東大が推薦入試を導入する。
東大は15日、2016年度入試から2次試験の後期日程を廃止し、一般推薦入試を導入すると発表した。前期日程より早い時期に実施し、計100人程度を募集する。高校の校長の推薦が必要で、浪人生も対象とする。なるほど。その意図はわかる。東大の試験は国立大学型だから、「まんべんなく点を取る」というタイプが受かりやすい。そこで、「一芸に秀でる」というタイプを取るために、「特定分野に強い」というタイプを選ぼうとするわけだ。その意図はわかる。
東大によると、対象は、物理学や数学、文学など特定の学問分野に強い関心や学習意欲を持つ人。文科1〜3類、理科1〜3類の各科類に推薦入試枠を設ける。推薦入試の合格者は、学生全員が教養学部に在籍する1、2年生の段階から大学院などの専門的な授業を受ける。
( → 共同通信 )
東大は各学部で求める学生の基準を公表し、それぞれの教員が面接する。「授業の内外で、幅広く学び、問題意識や深い洞察力を真剣に獲得しようとする人」が大原則。ボランティアなど体験活動の成果も、入学後にやりたい学問や研究との関連性を問うという。
受験生の資質を吟味するため、面接は数時間に及ぶことも想定している。
( → 読売新聞 )
東大は対象として、高校時代からすでにある特定の学問分野に優れた能力を持つ人物などを念頭に置いており、その分野の教官が調査書や面接などによって専門的な見地から審査する予定。
( → 日テレNEWS24 )
問題は、それが有効かどうかだ。
──
私の体験からすれば、それは有効ではないと思う。というのは、東大の入試はもともと「一芸に秀でる」というタイプには有利にできているからだ。その理由は、「合格ラインの得点が 50% 程度だ」ということだ。
たとえば、ある教科が不得意で0点だとしても、他の科目で満点を取れば、両者の平均では 50点だから、合格ラインすれすれとなる。だったら、「不得意科目と得意科目の相殺」が、もともと可能なのだ。
一方、仮に、合格ラインの得点が 70%程度だとしたら、このことは成立しない。1科目が不得意なら、他科目で満点を取っても、平均点は 50%だ。これは、2科目で 70%ずつ取るの場合の平均点 70% に比べて、はるかに低い。
だから、「合格ラインの得点が 50% 程度だ」といシステムがある限りは、もとも「1芸に秀でる」というタイプは、十分に救済されているのである。
「ほんとかよ」
と思う人もいるかもしれないが、私がそうだ。入試のときには風邪を引いて、 40度の高熱を出して、一番得意だったはずの数学が0点になってしまった。40度の高熱になると、数学の頭がまったく働かなくなる。普通なら楽々解けるはずの問題さえ、まったく手が付けられなかった。頭が完全に馬鹿になっていた。
それでも、他科目は(高熱にもかかわらず)十分な点数を取っていたから、平均点で 70%程度を取れた。
また、一次試験(当時はセンター試験ではなくて東大独自の一次試験)では、世界史が0点だったが、これも楽々パスできた。
要するに、「一芸に秀でる」のではなく、「三芸に秀でる」というぐらいであれば、1科目が0点であっても、合格ラインをはるかに上回るので、合否には全然関係ない。「一芸に秀でる」タイプも同様で、他科目が 40%程度であっても、1科目で 90% を取れば、楽々合格できる。
つまり、現状のシステムで、「一芸に秀でる」タイプは十分に合格できる。(その一芸において傑出した能力があれば、だが。)
──
一方、今回の東大のシステムは、どうか?
本学の教育課程を履修するために必要な基礎学力を備えていることを前提に、志望分野への適正を重視しつつ、高等学校段階の学習成果や卓越した能力を積極的に評価。この推薦方式では、センター試験で十分な点を取ることが要求される。しかるに、センター試験の合否はどのくらいか? ざっと見て、80%程度だ。
出願書類、面接等の審査結果および大学入試センター試験の成績によって総合的に評価し、合格者を決定。
( → Yahoo!ニュース )
書類選考した上で12月に面接を行い、合格内定者を決める。1月のセンター試験で基準点を超えれば正式に合格とし、2月中旬に通知する。
( → 日本経済新聞 )
→ 東大入試足切り点(理一・理二・理三)
これはつまり、「不得意科目が1科目でもあると致命的」という感じである。理系なら、英数国理が各 200点、社会が 100点。社会で 0点を取ると、残り全部で満点を取っても計 800点。これだと、足切り点の 770点前後には 30点の余裕しかない。つまり、社会で 0点を取ると、一次試験をパスすることはほとんど不可能となる。また、国語で0点を取ると、他の科目で満点を取っても 700点だから、確実に不合格となる。
で、こういう「不得意科目が1科目でもあると落第になる」というタイプの「センター試験」を基準にして足切りをするのだから、東大の「推薦入学」は、その目的(不得意科目があっても一芸ないし三芸に秀でるタイプを合格させる)には、まったく不適なのだ。
──
ではどうすればいいか?
