2013年02月08日

◆ 国語と文学を区別せよ

 国語と文学とは、はっきり区別するべきだ。国語の試験で文学を扱うべきではない。 ──
    ( ※ 本項の実際の掲載日は 2013-02-11 です。)


 高校生向けの試験を出すのは、大学の文学部の教授であるようだ。そのせいで、「国語の問題の内容は、大学文学部の内容とダブる」というふうに考えるのが普通だ。
 しかし、それは妥当ではない。

 この件は、前項で次のように述べた。
 国語の問題に「小説の登場人物の心理」を問うのは、あまりにも理不尽なことなのだ。それは国語とは関係のない問題だからだ。
 ちなみに、同じ例を国語ではなくて漫画で描くこともできる。その場合、「登場人物Aはどういう心理であったか?」を問うとして、それが漫画力のテストとして役立つか? 絵の上手下手と何らかの関係があるか? もちろん、関係はない。
 国語力というのは、漫画で言えば画力に相当する。その能力だけを問えばいい。一方、小説にもマンガにも映画にも共通するような能力(ストーリーやキャラ設定の能力)は、小説の能力とはあまり関係がない。
 国語の試験というものは、あくまで言語的な面だけを扱えばいいのであって、ストーリーやキャラの分野(特に心理)に踏み込むのは、大幅な逸脱なのである。
 どうしてもストーリーやキャラの質問をしたいのであれば、いっそのこと、小説を扱うのはやめて、アニメか長編漫画でも使えばいい。たとえば、「けいおん」を見せて、「あずにゃんはどうして放課後のティータイムにコーヒーを飲みたくなったのでしょう?」というような質問をすればいい。
 馬鹿げている? 確かに、馬鹿げている。しかし今の国語の問題というのは、こういうレベルなのだ。
 小説の登場人物の心理を問うというのは、文学部においては重要なことだ。なぜなら、文学部は言語芸術を扱う学部であるからだ。そこでは、映画や漫画におけるストーリーやキャラ設定が重要であるのと同様に、小説のストーリーやキャラ設定が重要である。
 とはいえ、文学部ではそれが重要だからといって、国語においてもそれが重要だとは言えない。
 なぜか? それは、国語とは、小説理解や小説執筆のためにあるのではなく、一般人の基礎教養だからだ。国語とは、あらゆる分野においても基礎的な能力としての言語力を養う勉強だからだ。
 一方、ストーリーやキャラ設定は、小説や映画や漫画においては重要だが、一般人にとっては重要ではない。なぜなら、一般人は、小説や映画や漫画を読むことはあっても、自分で作ることはないからだ。ストーリーやキャラ設定は、読んで面白がっていればいいのであって、いちいち研究する必要はない。それを研究する必要があるのは、自分でそういうものを作る人だけだ。

 ここまで言えば明らかだろう。
 国語の試験では、「登場人物の心理を問う問題」があってはならないのだ。それは国語の能力を測る問題ではないからだ。(ここまでは前項で述べたとおり。)

 にもかかわらず、この両者を混同する人が多いのはなぜか? その解答が、本項にある。こうだ。
 「それは、国語と文学を混同している人が多いからだ」

 特に、国語教師がそうだ。国語教師は、大学で文学を学んだ人が多い。そういう人は、大学で「登場人物の心理を問う」というような卒論や研究論文を書く。だから、それが国語力だと勘違いする。
 違う。文学と国語とは別のものだ。重なるところも多いが、重ならないところも多い。
 そして、重なると言えるのは、(文学の)言語能力の部分だけなのだ。一方、(文学の)芸術性の部分は、まったく重ならない。芸術性の部分が重なるのは、国語ではなくて、映画や漫画なのである。そして、その芸術性の部分を、国語に持ち込んで、テストに出すというのは、とんでもなく間違ったことなのだ。

 結論。

 高校の教育や試験では、文学と国語とが混同されている。それは、国語教師が、その両者を混同しているからだ。そこでは、「言語能力の訓練」という国語力と、「言語芸術の探究」という芸術趣味とが、混同されている。
 ゆえに、その両者を区別するべきなのだ。
 特に、登場人物の心理を問う問題を、国語の試験問題に出してはならない。
 


