( ※ 本項の実際の掲載日は 2013-04-14 です。)
東大などの推薦入試で、学力よりも、熱意・意欲を基準にしよう、という動きがある。
→ 東大推薦入試は有効か?
→ 読売新聞・朝刊 2013-04-14 (紙の新聞)
しかし、それは見当違いだ。なぜなら、知性は高くとも、意欲的だと見られない(性格のおとなしい)タイプの受験生が排除されるからだ。(たとえば、アインシュタインや、渡辺明。)
→ 面接入試はなぜ駄目か?
では、どうすればいいか? それについても、上記項目で示した。次の通り。
「熱意・意欲というものは、入試の基準にするものではなくて、教育で掻き立てるものだ。たとえば、ハーバード白熱教室のような教育をすればいい」
──
以上は、すでに示したことだ。本項では、さらに考察しよう。
そもそも、「入試で選抜する」というのは、先天的な資質(および努力)を見るものだ。学力テストは、そのためにある。
一方、熱意・意欲というものは、後天的にいくらでも掻き立てることができる。だからそれは、入試によって選抜する基準にはならず、教育によって施すべきものとなる。
換言すれば、こうだ。
熱意や意欲というものを形成するのは、大学の側の役割である。それがすなわち、教育というものだ。
なのに、学生の選抜の際にそれを求めるということは、大学の側の教育放棄にほかならない。
比喩的に言えば、こうだ。
「数学科の入試では、大学の解析学や線形代数などを入試の基準にする」
「法学部の入試では、司法試験の出来映えを入試の基準にする」
「経済学部の入試では、経済学の知識を入試の基準にする」
なるほど、こうすれば、その大学の学部で教わることをよく知っている受験生を合格させることができるかもしれない。しかしそれは、大学の教育放棄にほかならない。
熱意や意欲というものを形成するのは、大学の側の役割である。そんなものを受験の基準にするのは、まったく間違ったことだ。
では、そういうものを、高校の側が教育するべきか? いや、そうは言えない。なぜなら、熱意や意欲というものは、なくたって構わないからだ。熱意や意欲というものがなくても、知性抜群で、何でもかんでも簡単にやってしまう天才肌の生徒がいたなら、それはそれで有益だ。
というか、数学の天才というのは、熱意なんかなくて、サボりたがる人が多い。
「無駄な思考や計算をいっぱいやるのはまっぴらだ。簡単に問題を解いてしまいたい。お、ひらめいたぞ。これなら一瞬で解決できる」
こういうタイプがいるのだ。なのに、そういうタイプを「熱意がないから」と言って排除してしまったら、あとには「熱意のある凡人」ばかりになる。
だから、高校は、いちいち熱意なんかを掻き立てる必要はない。むしろ、やたらと熱意を掻き立てる教師が多いから、体罰やしごきという問題が起こる。
学校教育というものは、熱意や意欲なんか必要ないのだ。むしろ、放課後のティータイムにお茶でも飲んで、楽しく楽器でも弾いていればいいのだ。ワイワイガヤガヤやって楽しんで、あとはグターッとしていればいいのだ。それでも知力が備わるなら、それでいい。やたらと熱意や意欲を要求する必要はない。
たとえば、いかにも天才肌のファインマンだって、高校時代はやんちゃなことばかりやっていたようだ。こういう天才を、俗物の教師が見ると、「ふざけてばかりいる」というふうに見なして、「熱意が最低。むしろマイナス。肝心のことをやらないで、余計なことばかりをやっていて、みんなの足を引っ張る」というふうに評価しそうだ。
というわけで、凡人教師の目から見たな熱意や意欲なんて、まともな評価になるはずがない。(凡人は天才を評価できない。)
その証拠(できない証拠)が、「入試で熱意や意欲を見る」という方針だ。本当に大学教員が「熱意や意欲が重要だ」と思うのであれば、入試でそれを選抜しようとはせずに、「よし、私の講義で、熱意をいっぱい植え付けるぞ」と思って、ハーバード白熱教室みたいな講義をするだろう。つまり、その大学教員は、自ら熱意を持って、大学改革をするだろう。
ところが逆に、こうしようとする。
「大学で熱意を掻き立てるかわりに、大学が何もしないで済むように、最初から熱意のある受験生を選ぶ」
これじゃ、大学教員の側に熱意と意欲がないのが、バレバレだ。そして、熱意と意欲がない大学教員が、熱意や意欲のある生徒を、きちんと選べるはずがないのだ。なぜなら彼らの判断基準そのものが狂っているからだ。
Q 「入試で熱意や意欲を見ることは?」
A1 「それは、大学の側に熱意や意欲があるからです」
A2 「それは、大学の側に熱意や意欲がないからです」
大学側は(自分に)「ある」と思っているが、実際は「ない」のである。
そして、ここの判定を間違っているからには、熱意や意欲のある生徒を、きちんと選べるはずがないのだ。自分自身に付いてすら誤認している連中が、どうしてまともな判定ができるだろう?