簡単だ。「1科目でも不得意科目があれば不合格」(つまり平均点が著しく高い)というセンター試験の利用をやめればいい。
かわりに、「1科目ぐらい不得意科目があっても挽回できる」(つまり平均点が 50%程度)という東大専用の試験を使えばいい。それは、昔の東大ならば、東大一次試験のレベルである。
( ※ 一次試験の 50%の得点の合格者数と、二次試験の 50%の得点の合格者数とは、異なる。この点、注意。)
──
まとめ。
「特定科目に秀でるタイプを求める」ためというが、その目的は達成されない。なぜなら、「不得意科目がひとつでもあれば不合格」というセンター試験を併用するがゆえに、特定科目だけに秀でるタイプは不合格となるからだ。
同じ目的を達成するためには、センター試験の利用をやめる方がずっといい。そうすれば、「不得意科目がひとつでもあれば不合格」ということがなくなって、「不得意科目を得意科目で挽回できる」という形になるからだ。これなら、得意科目を持つ学生が入学できる。
結局、東大は、やることを間違えているのである。
( ※ 物事の根源的な本質を放置して、小手先のつじつま合わせで表面を取りつくろうとしている、というわけ。弥縫策。)
[ 付記1 ]
やや面倒になるが、代案として、次の措置を取ってもいい。
「センター試験の得点を、単純加算しないで、順位点に換算する」
ここで、順位点とは、全体の何番目に位置するかを数えて、それを正規分布の偏差値に換算した値だ。たとえば、全体の真ん中の順位であれば、偏差値 50という得点を得る。全体のペケの方であれば、偏差値 20ぐらいになる。たとえ0点であっても、偏差値 20 を得る。一方、たとえ満点であっても、偏差値 80ぐらいが限度だ。
ここで、実際の得点は、そのままでは順位点には結びつかない。(満点者の多い)センター試験の例でいえば、次のような感じになる。
100点 …… 偏差値 63
90点 …… 偏差値 55
85点 …… 偏差値 50
60点 …… 偏差値 40
10点 …… 偏差値 30
つまり、高得点を取っても高い偏差値は得られない。一方、著しく低い点を取っても、偏差値はあまり下がらない。このことで、「特定の科目が不得意」という受験生であっても、「1科目が不得意だから、即 不合格」ということにはならない。十分、挽回が可能となる。
この方式は、発想としては面倒だが、システムとしては面倒でも何でもない。ごく簡単なプログラムにより、単純に数値変換される。
とはいえ、この方式は、あまりお勧めできない。ごくわずかなミスが順位点で大きな差をもたらすからだ。満点付近では、ほんの1点の違いが、多大な順位の違いをもたらす。
こういうことが起こるようなセンター試験というのは、もともと不適切なのである。合否を決めるような試験では、合否を決めるボーダーラインの得点は、50%程度であるべきなのだ。それによって、「挽回が可能」となるがゆえに、「不得意科目があっても他科目が傑出している」という受験生は、十分に合格できる。
これが試験改革としては本筋だ。
[ 付記2 ]
一方、「後期試験を廃止する」というのは、とてもまずい。これでは、「受験の機会をなくした」(当日、風邪を引いたとか、遅刻したとか)という受験生に、挽回の機会が与えられなくなる。
現状では、後期試験の合格ラインはものすごく高い。どちらかといえば、後期試験の合格者をもっと増やす方が、優れた受験生を確保できるだろう。
[ 付記3 ]
ちなみに、推薦入試で合格した人というと、(女子アナの)中野美奈子が思い浮かぶ。彼女は、こういう感じの人だ。
→ 「アカデミー賞」中野美奈子の現地レポート
→ ニュース原稿で中学生でも読める漢字が読めない
東大もこういう人が増えるんでしょうかねえ。
[ 付記4 ]
推薦試験ではやたらと「面接」が重視されるが、やめるべきだ。「面接」なんかを実施したら、アインシュタインやエジソンみたいなタイプは確実に不合格となる。文系ならともかく理系に対して「面接」をするなんて、馬鹿げている。理系なら引きこもりだっていいのだ。むしろその方が研究者向きだ。
アカデミズムとビジネスとは違う。東大はそこのところをまったく理解できていない。
ついでに言えば、漫画の創作者だって、変人ばかりだよ。というか、変人でないと、漫画の創作者としては大成しない。こういう人々は面接では不合格になるタイプばかりだ。
さらに言えば、次の決定的な事実がある。
「面接で有利なのは、美人・イケメンであること」
東大みたいな方針を取れば、受験生は整形手術で美形になることが必要になる。(韓国みたいだな。)
[ 付記5 ]