 [ 付記 ]
 その意味で、2013年のセンター試験はひどかった。論説文の文章がなかったからだ。とすれば、そこでは、国語力以外のものの方が測定されたことになる。遊んで漫画や映画をよく見ていた人が有利であり、まじめに論説文を読んでいた人は不利となる。
 2013年のセンター試験の出題者は、「遊んで漫画や映画をよく見よう」という、漫画業界や映画業界の後押しで出題したのかも……という勘ぐりをされかねない。
 とにかく、センター試験にこのような傾向が続くのであれば、「若者よ、高得点を狙うなら、硬い内容の本を読むな、漫画を読め」と言うしかなくなるね。
 そのあげく、日本の若者は、硬い内容の文章を読めなくなり、世界で落後する……という結果になるのかも。
 2013年のセンター試験の出題者は、日本の没落を狙っている、北朝鮮のスパイなのかもしれない。
( ※ このような推理力が要求されるかもね。ストーリー展開として。……国語力なんかないがしろで、ストーリー展開とキャラ設定ばかりが優先される。)
( ※ 出題者を誘惑したのは、巨乳で黒髪ロングに純情な美少女だった……というようなキャラ設定にしておこう。こんな感じかな。 → 画像 (出典))
 


 【 追記 】
 なお、国語でなく文学として考えるなら、次のように言える。
 「登場人物の心理を考えるときには、その人物のキャラ設定を理解することが前提となる」
 たとえば、「あずにゃんはどう感じたか?」という設問に対しては、「あずにゃんはどういうキャラ設定をされているか」ということを先に考えなくてはならない。なぜなら、「あらゆる人間が同じように感じる」ということはありえず、「人はそれぞれ別の感じ方をする」という原則があるからだ。 
 このように「人それぞれ」「キャラごとに感じ方が異なる」ということを理解しないと、文学的な理解はできない。
 そして、このようなイロハもわきまえないまま、キャラ設定を無視して、「登場人物はどう感じたか」という設問を出せば、不正解にたどり着くしかない。その例が、前項の「たま虫」の女性だ。この女性のキャラ設定も理解しないまま、勝手に出題者の妄想で女性の心理を想像した。だから設問と解答はてんでマトはずれなものになってしまった(正解がなかった)という結果になった。
 文学の素養もない人間が、文学の問題を勝手に作って、それを国語の問題として出す……という本末転倒なことが起こったわけだ。ひどいね。
 


 【 関連項目 】

 → 2013年センター試験・国語は悪問
 
  → 2012年のセンター試験・国語は愚問

 → 漫画を学校で教えよ
posted by 管理人 at 22:23| Comment(4) | 一般(雑学)1 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
【 追記 】 を加筆しました。
Posted by 管理人 at 2013年02月11日 06:50
全くその通りですね。
だから、本当は設問としては、論説文以外では文学作品なんか使うより、仕事の依頼文(メール形式)とか製品の仕様説明書とか、日常的な文章使う方がいいんですよ。
もっとも、そういった文章はより高度な論理構成力が求められることが多いので、出題者には荷が重いでしょうけど。

ちなみに、現代国語の問題を解くには、作者の気持ちは「考えず」、出題者の気持ちになって「どういった答えを求めているか」を考えて答えを出す必要があります。
そうするには、出題者の人物像を想定する必要があるのですが、私は経験的に頭の固い論理力の低い人間を想定していました。
だから、現代国語はかなり得意でした。

そう考えると、今年の国語問題にはまった人ってのは、受験テクニック的に出題者の意図を読むことに長けた人だったのかもしれません。
名文だっただけに、出題者の意図が入り込む余地がなく、まともに文章を読み解く必要があったのが、普段ちょっといい点を取っている人がはまった原因かも。ずれてたらごめんなさいですが。
Posted by T.M. at 2013年02月12日 00:48
T.M.さんのコメントにある「想定」は大昔に塾の講師のバイトで使っていました。懐かしいです。面白い答ではなく、先生が欲しい答が正解だ。自分の感情は忘れろ。と言う感じでした。
仕様書や指示書、随筆やコラムではない記事を読み解く力を求めた方が「国語力」を測る試験ですね。
手紙でも良いのですが、簡素なビジネスレターであるべきでしょう。
文章にない意図を読解させるからおかしくなる様な気がします。
Posted by 京都の人 at 2013年02月13日 07:42
貴ブログ愛読者です。感想のみで失礼します。
小生も小学生の頃から、今回のようなご指摘部分に関して「国語は学問と認めないぞ!」とわめいていました。
個々の「感じ方」については自由であり、その自由であるという点自体が文学のおおきな要素として含まれると考えていましたので。
本項のような形で整理された批判を目にし、言い表しようのない、じんわりとした喜びを感じました、という感想です。

失礼しました。
Posted by ねもげん at 2013年02月13日 13:52
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