※ 初めにお断りしておくが、これは皮肉である。
真意は「小説を教えるべきでない」ということ。
漫画を学校で教えるといい。特に、けいおん が良い。
けいおん! (1)
なぜ「けいおん」がいいかというと……
・ エロじゃない。
・ 女の子ばかりなので、男性とのエロ関係がない。
・ 女性心理が描かれている。
・ 男性の妄想で描かれた女性像ではない。
(黒髪ロングでウブな巨乳、なんてのではない。)
というわけで、比較的リアルである。ラブプラスの女性像なんかよりはずっとまともだ。こういう作品で女性像を理解すると、萌えオタクが妄想しているエロな女性像が是正されるだろう。その意味で、現実の女性像を理解する一助になる。
( ※ まともである証拠に、女性読者が多い。映画にも女性観客がいっぱい来た。よくある妄想たっぷりの萌え漫画とは違う。)
──
ひるがえって、国語では「登場人物の心理はどうか?」なんていう設問がしばしばある。しかし、その登場人物というのが、ひどいものだ。
・ 2012年センター試験では、主人公は虫オタク。
・ 2013年センター試験では、主人公は文学馬鹿。
(「スピンスピン」なんて書く、イカレた小説書き)
どっちの試験でも、登場人物(主人公)はかなり歪んだ精神を持っている。そういう狂人みたいな人間の心理を理解することなど、何の価値もない。なのに、「狂人みたいな人間の心理をいかに理解できるか」ということでテストの点数を付ける。
何やっているんだ、このテストは? まともな国語力があるかどうか調べるかわりに、気違い病院に入る適性をチェックしている。それで高得点を取った人は、気違い病院に入るには資格があるだうが、大学に入る資格があるとは言えない。……それとも、あれですか? 国立大学というのは、気違い病院なんですか?
ま、冗談はさておき。
そういうわけだから、センター試験では「精神の歪んだ登場人物の心理を理解する」なんて問題を出すのは、好ましくない。かわりに、「まともな人間の心理を理解する」というふうにすればいい。
そのためには、別に、国語である必要はない。ここで問うべきことは、人間の心理なのだから、国語だろうが、漫画だろうが、映画だろうが、何だっていいのだ。
特に、画像があると現実感が増すから、漫画や映画がいいだろう。ただし映画は著作権の関係から、コストがかかりすぎる。一方、漫画ならば、著者一人に金を払うだけでいい。教科書ならば、費用を負けてもらうことも可能だ。というわけで、漫画を学校で教えるべきなのだ。小説のかわりに。
ここで、「学校では、言語力などのちゃんとした勉強だけを学べばいい。女の子の心理なんか、いちいち学ばなくてもいい」と思う人もいるだろう。それはそれでいい。私としても、それを支持したい。
しかし、現在の国語では、どうしても「登場人物の心理」というのを、第1優先にしたいらしい。特に 2013年のセンター試験では、論説文をなくしてまでも、登場人物の心理を問う設問を出題した。それほどにも「登場人物の心理を知る」ということを優先するのが、センター試験なのだ。
ならば、その方針(言語力や論理力よりは芸術作品の心理が大事という方針)に合わせて、「小説よりは漫画の方がいい」というのが、私の立場だ。「シイゼエボオイ・エンドゼエガアル」なんていう狂気的な文章を読ませるくらいなら、ちゃんとした日本語を使っている「けいおん」を読ませる方が、よほどまともである。それなら少なくとも、読んでも狂わなくて済む。
( ※ 「シイゼエボオイ・エンドゼエガアル」というのを読まされた受験生は、なかば頭がイカレたような気分になってしまったらしい。ま、イカレた文章について心理を問えば、イカレた文章に読者の波長を合わせざるを得ないから、自然にイカレてしまうのが当然だが。)
──
結局、受験問題では、小説よりは、漫画の方がいい。
また、普段の学校教育でも、小説(の心理理解)をやめて、漫画にするといいだろう。
例。
国語が週に2時間で 40週なら、計 80時間。小説が3割なら 24時間。24時間も小説をやるのは無駄だ。
そこで、小説を8時間、漫画を8時間とする。残りの8時間は論説文に回す。結果的に本来の国語(論説文)の時間は、8時間増える。だから国語力はかえって向上する。漫画の学習時間を増やすと、国語力はかえって向上するのだ!
では、デメリットは? 「登場人物の心理」を考えることがなくなると、小説を書くのに不便である。とはいえ、小説を書く能力など、不要だ。国民が誰しも小説家になれるわけがない。能力もない人々がやたらと小説を書けば、ゴミが増えるだけだ。たとえば、
「俺の妹はBFが少ない中二病」
なんて題名の下手くそなラノベが、やたらと増えそうだ。そんなのは有害無益。やめた方がいい。「国民すべてに、ラノベを書く能力を与えよう」というような、現在の政府の教育方針は、あまりにも狂気的なのだ。
それよりは、「国民すべてに、まともな論理的な文章を書く能力を与えよう」という方針の方が、ずっとマシなのだ。
そのためには、気違いみたいな人物の心理を理解させようとする国語教育(小説読解)よりは、まともな女の子の心理を理解させようとする漫画教育(けいおん読解)の方が、ずっとマシなのだ。
結論。
学校では小説よりも漫画を学べ。
[ 付記 ]
けいおんが不満だったら、別の漫画でもいい。たとえば、次のような。
→ 火の鳥 (1) (角川文庫)
→ PLUTO (1) (浦沢 直樹)
後者は、ノース2号の話が感動的だということで、大きく話題になった。私も感動して泣きました。文学性はとても高い。「シイゼエボオイ・エンドゼエガアル」なんていうゴミ小説に比べれば、月とスッポンだ。
学校や試験では、こういう芸術性の高い漫画を読ませるといい。それならば「人の心理を問う」ことの意味もある。ひるがえって、「シイゼエボオイ・エンドゼエガアル」なんていうゴミ小説は、読むだけ時間の無駄だ。また、虫オタクの心理なんて、理解するだけ有害だ。
センター試験(国語・小説)なんていうゴミに比べれば、圧倒的に優れている漫画は、世の中にはちゃんとあるのだ。
[ 余談 ]
「それほどにも、けいおん を勧めるからには、おまえはそれをちゃんと読んだんだな?」
と質問されそうだが……
実は読んでいません。アニメも見ていません。見たのは何かというと、冒頭の Amazon の一部紹介(立ち読み部分)だけです。済みません。
私がちゃんと読んだのは、男性漫画を除くと、「ガラスの仮面」ぐらいかな。下記でも書いたけど。
→ 「ガラスの仮面」最終巻の予想
【 追記 】
漫画を学校で教えることには、別の意義もある。「登場人物の心理を考える」ことのほかに、「ストーリー展開を考える」という勉強だ。それによって、次のことに役立つ。
→ プレゼンで大切なことは?
ここで述べたように、プレゼンで大切なことは、「シナリオ」つまり「あらすじ」「ストーリー構成」である。
それは、プレゼンでは論理的な話の展開だが、小説や漫画のストーリー展開の方法がそのまま援用できる。「起承転結」とか、「話を少しずつ盛り上げる」とか、「読者の意表を突く」とか、「インパクトを与える」とか。
だから、小説や漫画のストーリー展開について学ぶことは、それなりに有益なのである。(登場人物の心理を考えるよりは、ずっと実利的な効果がある、とさえ言える。)
【 関連項目 】
→ 2013年センター試験・国語は悪問
→ 012年のセンター試験・国語は愚問
→ 国語と文学を区別せよ