もしかしたら、東大の狙いは、それかもしれない。つまり、美人・イケメンを合格させることだ。それによって、これまでは早慶に流れていた中野美奈子みたいな「上智(以下)レベルの学力だが、顔は美人」というのが、早慶から東大に流れるようになる。それを狙っているのかもね。
一方、「特定分野に優れている」というタイプは、今回の推薦方式では(センター試験のところで)排除される。そういう人は、早慶の普通入試で合格するのかな。
【 追記 】
あとで思ったが、推薦入試を使って東大の狙いを実現する道が、一つだけある。こうだ。
「一次試験(センター試験)のバイパスとして、推薦入試を行なう。合格者は 200〜500人程度。その後、二次試験を受験してもらう」
これならば、「不得意科目があるので一次試験をパスできない」というタイプ(たとえばアインシュタインみたいな人)が、一次試験抜きで二次試験を受験できる。また、二次試験を受験するから、学力の面で不公平さがあるわけでもない。単に「不得意科目の問題」を回避するだけだ。
( ※ なお、面接は必要ない。推薦された人を全員、合格にしていい。どうせ後で二次試験を受けてもらうからだ。)
あるいは、折衷案として、次のタイプの二次試験だけを設ける。
「文系は、国語と社会1科目。理系は、数学と理科1科目。この2科目受験」(★)
これで合格させる人は、若干名とする。合計 10人〜20人程度。ま、ほとんど例外扱いですね。
これなら文系または理系のスーパーエリートを合格させることができるかも。
だけど、私が思うに、スーパーエリートってのは、こういうタイプじゃない。若干の不得意はあっても、二次試験を楽々パスできるタイプだ。だから、この方式(★)でスーパーエリートを採用できるということは、まずないだろう。東大の目論見とは違って。
【 関連項目 】
本項には、続きとなる話があります。次項、次々項などでも述べています。そちらも参照。
→ センター試験を廃止・縮小せよ
→ 東大の入試改革について
→ センター試験の世界史は?
さらに後日になって、まったく新たな項目を書きました。これも重要です。
→ 面接入試はなぜ駄目か?
一部の大学だけが推薦入試をすると、他大学に先んじて学生を獲得できて、うまくいくが、全大学が、総定員の4割を推薦で獲得するという現状だと、推薦によっても、学力の低い学生を獲得することしかできない。
東大のように、推薦を採用しないと、さらに「悪い」。他大学が青田刈りをした落ち穂拾いになってしまうからです。
東大も、やせ我慢はできなくなったんですよ。
教員の定年延長問題でも叫ばれたが、「ふつうの総合大学」でしかないんだから、特殊なやりかたを採用することはできない。
政府が推薦・AOの総定員割合を一定以下に規制しないと、大学入学者の学力は低下する一方だと思う。
国立大の推薦入学の総数は、かなり少ない。
→ http://www.keinet.ne.jp/doc/dnj/result/suisen/12/k01.pdf
一方、不況のせいで、国立大の人気はすごく高い。
両方を合わせて考えると、国立大には私立大よりも良い人材が集まっていると思えます。
だから、推薦に入る人が「優秀な人の青田刈り」ということはないでしょう。たとえば、東大に入れる人が、推薦入学で早稲田に入る、ということはないでしょう。本人が拒否するはずです。
推薦入学で早慶に入るというのは、一般入試では早慶には入れない、と自覚しているような人だけです。慶大に入った中野美奈子みたいな。学校としても「上智大には入れるレベルで、他に得意分野のある人」というのを選ぶはずです。東大には影響しない。
→ http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130316-00000003-rnijugo-sci
一般入試の人が「一緒にしないでくれ」というほどに学力がダメだそうですが、
帰国枠では高田万由子さんが入ったのが20年前でしょうか。
面接では美人有利ですね。
ハーバードなら、異論は出ないが、どうでもいい州立大学とかだと、やっぱりペーパーテストをやらないといけなくなる。
和田秀樹氏はブログで、東大の推薦入試で入ってくるのは政財界の子弟や皇族になり、東大の中にハイソサエティができる、と書いていますが、案外それがねらいかもしれません。
今後は皇太子の娘も秋篠宮の息子も東大に入ってくるかもしれません。
そして、一般入試の東大生は、こうした政財界の有力者の子弟や皇族とご学友になることで、政財界に進出していくのかもしれません。
一般に、こうした面接推薦入試は恵まれた家の子供が有利です。