──
こういう愚劣さを、企業の側も備えているようだ。
読売新聞の記事(上記)によると、企業の側は、次のように考えているそうだ。
「ビジネスのリーダオーには、学力や語学力だけでなく、対人交渉や人間関係の力が大切だ。しかるに、海外に比べて、日本の若者は相当見劣りする」
これはつまり、いわゆるコミュ力のことを言っているのだろう。しかしながら、そういうものを学生にばかり要求するのは、お門違いだ。
そもそもそういうものを形成させるように、企業自身が努力するべきだ。(つまり、社員教育をするべきだ。)
しかるに、現実の企業はどうか? あまりにもひどい状況であることが多い。
一般に、外国企業では、幹部候補生は、最初からエリートとして扱われ、徹底的にエリート教育をする。若くして課長クラスになることはしばしばある。だから外国企業では、若手や 30代が製品開発のリーダーとなって、時代の最先端の製品を次々と開発していく。
一方、日本の企業では、20代の課長なんていないのが普通だし、製品開発のリーダーは40代〜50代であるのが普通だ。これでは、製品開発が時代遅れになるのは、当然だ。いわゆる年功序列の弊害である。
年功給(傾斜式の賃金制度)というのは別に問題ないが、組織の序列まで年功式にやるのは、能力式とは正反対のものであり、きわめて弊害が大きい。そして、そのせいで、時代に即した変化ができなくなって衰退したのが、日本の家電会社だ。
こういう会社は、「優秀な学生を選ぶこと」ばかりに熱中して、「社内で社員を育てること」をほったらかしていた。相も変わらず「年功序列」で、年寄りをリーダーにすることしかできなかった。
結果的に、これらの会社は、会社全体が沈没してしまった。数年前に日立の業績悪化が話題になったが、その後、シャープ、NEC、パナソニック、ソニー、という会社が次々と赤字化していった。最近では富士通もその仲間入りをして、「定昇停止」つまり「賃下げ」という方針を示した。( → 朝日新聞 2013年4月13日 )
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結局、大学であれ、企業であれ、大切なことは「入試」や「選抜」ではないのだ。自らの内部で「まともな教育」や「まともな制度」を構築するべきなのだ。
それはつまり、「自らなすべきことを自らなせ」ということだ。なのに、それをしようとしないで、入試や選抜の段階で片付けようとする。あまりにも他力本願であり、無為無策だと言えるだろう。
こういうふうに、大学や企業が無為無策だから、大学や企業も外国に負けてしまう。
これらの大学や企業が世界に伍するためには、入試や選抜の段階を変えればいいのではない。まず自らが根本的に体質を変えるべきだ。大学ならば大学自身の教育体制を根本的に変えるべきだ。企業ならば企業の教育→人事を抜本的に変えるべきだ。……なのに、そうすることもできず、十年一日のごとく、数十年前の組織を維持しているから、世界と伍することもできずに、次々と脱落してしまうのである。
彼らは、まずは、自己変革から始めるべきだ。というか、自己変革しようともしない、自分たちの頭の悪さを反省するべきだ。
ただ、どうしても「選抜」に頼り足りたいのであれば、一つだけ、うまい方法を教えよう。
それは、「入試や選抜で熱意を」なんて言っていた馬鹿な連流を、すべて大学や企業から排除することだ。こういう形で馬鹿な教授や管理職を排除すれば、大学や企業は自己改革ができる。
このように「頭の悪い教員や管理職(特に重役)を排除する」という方針であれば、それだけは、有益だろう。
[ 余談 ]
関連して、次の話題がある。自民党の方針。
国公立大学の受験や卒業に、英語能力テスト「TOEFL」で一定以上の成績を求める。馬鹿馬鹿しくて、呆れるほかない。
トップレベル 30校程度については、TOEFL 90点(120点満点)以上を卒業要件とするよう求めた。
( → 2013年4月9日 読売新聞 )
英語力養成という方針は、わからなくもない。しかしそれならそれで、各大学でそれぞれ努力すればいいのであって、統一的な点数などは必要ない。
また、英語力がないというだけでことさら落第させる意味がない。(たとえばアインシュタインみたいなタイプが落第させられそうだ。彼はどもりだったし。)
そもそも TOEFL を使うというのが、筋が悪い。これは高校卒程度の英語力を見るための国際的な試験であって、大学卒業のときの英語力を見る試験じゃない。
また、受験料がとても高くて、230〜260ドルぐらいする。あまりにも高額すぎる。何だってこんなに高額の金を米国の団体に貢がなくちゃいけないんだ? 同程度のテストなら、センター試験みたいにやれば、ずっと低額で済むはずだ。
こんな方針はまるで「日本を米国の植民地みたいに扱う」という方針だ。愚劣。
こんなことを考える連中がいるんだから、日本はますます馬鹿が支配するようになるな。こういう馬鹿を排除するためには、国会議員には学力テストを課した方がいいだろう。
もっとも、そうしたら、自民党の議員の大半が排除されるだろうが。たとえば、漢字を読めない首相もいたし。(ローゼンメイデンの見過ぎかな。)
【 関連項目 】
→ 東大推薦入試は有効か?
→ 東大の入試改革について
→ 面接入試はなぜ駄目か?
→ http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35580
聞いた話です。米国の研究所に長期滞在している出向社員が、帰国の際に昇格要件のTOEICを受けたら500点台前半。
普段英語で生活していて、仕事も完全に英語なのになぜ?と周囲が驚いたとか。単に時間配分が判らなかったことと専門分野外は理解できなかったというのがりゆうだったとか。で、傾向と対策を勉強したら700点台にアップしたらしいです。
それでも900点にならないところが、奥ゆかしい所でしょうか。
いずれ、聞くだけ、読むだけ、のこんな試験結果は仕事やその他にも役立たないでしょうね。
とはいえ、相手の言ってる事を理解できる能力とそれを獲得しようとする努力は重要かもしれません。
これは「勉強ができたって何も意味がない」というのと同じですね。
勉強と同じで、基礎力として1つの評価基準にするのはいいですが、英語ができると仕事ができると勘違いする方が間違ってる。
英語ができない人が多すぎて、英語ができる人を過大評価してしまう傾向が強いのが問題。
これも「まともな教育」ができていないからなんですよね。