ではちっとも指弾されていない。ユニクロの社長は、サービス残業の強制で莫大な富を奪った。東電は原発の安全管理をおろそかにして、放射性物質の被害をまき散らす結果をもたらした。しかしいずれも、該当の個人はちっとも指弾されていない。単に組織の責任が少し語られるだけだ。社会に圧倒的な被害をもたらした人は放置され、乙武さんばかりが指弾される。)
被害者があったのは、レストランの店主だけだ。では、レストランの被害は、どれだけか?
実は、今回、乙武さんが悪人の側に立ったことで、レストランは特に大きな被害を受けなかった。それどころか、全国津々浦々にまでレストランを知ってもらえるという、莫大な宣伝効果を得た。マイナスもあったが、それをはるかに上回るプラスの効果があった。今ごろは客が押し寄せて、大繁盛だろう。もともと「安くてうまい店」という評判があったのだが、宣伝効果だけがなかった。今回の宣伝効果のおかげで、素晴らしくメリットを得たはずだ。……とすれば、今回、被害者は特にいなかったことになる。メリットを得た人が一人いただけだ。(レストラン店主)
というわけで、乙武さんがやったことは、結果的には、特に悪をもたらさなかった。今回の事件で大被害を受けたのは、たった一人、乙武さんだけである。彼だけは、莫大な被害を受けた。
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それは「身から出た錆び」か? ある意味では、そうだと言える。しかし、そうだとしても、彼の受けた被害はあまりにも大きすぎる。逆に言えば、世間が与えた非難は、あまりにも過大である。
特に、BLOGOS のような巨大な媒体の罪は大きい。なかば公的な責任のあるマスコミふうのサイトが、このように個人攻撃を掲載することの理由は、まったく存在しない。個人については、「言論の自由」という理屈も成立するが、このようなマスコミふうのサイトが、個人への攻撃を大々的に掲載する理由はまったく存在しない。これこそ悪の極みだろう。誹謗中傷罪という犯罪を構成する、とも言える。
( ※ このサイトの悪口には、私も被害に遭ったことがある。ひどい扇情サイトだ。)
──
ここで、私の立場をはっきりさせよう。
乙武さんの言明には、確かに問題点がいろいろとあった。しかし、そのすべては、「彼が五体不満足である」ということから生じたことだ。
とすれば、五体満足である普通の人々には、そのことを批判する資格はないのだ。「良くないね」と内心で思うぐらいならばいいが、ネット上で大々的に批判する資格など、誰にもないのだ。
どうせなら、手足を失った人の立場になって見るといい。たとえば、アフガニスタンの戦争で、地雷の爆発で手足を失った米兵がいる。

出典
このような境遇にある人ならば、乙武さんを批判する資格はある。しかし、五体満足でいる人間が、「五体不満足であるがゆえに生じたトラブル」について、批判する権利などはないのだ。
どうせ批判するならば、まずは自分の手足を切断してから批判するがいい。手足を失えば、乙武さんの気持ちがいくらかはわかるだろう。
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手足がないというのは、とても辛いことだ。それにもかかわらず、彼は気丈にふるまっている。
→ 乙武さんの明るい自虐ツイートまとめ
いろいろと面白そうな自虐ツイートがある。読む人は面白がって読むだろうが、言っている本人は自虐ネタを言いながら心を精一杯、奮い立てている。
「顔で笑って心で泣いて」
という感じだ。心で泣いていても、顔で笑うことで、おのれに勇気を与えている。精一杯、気を奮い立てているのだ。彼のその気持ちを理解している人がどれだけいるか? かわりに自虐ネタを読んで、ケラケラと笑っているだけではないのか?
今回の事件でも、事件の根っこには、彼の傷ついた心がある。普段から精一杯、気を奮い立てているから、強そうな顔の店主を見たとき、「小馬鹿にされている」と感じてしまったのだ。乙武さんが本当に心の強い人であれば、「小馬鹿にされている」と感じることもなかっただろう。しかし現実には、「小馬鹿にされている」と感じた。そのせいで、深く傷ついた。そして、怒ったあげく、自分を抑えきれなくなって、ネットでツイートして、仕返ししてやろうとした。
子供っぽいといえば子供っぽい。愚かだといえば愚かだ。しかしその心の底には、普段から深く傷ついている心があるのだ。自虐ツイートなどで強そうに見せかけていても、本当は心が深く傷ついているのである。その彼の悲しみを、どれだけ多くの人々が知っているか?