日本では、恵まれた子供が有利になる枠ばかりで、ハンディを背負った子供に有利な枠はたぶんないのではないかと思います。
アメリカでは非白人が白人よりハンディがあるということで優遇されたりしますが、日本はもっぱら恵まれた人を優遇している感じがします。
せめて東大だけはそれをやらないでほしかったです。
帰国子女枠は、帰国子女になれるのは恵まれた子供ですから、まさに恵まれた人の枠になります。
和歌山カレー事件で、報道内容に疑問を持った中学生の女の子が、専門書を購入して、まだ珍しかったインターネットも利用して、真相に迫ったレポートを、雑誌投稿して賞をもらってました。推薦だと、ああいうのが評価されるんでしょう。
まあ、本人は優秀です。文章もいい。けど、勉強に使うわけでもない、単なる興味本位の調べ物に、一万円近い専門書を買ってくれて、自宅にまだ珍しかったブロードバンド回線が来ていて、パソコンも自由に使えるって、どれだけハイソなんだよと思う。
勉強ばかりして、偏差値は高いが、社会や自然や
スポーツなどの、やるべき体験をしていない人間
以外の範疇から採れるからだ。
ラジオ製作に熱中、柔道に熱中、父親を尊敬、
コミュニケーションも良い。塾は行く暇なし。
それでいて成績は結構良い。従来方式では東大
へ来ないが、人間としてのポテンシャルが高い。
そういう学生が採れれば意味がある。
(山中伸哉氏、R.ファインマン氏らがそう
つまり、鳩山由紀夫氏のような人間と正反対。
私の高校じゃ、やたらと趣味や芸術に熱中している人が多かったが、それでも大多数が東大に入学した。庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」の日比谷高校みたい。
ついでですけど、山中伸哉やファインマンは、優等生というよりは悪ガキだから、推薦はもらえないでしょう。こういうタイプは、推薦入学が広がると、かえってはじきだされます。入学できるのは、顔のいい官僚タイプの人ばかりになります。たとえば、中野美奈子とか。
そういう人ではなく、人間の成長に必要なさまざまな活動や体験や交流をシャットアウトして、お受験勉強に専念して(かろうじて)入った人たちのことです。
M.ミンスキーは、人口知能の研究者たちに「トイ・プロブレム」をやっているといいましたが、お受験内容は、1問1時間以内で解けるトイ・プロブレムです。人間の頭脳の神経回路網は、トイ・プロブレムを過剰にやって、人間成長に必要な体験が過小になれば、危険です。日本のリーダーになってはいけないと思うのですが、鳩山由紀夫氏はなりました。結果は無残という以上でした。家電業界の惨敗も寂しい。特にシャープ、パナソニック、ソニー。
お受験勉強時間が、お受験専念者の半分以下になるくらいに活動や体験や交流を活発にやってきた人の中から選抜するというのは、ひとつの方法です。
菊川怜氏は進学校から建築科へ進まれた。お受験は得意でも建築家の才能が豊かということはないでしょう。TV業界へ進まれたので良かった。安藤忠雄氏のような人は、はじかれる。時代に許容性があったため、底辺から才能を開花して世界的な建築家になられた。お受験が、真に適性のある人たちを排除する歪んだバイアスをかける装置であると困りものです(多分、同意見では)。
中野美奈子氏は合格し、山中伸哉氏は不合格になる? そういうつまらない選別になる可能性もあるけれど、そうならないように工夫すれば良いのでは。でも、自分が面接したら、中野美奈子氏にニッコリされたら合格させるかな(色気に免疫のある面接官が必要)。
ちゃんではなく、野生児を入学させて、人間性の
多様化を図りたいと画策し続けてきたので、その
一環としての試みだと思います。
が、野生児といっても、受験エリート私立校では
なく地方ナンバースクールの出身者をという程度
の話なので、話が呆れるのですが。なにしろ、
学内でプライドが一番高いのは、地方ナンバー
スクール出身者なのでむしろ排除したいくらいで。
事実上25歳以上でないと積めないような経験を
持っていることを条件とするような本物のAO
入試を導入するなら面白いのでしょうけど、
そういう経験をこれから積むというのも大学生活
のうちの一つだと考えると、それもおかしいですよね。
後期試験も入学者の多様化を図っての導入だった
のが、結局はより合格テクニックに走る受験生
(理科は生物・地学2科目のみの履修で、受験は
理2オンリーの受験生など)に終わったので、
今度こそは、ということではないかと。
和田秀樹さんは理屈付けにおいては完璧な方だと
思うので話にはいつも感心させられるのですが、
話の前提条件がどうしても思い込みな感がして、
識者という割には情報ネットワークが不足して
いる気がするんですが。
それにしても昔の本には、数十年前から日本の一級の科学者が言っているようなことが全く教育に取り入れられておらず歴史を繰り返している。日本の科学は欧米のパクリの域を未だに出ていない。理系(感心のある人も含め)の人口が少なすぎる。日経サイエンス(アメリカの雑誌の翻訳)すら人口比を考えてもアメリカの数倍の売り上げの差がある。日本でこういう人類最強クラスの科学者を育成するよりも欧米からパクってくればいいと思っている。もちろん個人レベルでは明治時代よりはすぐれた人も出てきているが。私の知人も高校で物理部の設立が人数不足で認められず、業績を上げれなかった(海外大学へいくにはこういう理系の部活で業績をあげねばならない、理系学部の場合ボランティアやスポーツよりも学術分野で世界レベルの業績を上げたほうが当然有利)。
なお歴史的なことをいうと、フランスでは数学の面接試験まであるのだが、ガロアも面接で大学入試に失敗している。アインシュタインも国語や語学で失敗した。こういうシステムだってそもそも200年ぐらいしか歴史がないだろう。日本では100年程度だ。少子化も解消し有能な科学者を億人単位で量産できる体制を組まねばならないだろう。中国もエリートをスパルタ教育しているが、この方法ではスポーツではうまくいっても、研究では成功するとはかぎらない。
政財界や格差社会といっても文系の分野話だろう?理系にとってはそんな世界に感心はないしどうでもよいのだ。政治家や官僚になどならないし、人類史を書き換えるレベルの超技術に結びつく研究などが大量に出てくるようにシステムを変えないといけない。ただ科学教育も特権階級しか受けれないのには断固抵抗せねばなるまい。いろいろ教育に関しても調べたが、理系のエリートを量産するためのものは日本にはないとほぼ断言する。入試のみならず履修システムも問題だ。高校・大学で理科全科目を勉強したくてもできず、独学で補わねばならない。もちろん進んで自発的に勉強するのは当然だが、海外では学校で履修したことが最重要視されるので、理系の資格試験も少ない日本ではせっかく苦労して学んでもそれを証明できない。英検や漢字検定のように物理学検定、化学検定もつくってほしい。当然実験も試験範囲だ。数年前に理化学検定があったが受験人口が少なすぎて廃止された。文学や歴史はあとから本で学べるし通信制大学もあるが、科学を学ぶシステムがない。日本に通信制の理学部は一つも存在しない。数学などは実験がないのだから、通信教育も可能だと思うのだが。
ほかにも例えば物理学と化学を同時に専攻したいと思っても日本では不可能なのだが、東大は複数の学科の研究室に同時に所属できるダブルメジャーを解禁する気があるのだろうか?東大京大レベルで飛び級やダブルメジャーや理系入試の抜本的改革などをやっていかない限り難しいだろう。阪大などはできたばかりのころは画期的だったが最近は独裁体制がひどいらしい。組織にも寿命があるのだろう。
もともと科学なんて金持ちの道楽にすぎなかったわけで、中世以前は富裕層が本業を別にもっていたりしてやっていたのが中心。イギリスとか近代の過渡期には反科学主義が活発で、科学の有用性が見いだされると特権階級も科学を推進するようになる。近代科学史でいえばナポレオンがはじめて科学の有用性を見いだした政治家で、ポリテクやノルマルを作って平民を入れて徴兵も免除した(なお第一次大戦ではフランスはナポレオンの歴史を忘れ科学者を一般徴兵したのに対しドイツは科学者を新兵器開発などにあたらせた)。日本の場合1930年代以降科学者を量産したがそれでも間に合わず求人不足で大変だったらしい。あと日本は工学に偏りすぎ。アメリカは理:工の比が1:1で理学部卒でも日本では工学部卒がやるようなことをやっているが、日本の場合東大でも工学部は1学年1000人ぐらいいるのに理学部は少なすぎるうえ使いこなせていない。まあ理学部の基礎科学から如何にして応用するかとうのは難しく、一定の努力や投資で成果がでるとはわからない。本当に最高レベルのための教育改革になっていない。
人間の体が細胞からできていることに感動した無知?な学生が、16年後(1976年)に、無名の科学者として米国のコールド・スプリングハーバー研究所でジェムス・ワトソンの前で、後にノーベル賞受賞対象になる研究成果を発表していた(この発表後、ノーボディからサムボディになった)。
利根川進氏は、核心として、「ネイチャーはこうなっているんだろうといろいろ仮説を立てるわけね。・・・ その人の自然観が本当のネイチャーに近い人ほどセンスがいい」と話されている。