──
ネットで有名な小話がある。ベトナム戦争から帰還する兵士の話だ。真偽不明だが、心を打つ話なので、引用しよう。
ベトナム戦争から家に帰る前夜、青年兵士は自宅に電話した。
「明日帰るんだけどね。他に行くところがない友達を、連れて帰りたいんだ。家で彼と一緒に住んでもいいかな?」
息子の帰還報告に狂喜した両親は、「勿論!」と泣きながら答えた。
息子は続けた。
「ただ、一つだけ言っておきたいことがあるんだ。彼は地雷を踏んで、腕と足を失ってしまったんだ。でも僕は彼を家に連れて帰りたいんだ」
その台詞に、両親は押し黙ってしまった。
「数日ならいいけれど、障害者の世話は大変よ。家にいる間に、そのお友達が住める所を一緒に探しましょう。あなたにも私たちにも、自分達の人生があるのだから、そのお友達の世話に一生縛られるなんて無理よ」
やっとのことで母親がそれだけ言うと、息子は黙って電話を切った。
翌日、警察から電話があった。両親は、息子がビルの屋上から飛び降りて死んだことを知らされた。
死体と対面した両親は絶句し、泣き崩れた。
息子には、腕と足がなかった。
( → 出典 ,解説 )
正確な出典がないので、どうも実話ではないように思えるが、それでも心を打つことには変わらない。
腕と足がないということは、それくらい辛いことなのだ。その辛さは、不便さゆえの辛さではなく、両親を含めた世間の目の冷たさゆえの辛さなのだ。
繰り返し言う。
乙武さんには、確かに落ち度があった。しかしその落ち度は、日本中から大非難を浴びるほどの落ち度ではなかった。
なのに、五体満足の人間が、自分では何ら救いの手を延べようともしないくせに、あまりにもひどい悪口の言い放題だ。別に自分が彼から被害を受けたわけでもないのに。
はっきりと言おう。乙武さんを批判する資格があるのは、次のいずれかの場合だけだ。
・ 乙武さんから批判されたレストランの店主
・ 自分もまた手足が無い身障者
しかし、このような人々は、決して乙武さんを非難したりはしない。そのかわり、五体満足の人々が、自分では何も被害を受けていないくせに、ネットで大騒ぎをして、個人攻撃をしているのである。
彼らがその熱意を、身障者の福祉のために使ったら、日本はどれほど住みよい国になることだろう。破壊よりも建設のためにエネルギーを使うことを願う。
【 関連サイト 】
手榴弾で右手を失っても戦闘の指揮を執り続けた、米国の英雄:ダニエル・イノウエ。
ダニエル・K・イノウエ少尉は1945年4月21日、イタリアのサン・テレンツォ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。重要な交差点を守るべく防御を固めた稜線を攻撃している間、イノウエ少尉は自動火器と小銃から浴びせられる射撃をかいくぐって巧みに自身の小隊を指揮し、素早い包囲攻撃によって大砲と迫撃砲の陣地を占領し、部下達を敵陣から40ヤード以内の場所にまで導いた。掩蔽壕と岩塊からなる陣地にこもる敵は、3丁の機関銃からの十字砲火により友軍の前進を停止させた。イノウエ少尉は自らの身の安全を完全に度外視し、足場の悪い斜面を最も近くにある機関銃から5ヤード以内の位置まで這い上がり、2個の手榴弾を投擲して銃座を破壊した。敵が反撃を仕掛けてくる前に、彼は立ち上がって第2の機関銃座を無力化した。狙撃手の弾丸によって負傷するも、彼は手榴弾の炸裂によって右腕を失うまで、至近距離で他の敵陣地と交戦し続けた。激しい痛みにも関わらず彼は後退を拒否して、敵の抵抗が破れ、部下達が再び防御体勢に入るまで小隊を指揮し続けた。攻撃の結果敵兵25名が死亡し、8名が捕虜となった。イノウエ少尉の勇敢かつ積極的な戦術と不屈のリーダーシップによって、彼の小隊は激しい抵抗の中でも前進することができ、稜線の占領に成功した。イノウエ少尉の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍の最も崇高な伝統に沿うものであり、また、彼自身やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな栄誉をもたらすものであった。
( → Wikipedia )
【 参考動画 】
勇気のある人間は、右手を失っても、国のために尽くす。
一方、日本では、手足を失った身障者を攻撃することで大喜びする人々があふれている。
【 関連項目 】
乙武さんがやったことでまずかったのは、ネット上で個人の悪口を言ってさらしたことぐらいだ。だが、そのくらいの失敗ならば、やっている人は他にもいる。
( ※ たとえば、「隊長」というあだ名の人物は、しばしば個人攻撃をしている。「ハゲ」という悪口を言うこともある。それでも咎められることはなく、逆に、はてブ民からたくさんの支持を得ている。ネット上の人々なんて、こんなものだ。)
乙武さんのまずかった点は、失敗をしたことではなくて、失敗をしたあとで、きちんと詫びなかったことだ。きちんと詫びていれば、炎上騒ぎもなかっただろうに。