利根川氏と利根川氏をバカにした友人の違いは何か? 東大など主要大学が、それを汲んだ大学入試に変わっていくことは日本の未来にとって重要です。一般の印象と違って、非常に価値のある研究する科学者は、「それ(表面的に)知っている」よりも、人間としての成長が重要。感動する心は、何が重要かに反応できる感度であり、「自然観が本当のネイチャーに近い」というのは、自然を教師として、自然から学んだ体験が決定的に重要。それは、汲めども尽きないスプリングになる。
自然科学者の場合そうであるが、文科系の対策も重要。今の軽薄なお受験によって、日本のリーダーの劣化が激しい。
東大にも、人間的成長をする体験をしながら、余裕をもって入った人もいる。そういう人のことを誰も問題だと思っていない。評価されている。
そうでなくて、ひたすら少年少女向けのお勉強をやって、かろうじて入った人のこと。人として成長する機会と引き換えに、お受験能力に特化した。
研究者として大成するかといえば、無理だと思う。社会のリーダーとして日本を導けるかと言えば、無理だと思う。
例えば、鳩山由紀夫氏は、お受験教育の最高成果である。そういう人を大量生産してはいけない。少年少女向けのお勉強を過大評価しないことである。
海外の若者は非常に厳しい競争にもまれる、厳しい格差社会だ。客観的な試験にさらされ、優秀なものは優秀だと社会全体でたたえる。ところが日本は逆だ。ひがみで優秀なやつを落としまくる。村落社会の特徴なのだろうが、それでは国は発展しない。
空を自由に飛ぶ鳥には鳥にしか見えないものがあるのだ。地上のものが教育を語るべきではない。
受験のいいところは勉強さえすれば良い点が取れる、親が中卒で団地づとめでも、自分の学歴さえ上げればなんとか親の階級から脱出出来るところ。推薦のまずいのは、階級がますます固定化するところだと思うんですよね。
ただでさえ塾代の支払い能力という親の力で学歴に差が付いている現実があるわけですからねえ。
推薦入学や面接では、潜在能力を秘めた野生児なんて入ってきやしませんよ。潜在能力がテレビ出ることとか言うんですかね(爆笑)
東大の人、女性にモテテましたよ。変なヒガミ根性から解放されてるし、えばらないしね。
むしろ「代ゼミの全国偏差値では政経の方が上だった」という俺自慢は、おそらく女性なら必ず合コンで効いたことがあるという有名ゼリフです。めんどくさい。
無理して入っている人たちの人数の一部を、1点刻みの選別ではなく、数時間かけて人物を見て選別する方法は、今より改善になるんじゃない? といっているだけの話。
面接でじっくり話をして、それではこういう問題をどう考えますか? と順々にたずねれば、受験テクだけの人と、そうでない人は明白に分かる。そういうことではないのかな。明白に分かっては困る人もいるが・・・
下位の人数分の一部を1点刻みの選別ではなく、数時間かけて人物を見て選別する方法は、多様性を生むというだけの話では。
面接でじっくり話をして、それではこういう問題をどう考えますか? と順々にたずねれば、受験テクだけの人と、そうでない人は明白に分かる。
そういうことではないのかな。明白に分かっては困る人もいるが・・・
こんなことをしていたら20年後の日本は発展途上国の仲間入りするのが間違いないが、それは上記のような意見がまかり通る社会だからだろう。
西村氏は「国際競争力ランキングでトップだった日本は1990年代半ばから低迷し、いまはアジアの中でも香港、シンガポール、台湾、マレーシア、中国、韓国に抜かれている」と報告。
第二期オバマ政権は「理工学(STEM)」教育の強化に動き出しているという。エンジニアリングやヘルスケアなどの雇用が拡大する分野を支えるのは「理工学(STEM)」教育だとして数学や科学の教員を10万人増やしてコミュニティカレッジなどで200万人の労働者の教育に当たるという。米国は、STEMつまり理工学教育を強化して、新しく生まれる仕事や比較的給与が高い仕事に対応できる人材を大量に育てようとしているように思われる。
中国では海外留学人材の帰国誘致以外に、国内の人材育成、特に国家の科学技術イノベーションと国際社会における産業競争力の強化を図るための、質の高い科学技術イノベーション人材の育成がますます重要視されている。
http://scienceportal.jp/reports/strategy/1203.html
なぜ危ういかといえば、受験テクだけで済まそうという風潮が強まり。根源から考えたり、流行のパラダイムに乗らず、
自分の人生の課題から新しいパラダイムを作るような人が減っていることに危機感を覚えているからでしょう。
教えられたとおり記憶して、正確にやれる能力は重要ですが、それでは世界に伍していけなくなってます。
つまり、優秀さの尺度や価値がシフトしてるのであって、知識人を叩くとか、ないがしろにすると言うことではないと思いますよ。
それは東大じゃなくて、センター試験ですよ。センター試験はそういうタイプのひどいものだが、東大の入試はきちんとした試験問題です。良問と言える。
だから、上記のような批判をするのであれば、東大たたきをするんじゃなくて、センター試験たたきをすればいい。たたくものを間違えている。次項を読んでください。
とにかく、上記の趣旨の批判であれば、たたくべきものは、東大じゃなくて、センター試験です。
> 根源から考えたり、流行のパラダイムに乗らず、自分の人生の課題から新しいパラダイムを作るような
そういうのは、国立大学の付属高校でやっています。これらの高校では、「受験勉強は自分でやれ」と言って、受験テクも教科書も教えません。かわりに受験勉強とは関係のないことばかり教育している。受験にはすごく不利です。
で、そういう高校からは東大には全然合格しないかというと、そんなことはなく、私の年度では東大合格率が75%程度でした。
改革するべきものは、東大の入試じゃないんです。東大をたたいたって、何の足しにもなりません。
管理人さんの言われるように、むしろ、センター試験を止めて、東大の良問の入試をやる。そこから違うかも知れないし、
同じかも知れませんが、それで90%の人を選別する。プラス、10%程度の人数は、たっぷり時間をかけて選別して、
多様性を確保する。であれば、現状の微調整の範囲で合理的です。
抜本的な教育の改革は、東大の責任や東大の問題ではなく、別途考える問題でしょうね。
>たたくべきものは、東大じゃなくて、センター試験です。
本質的なご指摘ですね。堺屋太一さんがいわれる規格大量生産に向けた方式ですね。
それはありかもしれませんね。ただし条件は:
・ 面接はしない。
・ ボランティアその他の活動は評価しない。
・ センター試験は考慮しない。
・ 数学または小論文を課する。これでほとんどを決める。
・ 特殊資格があれば考慮する。(数学オリンピック出場など)
・ 人数はごく少数。全体の1〜3%程度。
これだったら、けっこうよさそうです。
ちなみに、近く予定されている東大の推薦入試は、上記をまったく満たさないので、全然ダメです。
>ボランティアその他の活動は評価しない。
--> そのためにボランティア活動する人がでるから、まあ、そうですね。
--> 過度に受験勉強をしていないことを確認できるのなら、意味があると思います。
>センター試験は考慮しない。
--> 基本的な学力はあることは見る。過度には重視しない。もっともです。
>数学または小論文を課する。これでほとんどを決める。
--> 同等の趣旨で、口頭諮問的な面接をすればよいのではないですか。15分程度の面接には、
ほとんど意味もありませんが、数時間かけた質疑を重ねると、知力と人間力が明白に見えてきます。
多様性確保という点では、核心に思えます。
>特殊資格があれば考慮する。(数学オリンピック出場など)
--> 数学オリンピック金メダルなら、文句ないでしょう。
>人数はごく少数。全体の1〜3%程度。
--> 具体的な比率はともかく、慎重に始めることは重要ですね。
それは手間の点で無理ですが、次のことならば可能です。
「受験生の間で討論させる。討論の上手なものを合格させる」
これは新聞社の受験で導入されている(いた)方法で、とても効果が高い。優れた方式です。
ただし、それによる合格者は、たったの 20人程度です。また、学力試験を併科しており、学力試験の合格者だけが対象です。
ま、こういう試験があってもいいけど、3000人も合格させる東大には向いていないですね。理科三類に限定するのならば、これもいいけど。
討論がうまいやつは東大卒の称号がなくても社会で勝手に活躍する。討論がうまいやつに東大卒の称号を与えることで日本の教育全体にどんなよい波及効果・副次効果があるのか?ディベート部の人数が増えたり、子供に討論の練習をさせる親が増えるだけでは。諸外国との比較や社会実験によるデータに基づいた合理的な議論でなければ議論するだけ時間の無駄。そういう議題を扱ったきちんとした研究論文もあるので、まずはそういうものを参照してから議論すべき。
> 討論がうまいやつに東大卒の称号を与えることで日本の教育全体にどんなよい波及効果・副次効果があるのか?