この点については、別項で述べた。
→ 橋下・乙武の謝り方
→ 乙武のお詫びの模範文
謝り方が下手だというのは、多くの人々に共通する傾向だ。これはネット時代のリテラシーの問題だ、とも言える。失敗する人は多いので、留意した方がいいだろう。特に企業では、対応に失敗して、無駄な反発を食うことは致命的だ。
──
本項の続編がある。
→ 乙武批判は いじめだ
「乙武さんへの批判がひどい。これは、いじめだ。日本中がいじめをやっている」
「店の人が乙武さん手伝うのは、凄い手間ではないですよね。」
→ http://twilog.org/h_ototake/date-130518
これを引用しているということは、乙武さんもその意見に同意しているということだろう。
しかし現実は、「凄い手間はではない」ということはなかった。「階段をちょっと上る」というぐらいのことではなくて、
・ 狭い通路を延々と運ぶ
・ そのあとは急傾斜の階段で危険
・ 途中で踊り場あって方向転換が必要
という三重の困難があったのだ。下手をすれば、オトタケさんをオトシタという、シャレにならないことになって、だるまさんが転んだ、ふうになって、どんぐりころころどんぶりこ、みたいになってしまう。(つかこうへい「蒲田行進曲」階段落ち みたいな)
そういう危険があった。なのに、乙武さんは、そういう危険があるという現実を知らなかった。彼は現実を知らずに、勘違いして、怒り狂っていたのである。
人が勘違いして怒る、ということは、しばしばある。許してあげてください。
そこにどんな葛藤があるのかは本人でないからわかりませんが他人から見れば強くて怖い存在なわけです
その怪獣が自分に逆らったらどうなるか教えてやるとばかりに一般人を食い殺そうとした
やはりあの怪獣は自分たちの平和と安全を脅かす悪だ今ここで退治しないと次食い殺されるのは自分達の番だと思い込んだ
あのトラブルは誰にでもおこりうることなのがまた恐怖を煽り立てた
乙武さんが自分は怖くて強い怪獣なんだといってる限り平和と安全のためにあの悪の怪獣を退治して正義をなすのだという声は止まらないでしょう
本項の趣旨は、
「可哀想な人に同情しましょう」
ではなくて、
「普通の人だって、乙武さんのことは他人事じゃないんだぞ。自分が四肢喪失の立場になることもあるんだぞ」
というふうに考えさせた上で、
「四肢喪失になっていなければ、非難する資格はない」
というふうに論理を運んでいます。
乙武さんのことを論じているより、各人の意識を論じています。したがって、現在では健康である人のことを論じることになります。
> 両者は果たして同列に並べられるものでしょうか
その両者は同列に並べるべきものではありません。同列に並べる(もしくは対比する)のは、「後天的な四肢喪失の人」と、「悪口を言っている一般人」です。
この項目ではなく
他の項目を選んでコメントしなさいということですね。
よくわかりました。
私(管理人)が言いたいことは、こうだ。
“ 乙武さんを批判する資格があるのは、「自分ならばそんなことはしなかった」と言うことのできる人だけだ。”
これはわかりますね? 「自分も同じような失敗をしただろう」と思う人が、彼を批判できるはずがない。
さて。「自分ならばそんなことはしなかった」と言うことのできるためには、自分もまた「四肢欠損」という状況にあることが必要だ。
なぜなら、四肢欠損でなければ、「彼と同じ状況」ではないからだ。「彼と同じ状況」でなければ、「同じ状況で、自分も同じような失敗をしただろう」とは言えないからだ。
以上のことから、「四肢欠損でなければ、彼のことを批判する資格はない」ということになる。何を言おうと、「健康な人間でありながら、身障者はこうしろと勝手に義務づける」という不遜なことをしていることになる。
乙武さんのことを内心で「けしからん」と思うのはいい。しかしそのことを公言して大々的に非難する資格は、誰にもないのだ。自分自身が四肢欠損でない限りは。
ひげもじゃの変人が河に飛び込んでも誰も格調高い詩にしてくれませんよ
ここまで来てしまえばもう血が流れなければとまらないものです
特に心配しているのは、乙武さんが自殺してしまうことです。あまり世間から批判を受けると、あるときプッツンして、身投げする可能性があります。それは世間全体が殺人者になるということでもあります。
そういう悲劇を避けたいと願っています。
お店に被害がでてないむしろ利益があったのであれば、批判の目的は単なる人格攻撃となります。
公の場で活動している人なんで、批判がでる状況は理解できますが、その批判に正義は無いです。
利用されそうになったという不快感が多くの人にこの揉め事の部外者はなく当事者に近い感情を抱かせたのではないでしょうか。
そして当事者同士が、勘違いと行き違いを互いに反省すれば良い。第三者は蚊帳の外だ。
これで嫉妬に基づく批判も無くなる。