たとえば iPS の山中さんみたいに独創的な才能のある人が入学して、独創的な研究をするようになります。日本の研究水準を高めるでしょう。文系でも、社会的貢献度の高い人が入学します。
かわりに、文系の得意な理系の人や、数学の得意な文系の人(ただの学力秀才)が、入学できなくなります。
> ディベート部の人数が増えたり、子供に討論の練習をさせる親が増えるだけでは
それはとてもいいことです。議論の訓練をすることは、知性を高めます。もっとやるべきなんですよね。
面接の訓練なんかとは本質的に異なる。
なお、「長い小論文」という案もある。下記で。
どうしてか? 一般的に言って、独創性のあるシャープなタイプの人間というのは、ほとんどいない。秀才ぞろいの私の高校ですら、たいていは秀才か、変人か、芸術家か、スポーツマンか、凡人か、そのいずれかだった。「独創性のあるシャープなタイプ」というのは、ほとんどいなかった。(つまり私の同類はあまりいなかった。)
ただし、少しはいた。そういう人は、討論の場で、すごく目立つタイプだった。また、長い文章をうまく書くタイプでもあった。(文章がうまいのではなく、独創性のある発想力があるとわかる。)
だから、東大が「独創性のあるシャープなタイプ」を求めるのであれば、「討論」や「長い小論文」で選べばいいのだ。一方、面接は、最悪だ。中野美奈子みたいなのばかりが目立つことになる。
あと、「リーダーシップを取るタイプ」というのもあった。こういう人は、行政官や経営者になるには向いているが、研究者になるにはまったく向いていない。東大があえて別枠で取るべきタイプだとは思えない。そもそも、この手のタイプは、知性優秀な順に取るだけでいい。具体的な例は、黒田・日銀総裁。(筑駒→東大法学部→国家公務員試験2番で合格)
何でもかんでも客観的に測定できると思い込んでいるのは、頭でっかちすぎる発想です。もっと現実を直視しましょう。現実から遊離した紙上の発想だけでは、駄目です。
ちなみに、あなたのお好みの方法を取っているのが、心理学です。人間性を、適当ないくつかのタイプに分類して、その分類で統計数値を取って、人間心理を理解したつもりでいる。そんなことをいくらやっても、人間心理を理解することはできないんだが。
統計データを取れればそれが客観的な真実になると思っている学者馬鹿が多すぎるんですよね。心理学の分野では。
ちなみに、岸田秀は、そういう心理学の無力さをよく理解していました。頭のいい人はちゃんとわかっている。
このようなレア・ケースを調べる手法というのは、統計的にほとんど無効です。巨大な誤差のなかで埋もれてしまうので。たとえば、誤差が1%なら、1万人に1人は 0.01%なので、1%の誤差に完全に埋もれてしまいます。
というわけで、統計的に客観的に調査は不可能です。「不可能であること」が、かくて証明されました。
一方、体験的な話なら、1学年160人で東大合格者120人以上という高校の体験なので、かなり精度の高い推測ができます。
というわけで、特殊な事例については、客観的な調査よりは、主観的な結論の方が正しい、ということは、けっこうあります。
──
ついでに言うと、上記の話は、コメント欄における個人的な見解です。本文で大々的に主張しているわけじゃありません。酒屋の飲み談義のレベルだと受け止めてもらって構わない。
世界に言いたい放題やっても、まともに論理で対抗できないサンドバックのような日本国では情けない。
生麦事件では、薩摩藩士たちは、英国側の巨額の賠償金の要求に対し、相手側がタジタジとなるほど正々堂々と論理で応酬した。その結果、
薩摩と英国は、やがて互いを理解し合うようになった。幕府はもちろん怯みっぱなしだったが、薩摩までが怯えて英国のいいなりになっていた
のなら、日本は諸外国の植民地になった可能性がある。
―アメリカの教育改革とWhat Works Clearinghouseの動向―
アメリカ・NCLB法の条文には、100回以上も「科学的根拠のある研究」(Scientifically-Based Research)という表現が登場する。
エビデンスに基づく施策の採用を目指す最近の
評価研究の流れにあって、新しい動きとして注目
されるのが、アメリカの教育改革とWhat Works
Clearinghouse(WWC)の動向である。ブッシュ
政権は、州や学校現場に対し、エビデンスに基づ
いた意思決定を求める法改正を行っており、そう
した意思決定を支援するために、評価研究の系統
的レビュー(Systematic Review)を提供する情報
サイトであるWWCが開設された
、NCLB法のいう「科学的根拠のある研究」
とは、具体的にどのようなものを指すのだろうか。
同法の第9101条では、その定義を次のように与え
ている。「教育活動や施策に関する妥当で信頼で
きる知識を得るための、厳格・体系的かつ客観的
な手続きの適用を含む研究」であって、それには、
観察や実験に基づく体系的・実証的研究、仮説の
検証を伴うデータ分析、実験デザイン・擬似実験
デザインを用いた研究などが含まれる
数年前に話題になった学力論争が浮き彫りにし
たのは、日本では、そもそも議論のベースとなる
学力のデータが十分存在せず、学習指導要領の変
更などの重要な政策変更が、科学的に評価されて
いないという問題であった。定性的な評価と定量
的な評価はいずれも大切なものであるが、わが国
の場合、定量的な評価が不足している感は否めな
い。
ケースコントロール研究は稀な疾患に適用される方法と考えるべき
「海外大学狙い英語漬け 進学校の武蔵、5年間特訓 来夏から、他校生も」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG17034_Y3A510C1MM0000/
科学を主対象とした(英文学ではないところがいい)英語課外授業を1400時間行い、
海外の大学へ進む後押しをするという。
ただし、受講料は年間100万円とういのがネック。国の援助があっていい話。
頭脳流出という見方もあるが、大きく巣立って欲しい。